『読書』について
みなさんは読書が好きですか? 私は好きですよ!
Web小説サイトを利用しているということは、あなたも読書が好きなのでは?
今回も比較的明るいテーマを書きましょう。
そう今回は『読書』について、語っていきたい。
最近はSNSなどで短文に慣れ過ぎた余り、長文が読めなくなって読書をする人が少なくなっている、という話を聞きますがどうなのでしょう?
ネットを利用していると、読書に集中できないことってありますよね。
逆に小説などの読書人口は減っているが、漫画などは増えているとも聞きますね。
最近はスマホやタブレット、あるいは電子書籍リーダなどで、電子書籍などで読んでいる人も多いですね。
電車などでもみんなスマホをいじっているので、漫画でも読んでいるのか? SNSかゲームか?
と、まあ確かに、図書館などで借りるならともかく、紙の本を買うと場所とるから、本を買うの躊躇してしまいますよね。
別に邪魔になるってわけじゃないけれど、いっぱい溜まってくると整理するのが大変です。
読んだ本も思い入れができて、なかなか手放せませんし……。
文庫本ならまだいいですが、漫画とは単行本はすぐいっぱいになってしまいますからね~……。
だから、電子書籍にしようかと私も思った時期がありましたが、紙じゃないと読んだ実感が得られないんですよね~……。
漫画なら電子でもいいと、まだ妥協は下のですが(漫画も紙で読めるなら、紙が良いですけど)、やっぱり小説はね、紙でじっくり読みたい派です。
とまあ、関係ない話はこのくらいにして、どれだけ読書人口が減ろうと、紙の本がなくなろうと、これから先何百年経とうと、読み物が無くなるというのは想像できないから、たぶん、細々とでも読書家は居続けるはずです。
読書とは人間が生きていく上で切っても切り離せないものですから。
とにかく本を読め、という言葉はみなさんも耳にタコができるほど聞いてきたことでしょう。
どうして、本を読まなければならないのか?
と、疑問に思ったことありません?
読書が好きな人ならともかく、それほど好きでなない人もいるのだから、別に読みたくないなら読まなくていいじゃん、と反抗したくなる人もいるでしょう。
ということで、今回は、どうして人間は読書をする必要があるのかを考えていきたいと思います。
どうして読書が良し、とされているのか、いくつかの例を挙げると――
読解力が高る。
語彙力が上がる。
文章力が向上する。
コミュニケーション力が向上する。
想像力がつく。
新しい価値観を得られる。
思考力が向上する。
記憶力が向上する。
アイデアが得られる。
などが挙げられ、読まない人からしたら、いくら利点を挙げても「それが何?」という感じでしょう。
人に、あれ読め、これ読め、と押し付けられた本はどれだけ面白い本だろうと、読みたくなくなる、それが人間の心理ですね。
正直、今のネットの時代、本を読むよりネットで調べた方が、より早く、より多くの知識が得られるのだから、わざわざ読む必要はないのでは? と思うこともあるでしょう。
別に、本を読まなくてもコミュニケーションある人は始めからあるし、ない人は本を読んでもコミュニケーション力が、それほど上がるとは考えられない。
コミュニケーションなどは本で学んだところで意味がなく、実戦で磨くしかないのだし、思考力や文章力だって、SNSとか、ちょっとしたやり取り、あるいは簡単な報告書とか書くくらいなら、小説や論文などを書く必要がない限り事足ります。
確かに読解力や語彙力、想像力、新しい価値観などは得られるかも知れませんが、恩恵はそのようなものでしょう。
その恩恵を受けるには、他の時間を消費して結構な時間を読書に費やさなければなりません。
その点、YouTubeには本要約動画が沢山あるし、ネットサーフィンすれば要約してくれているサイトもあり、読書をするよりもすぐ、より多くの本の内容を知ることができます。
それを見ていれば話しの種には困らないわけだし、そんな時代に生きていて、どうして本を読む必要があるのか?
