『言論の自由・表現の自由』について
今、こうしてこんなエッセイを好き勝手書けているのは、すべて表現の自由があるからです。
もし、表現の自由が無ければ、こんなエッセイは取り締まられてしかるべき内容になっていますよね……。
このエッセイだけではなく、もし表現の自由・言論の自由がなければWeb小説、書籍や色々な芸術作品すべて取り締まられる可能性があります。
正に『図書館戦争』の世界。
考え方にもよりますが、そんな世界ディストピアです。
表現の自由は昔の人々が勝ち取ってくれた権利です。
この権利なくして、民主主義はありえないわけですよ。
けれど、けれどですよ……。
表現の自由だからと、誹謗中傷や差別は許されるのか? とも思うのです。
ネット上には行き過ぎた差別の言葉、誹謗中傷、巷にはヘイトスピーチなどが結構あります。
誹謗中傷などが原因で自殺した人、差別などで自殺した人は数えきれないほどいます。
はい、ここで問題ですが、表現の自由だからと表現はどこまで許されるのか?
差別や誹謗中傷をして、他者を自殺に追い込む結果になっても、差別や誹謗中傷をした不特定多数の人々は罪にならず、表現の自由だからと許されるのか?
すべては「いじめられる方も悪い」みたいに、誹謗中傷、差別される人も悪いのか?
だから、誹謗中傷や差別を受け入れろとなるのか?
差別や誹謗中傷は必要悪なのだろうか?
表現の自由だからと誹謗中傷などは容認できるか?
まず結論を先に書きますが、誹謗中傷や差別は必要悪であり、これを無くしてしまえば社会が機能しなくなるので、なくすことは不可能です。
誹謗中傷や差別的表現を取り締まるようになれば、このようなエッセイもきっと引っかかってしまうでしょう。
そして誹謗中傷や差別をして誰かを叩くことで“見せしめとなり”異分子となる個体を抑え込む効果と、溜まったフラストレーションの発散になり、現実世界で反社会的な行動が少なからず抑制されていると思うので程度の問題はあるにせよ必要悪とするしかありません。
実際このネットでのフラストレーションの発散が、現実世界での犯罪をかなり抑制していると思います。
だから、差別や誹謗中傷をなくそうとするのではなく、自分が差別や誹謗中傷をされないように注意する方がまだ現実的です。
人間とはときと場合によって残酷で、自分よりも弱者と思われるものに当たる傾向があります。
脳科学者の中野信子さんの「ヒトは「いじめ」をやめられない」という本に、どうして人間はいじめをしてしまうのか、というメカニズムがいくつも丁寧に書かれているのですが、この誹謗中傷や差別の問題にも通じます。
人間が「いじめ」をするのは『裏切り者検出モジュール』『サンクション』『オキシトシン』などが原因だと言われています。
今回は表現の自由がテーマなので、深くは触れませんが“裏切り者検出モジュール”とは、異分子を見つけ出す能力があり、“サンクション”とは言わゆる「出る杭は打つ」制裁を与えることです。
誹謗中傷や差別をする人を脳科学的に説明すると、モジュールが異分子を見つけ、制裁を与えたいと脳が命令を送るのです。
誹謗中傷もいじめと同じですから、誹謗中傷や差別をしている人の頭の中では、快楽物質であるドーパミンが大量に分泌されているわけですね。
いじめは一対一では起きないように、こういう誹謗中傷が起こるのは多勢に無勢の状況です。
例えば芸能人などが失敗を冒すと、待ってましたとばかりに叩きますよね。
どうして、そのようなことが起こるのか?