それは、「読むのが好きだから」「楽しいから」「フィルター越しではない深い知識が得られるから」「新しい価値観が得られるから」です。
そうです、「新しい価値観が得られる」というのは最も大切なことだと思います。
どうして無意識の差別などが起きるのか、それは知らないからですし、どうして、他者の考えを受け入れられないのか、それは自分の考えだけが正しいと思ってしまうからです。
差別を減らす大きな一歩は、まず知ることなのですから。
他にも、確かに本要約動画や、ネットで要約を見れば、話はわかるし多くの知識を得られるけれど、それは本要約動画や、サイトを作った人の主観が入ったフィルター越しの知識です。
このエッセイでも私の主観フィルターを通して語っている訳ですし、それが悪いと言っているのではありません。
読む人によって十人十色、感じ方は人それぞれですし、自分の考えを発信できる表現の自由があるわけですから。
ただ実際に、自分で原作、原本を読んで、自分独自の解釈ができるのは読書です。
読書とは、作者と読者の対話だと言っても間違いではないかもしれません。
もし、周りに本を読むより深い知識を教えてくれる人がいるならいいですが、なかなか身近な人間関係で、深い話などすることはありません。
不思議なことに現実で深い話をすると「何言ってんだ?」みたいに違和感を感じるのに、活字にされた言葉にはそんな違和感を感じないのですよ(私だけですか?)。
会話などは受動的にでもできますが、読書は能動的にするからなのか? 理由はわかりませんが、活字にされた言葉の方が響きます。
例えば、親が子供に教えてあげられることなど限られていますよね。
だから、専門の先生に頼ったり、自分が教えてあげられない知識を本で蓄えて欲しいと考えるのです。
ちょっと、自分の立場になって考えてみてください。
もし、あなたは親で子供に何かを教えてあげたいと思っても、あなたが教えてあげられることなど、たかが知れています。
そういうとき、学校の先生に必要な知識や価値観を教えてもらうのと同様に、本からも学び取って欲しいと思うはずです。
だから、本を読めというのです。
教えてあげられない知識や価値観を知って欲しくて、本を読めというのです。
読書をするとは知識や、今挙げたような利点を得るためではなく、自分と向き合う、ゆったりとした時間を過ごすことです。
当たり前ですが、まず読書は一人でしかできない。
いや、できないではなく、ほぼ一人でしかしない。
現代はいついかなるときでも、誰かと繋がっていたいという心理になると思うけれど、一人の時間が欲しいな、と思うときもある。
ありますよね?
そんなとき人は読書をするのです。
幸福のフロー心理学という学問がありますが、人間は何かに没頭して熱中しているとき、つまりフロー(ゾーン)状態のときが一番幸せなときだと説かれています。
仏教の開祖である釈迦も、悟りとは夢中=ゾーン状態であると説いているのだと私は解釈していますし。
読書とはそのフロー状態になるための手段なのですよ。
実際、読書好きからしたら読書は面白いのだから、時間を忘れるほど没頭できるわけじゃないですか。
小説や漫画のストーリーはいくら要約されても、面白くないと感じるように、ちゃんと原作を読んでこそ、描写や文体、物語を細部まで楽しむことができる。
当たり前だと思われるかもしれませんが、読書は知識を得るためというよりも、読んでいるという過程を、読んでいる時間を楽しむ行為なのです。
学術書なら、要約する過程で削がれてしまった箇所を読むことができ、フィルター越しではないクリアな自分独自の解釈ができて、より理解が深まり、自分の知識にすることができます。
浅く広くの知識を求めるならフィルターのかかった、ネットの要約で構わないですが、深い知識を得たいならやはり、ネットで情報を集めるより読書に勝るものはありません。
ネットであらかた調べて、それ以上の知識が得られないと思ったら、専門書を読んで深い知識と思考を得ればいいのです。
話は変わりますが学校の国語の授業で、「作者の伝えたかったことは何だった?」みたいな読解を強要されるたことがあると思います。
ですが、どれだけ、意味をくみ取ろうと、作者が作品に込めた想いなど、どれだけ頑張って考えても理解することなんてできるわけないじゃないですか。
確かに、表面上の作者が伝えたかった意味はくみ取れるかもしれませんよ。
けれど、読書なんて十人十色じゃないですか。
つまり、同じものを読んでも、読む人によってみんな感じ方が違って当たり前なんですよ。
読解に置いては、「真実はいつも一つ!」みたいに正解を決めてしまうのはどうかと思うのですよ。
カントは、「絶対に到達できもしない真理を求めるなど不毛なこと」と言っています。
そうです、これも『他我問題』的で、どれだけ私たちが作者の意図をくみ取ろうとしても、私たちが作者ではないのだから、真の意味をくみ取るなどできないのです。
作者が一元的な一つの意図を作品に込めていたとしても、作者の手を放れ、他我である読者が読めば、多元的に枝分かれするのです。
そう考えると、読書とは系統樹のように、多くの他我である読者によって枝分かれして多様性を増すと言えなくもないですね。
それが二次制作などの読んだ人の解釈が加わった新たな思想=本ができるのです。
例えば聖書の物語とかでも、旧約聖書が先にあり、新約聖書という二次制作が生まれたわけじゃないですか。
新約聖書という二次制作から、コーランのような三次制作が生まれています。
その原本の旧約聖書ですら、別の制作品から色々な要素を引き継いだものです。
つまりですね、書物=思想も系統樹的に受け継がれていくものだと思うのです。
私が語っている言葉も、私が書いてきた物語も、本当に私のもの(アイデンティティ)なのかわからなくなることがあります。
今まで観てきた、読んできた作品の影響が少なからず、知らず知らずのうちに反映されて創られているもので、本当の私はどこにいるのか?
考え方によれば、二次制作、三次制作でしかありません。
ですが、今までインプットしてきたものを分解し、新たに再構築して創られた作品は間違いなく私の一次制作だとも言えます。
私の作品は、私以外では創れなかったものであると肯定します。
なんか意味わからなくなってしまいました……。
回りくどくなりましたが、結果=正解などないということです。
昔の文豪の思考パターンと同じAIを作り出して、答えを聞いても、それは真の答えではないのですよ。
作者がどのような意味を込めていようと、読む人が違えば違った意味を感じ取るのです。
読書に正解などない。
だから、何が言いたいかって作者の意図などくみ取ろうとせず、どのような作品も好きに読めばいいということです。
そして、読んだあなたの独自の解釈をすればいいのですよ。
と、まあ、話がそれてしまったが、現代では他にも楽しいことが沢山あるから、読書をする以外に有意義な時間の使い方があるのなら、そちらを優先すればいいですよ、と無理強いはしませんけど。
本来読書は娯楽としてあると思いますから、嫌々読書をしたって内容が頭に入ってくるわけないし、読書をしている時間が苦痛以外のなにものでもないのなら、違う娯楽を優先した方がいいと思いますよ。
と、何か、身もふたもない話になってしまいましたね……。
読みたくないなら読まなくていい、と言いましたが、やっぱり読書は色々な発見があり知的好奇心が満たされるし、新たな価値観が得られることで、差別や偏見などを無くす足がかりになると思うので、できるだけ読んだ方がいいですが……。
そういうわけで、どのように本を選べばいいのかを語って見ましょう。
中には読みたいけれど、どういう本を読んだらいいか、わからなくて悩むという人もいるのでは。
そういう話になって良く挙げられる答えになっていない答えが、「良書を読め」ですね。
そりゃあ、誰だって悪書よりも、良書を読みたいですよ。
どのような本が良書なのかわからないから困っているのですから。
ではどういう本が良書なのか?
そこでまたまた決まって挙がるのは、昔の古典ですね。
確かに反論しようもなく、昔の古典は時の洗礼を受けて生き残って来た英知の結晶たちですから、読んでハズレはまずないでしょう。
ですが、普段読書をしない人からすれば、良書を読め、それも古典と言われてもハードルが高すぎる……。
普段からよく読書をする人からしても、古典と言うのはハードルが高くて殆どの人が読んでいないと思います。
私の考える良書とは、古典ではなく、自分が読みたいと思う本が良書だと思うのです。
自分が読みたい本を読め、です。
読書とは娯楽と考えているのでね。
確かに中にはくだらない本があるけれど、そういう本でも人間は何十億人といるのだから、読みたいと思う人が必ずいるはずなのです。
全然答えになっていませんが、十人十色、どんな本がいいとか、薦められませんね。
このエッセイで一貫して説いていることですが、相対主義的で正解の読書などないのだから、好きな本を読めということですよ。
だからまず、情報収集しなければ読みたい本も見つからないので、YouTubeとかサイトでオススメ本の書評を見てみてはいかかです?
一度読みたい本が見つかると、数珠つなぎ的に次ぎ読みたい本がいつの間にか見つかっているものですよ。
読書は勉強ではなくて、ただの娯楽なのだから楽しみながらするもの。
私はそう思っています。
私は楽しいから本を読む。
生きている限りは、本を読む。
自分を磨くためでも、知識を得るためでもなく、ただ退屈な時間を埋めるため、楽しむために本を読み、考えを深めて、相対主義的に色々な考えを受け入れられる多様性のある人になりたいので、読むのです。
好きな小説や漫画などを読んでいるときは、心が満たされている気分になる。
読書をすると、色々な人の考えに触れるので心が広くなる。
読書の一番の利点とは、人として大切な心を育てることだと思います。
楽しんだ結果、読書の利点が得られるのなら、それ以上のことはありません。
そして、色々なことをインプットして、あなたの解釈を経て、新たな何かが生まれるのです――。
今更ですが、文体を文語体ふうから、口語体ふうにこの前から変えています――。いやね……ただでさへ重いもん書いてるのに、これ以上重くしてどうすんだって思ったのですよ。紛らわしくてごめんなさい……。そして、こんな重い話を読んでくれてありがとうございます!