それは妬みなどの人間の負の感情が動力になっているでしょう。
つまり、日ごろ溜まった芸能人に対する妬みの感情を、ぶつけているのですね。
誹謗中傷を行っている人たちは、正義を実行していると信じて疑いませんので、そこに数人「そんなことをするのは良くない」と言い出す人が現れると、裏切り者検出モジュールが反応して、そんなことを言い出した異分子を叩く構図になっています。
「長い物には巻かれろ」「郷に入っては郷に従え」というように、最大多数の秩序こそが正義であり、少数の正義は悪になります。
まさしくいじめの構図ですね。
ヒトは「いじめ」を辞められないのです。
なぜなら、いじめは気持ちのいいことだから。
そのことを認めたうえで、いじめ=差別や誹謗中傷を辞められないのなら、秩序を作りどこまで表現の自由を認めるべきか? 決める必要があると思うのです。
例えば小動物に当たり、犬や猫などが殺されているという事件があると思いますが、あれは溜まったフラストレーションの発散行為ですよね(例外はあります)。
そのような犯罪者を擁護するつもりではないですが、そのような犯罪者も犯罪に走ることになった理由を抱えているわけです……。
どこにもぶつけることのできない、発散することのできない鬱憤をそういう反社会的な行動で発散してしまう。
つまり、誹謗中傷や差別でも言えます。
発散することのできない鬱憤を、誹謗中傷で発散してドーパミンを分泌させる。
そのような弱い者をいじめたり、他者を不幸にする誹謗中傷などで発散方法は良くないです(そういう場合はゲームやスポーツなどをして健全に発散してもらいたいものです)。
フラストレーションは必ずしも悪いものではなく、例えば創作という行為にはフラストレーションの発散が必要なのです。
それなのに表現の自由が規制されたら、めっちゃ困ります……。
だから、できることならフラストレーションを発散するなら、創作やスポーツ、自分の好きなことで反社会的にならない行為なら何でもいいですから、誹謗中傷や差別をしたいという気持ちになっても、違うことで発散して欲しいですね。
表現の自由が規制されてからでは遅いのですから。
規制されたら面白い物語や、こういうエッセイも読めなくなるかもしれないのですよ?
と、ここまで理想論を語って来ましたが、現実はそんな理想論ではどうすることもできませんね……。
巷には、特にネット上には行き過ぎた差別や誹謗中傷が溢れている現実がありますから。
そのようなネット社会は無法地帯の世紀末と同じです。
モヒカン族が「ヒャッハー!」いいながらうろつき回っているようなものです。
人間が別々の脳を持つ個人であるからには、真にわかり合うことができないので、誹謗中傷や差別をなどの争いをしてしまうのですよ。
物語などでは人間はわかり合うことができて、世界は平和になるというハッピーエンドの話がありますが現実の人間は違います。
人間は例外なく利己的であり、自分の考えだけが「正しい」と思う生き物です。
どれだけ正論を言われても、自分でも相手の考えが正しいとわかっていても、自分が納得しない限り受け入れることができません。
今では当たり前になっている、「地球は丸い」や「地球は太陽の周りを廻っている」ということも、受け入れることできず、正しい主張をしている人々を何人も殺しています。
どれだけ証拠を見せつけられて疑いようがなかろうと、人間は自分の考え以外を受け入れることのできない傲慢な生き物です。
結局最後は『ドラえもん』で言うところのジャイアンのように力の強い者の主張こそが正義になります。
つまり数こそが正義とも言えます。
キリスト教でいう七つの大罪でも、『傲慢』こそが一番重い罪とされている通り、傲慢な人間はわかり合うことができず、争いが生まれるわけです。
ホッブズは人間は自然権を持っていて、個人が自然権を行使し合えば争いが生まれると説きました。
この状態を「万人の万人に対する闘争状態」と言われています。
そのような状態にならないためにも、国家が法を作り、自然法の中で人間の生命を保証するようになりました。
これが民主主義の根幹をなしているわけです。
ですがネット社会はどうでしょう。
ネットの中では、自然法(法律)がちゃんと保たれているでしょうか?
インターネットが普及したのは人間の長い歴史で見れば、つい最近のことですので、つまり、ネットはまだ個人が自然権を行使し合い、万人の万人に対する闘争状態にある原始時代のままなわけですよ。
私も性善説を信じたいですが……人間の行いを性善説にゆだねていれば必ず乱れます……。
だから、ちゃんと法律を作り、表現の自由にもちゃんと規定ラインを決めるように、これからの時代はなって行くかも知れません。
中国ではすでに言論統制されていて、ネット上でも言論を取り締まられているので、民主主義国家の日本でも言論の統制がされない保証はありません。
どこまでの表現なら許されるかちゃんと規定を作らなければ、いじめが無くらないように、ネット上の誹謗中傷や酷い差別はなくらならない。
人間を統制するには強大な力が必要です。
ホッブズは国家が人間を統制するべきだと言っています。
人間を統制するには強制的に国家が法律を作るしかないのですよ。
ですがそうすれば、ネットで誹謗中傷や行き過ぎた差別の言葉を書き込んでいる人のフラストレーションを溜めることになってしまい、反社会的な事件、バタフライ効果的に増えるかも……。
問題はどちらを取るかですね。
ネット上での差別や誹謗中傷を必要悪だとして容認するか、行き過ぎた差別や誹謗中傷を規制して、自然権から自然法に押し上げるか。
もし表現の自由、言論の自由が規制されれば、政府にとって都合のいいことになってしまう場合もあるから難しい問題です。
民主主義が脅かされますね。
私が言っているのは、そのような政府に都合のいい言論の自由・表現の自由の規制ではなくて、どう考えても道徳的・倫理的にやり過ぎている、つまりやり過ぎた制裁だと思われる言論は規制するべきだと。
この世には答えの出せない倫理的問題が沢山あります。
それらを判断するのは結局人間で、そのためには道徳的、倫理的な判断ができる良心を育む必要があるのです。
結局どんな言葉や態度でも、悪意ある言い方、接し方をすることができるので、根本的な問題は差別的言葉や態度というよりかは人間の良心なのですよ。
人間の性善説=良心が良ければ、差別や誹謗中傷を学ぶことによって「この言葉や態度は使っちゃいけないな」と減らすことができますが、人間の良心が悪ければ差別や誹謗中傷に当たる言葉や態度を使わなかったとしても、悪意を込めることができてしまうのです。
この世界に生きるすべての人が、倫理的、道徳的にできた人間であることは望ましいですが、多様性がある限りはいろいろな人間がいて当たり前で、それは良いことだと思うけれど、そういう負の部分に関しては難しい……。
そのようなネット上で他者を傷つける人たちのせいで、せっかく昔の人々が頑張って勝ち取った表現の自由を、現代人の野蛮な言動で再び失ってしまう危険もあります。
根の深い問題です。
例えストレスの発散、あるいは正義だと思って制裁を与えてやるつもりで誹謗中傷や、差別をしている人はよく考えて欲しいですが、人間が長い戦いの末、やっと手にした表現の自由を自分から手放そうとしていることを。
このままでは、数年、数十年は大丈夫でも、表現の自由に規制をかけられるのは時間の問題だと思うのです。
誹謗中傷や差別の言葉を規制するという名分で法律を作られれば誰も反論できないですよ。
そうなれば、差別や誹謗中傷の規制だけでなく、政府にとって都合の悪い発言も規制されるようになる可能性もあり、民主主義は崩壊します。
そうならないためにも、暗黙の了解として現実だけでなく、ネットでもマナーを守りましょう(おまえが言うか、という話ですが……)。
結局最後は良心=性善説に頼るしかないのですが……。
今回ちょっと参考にさせてもらった中野信子さんの『ヒトは「いじめ」をやめられない』という本、とってもとってもためになるので、どうして人間はいじめを辞められないのだろうとか、いじめが起こるメカニズムなどを知りたい方は読んでみてください。いじめや誹謗中傷、差別などを減らす大きな一歩は、まず“知る”ことなのです。いじめや差別が起こる原因の一端は知らないから。人間は知らないものを恐れるのですから。この本はもっと多くの人に読んでもらいたい内容になっています――。




