『文学』について
本を読んでいるとき、「これって文学なのか、大衆小説なのか?」って、気になったことはありませんか? 今回は、そういう疑問を私的に考えてみました~。
文学とは言わずもがな、文字によって表現される学問、芸術のことですよね。
詩、俳句、小説、などなど、美しい比喩や、文字による表現、文字による物語。
それらすべては、文学です。
Web小説サイトを利用しているのなら、あなたも何か書いたことがあるかもしれません。
一般人にとっても、もっとも身近な学問は文学と言っても過言ではないと思います。
文字による表現ならすべて文学と言えなくもない。
文による、芸術、文芸。
なら、ライトノベルとかでも文学ということになりますが、たぶんかなりの人たちが、ライトノベルを文学とは認めていないのではないでしょうか(そう思うのは私だけ?)。
大多数の方が思うのは、純文学こそ文学と言う認識では?
そのような区別を『純文学』『大衆文学』というふうに大まかな分類がされています
まあ、人によってどこからが純文学で、どこからが大衆文学なのかまちまちだろうけれど……。
近年では更に『一般小説』と『ライトノベル』というふうに分けられていますね。
どれも文字によって表現された文学なのだけど、一般小説、ライトノベルという分類があるように、一般小説、ライトノベルは文学として認められていないらしいです。
では、何をもって文学とし、何をもって一般小説、ライトノベルと分けられてしまうのか?
扱うテーマなのか?
例えば、死についてだとか、罪と罰、神、人間の弱さ、愛などなどの哲学的テーマを扱えば文学なのか?
けど、一般小説やライトノベルでも、人間の弱さ、罪と罰、死や愛などという哲学的なテーマは必ずと言っていほど扱われいているから、それも定義ではないと思います。
一人称か三人称の違いか?
これも違うと思う、一人称だろうと三人称だろうと純文学と呼ばれる作品もあるし、呼ばれない作品もあります。
ではジャンルだろうか?
Web小説サイトのジャンルにも、純文学やハイファンタジーなどのジャンル分けが選択できるようになっているし。
いや、それも人それぞれで純文学のジャンルだろうと、私的に「純文学らしくないなぁ……」と思う作品もあれば、ハイファンタジーのジャンルでも「これめちゃ純文学的だな」と思う作品もあります、ということで、ジャンルでもない。
では、文体?
文学と表される作品は、文体が綺麗であったり、比喩が巧みだったり、心理描写、情景描写が上手かったりする印象があります。
一方、一般小説やライトノベルでは心理描写や情景描写を減らして、会話文が多い印象ですね。
けど、一般小説やライトノベルも、綺麗な文章、上手い比喩、心理・情景描写がされている作品も多い。
中には文章が硬いか、柔らかいかという理由でジャンル分けがさていると思っている人もいると思うけれど、私はそんな理由でジャンル分けされているのではないと思います。
昔の純文学だったらともかく、現代純文学では結構会話文も多いし、作者によって描写をどこまでするかも違ってくるので、これも当てはまらない。
その証拠にノーベル文学賞候補に挙がる、日本を代表する小説家であり、文学的だとよく評される村上春樹さんの作品を例に挙げると、彼の作品を読んだことがある人ならわかると思いますが、決して堅くない。
どちらかというと、掴みどころのない軟体、粘っこさが感じられる。
心理描写や比喩は上手いと思うけれど、綺麗な文章を書く人なら彼以外にも沢山いるし、情景描写などを細かるするタイプの作家さんではない印象があります。
なのに、どうして、村上春樹さんしか日本でノーベル文学賞の候補にならないのか?
日本にはもっと、純文学的なことを書いている人が沢山いるのに?
まあ、それだけを例に挙げて判断するのもよくないですね。
つまり、文章の硬さや綺麗さ、心理・情景描写の良し悪しで必ずしも、文学的かそうでないかが決まるわけではないのです。
では、どうして、同じ文字によって表現されているのに、ライトノベルや一般小説は文学と認められないのか?
突き詰めて考えていくと、結構不条理だと思います。
そのような不条理を感じていたとき、「起承転結に縛られていない作品が純文学」と、ある動画に出ていた羽田圭介さんが言ったのを聞いて、私は納得しました。
そうか、純文学と一般小説を分ける定義は物語に起承転結があるかないのかなのか、と。
つまり、カフカやカミュなどで知られる、不条理文学と呼ばれる作品などは、間違いなく純文学です。
その定義で考えると、村上春樹さんの作品はプロットを作っていない、と言われていますが、伏線回収をしていなかったり、変な終わり方をしたり、不思議なストーリーの話がよくあります。
つまり、純文学とは起承転結、序破急のような構成に縛られない、自由な作品ということなのでは(それだけが定義ではないけれど)。
だから、「純文学はわかりずらい」と言われるのでは?
現代アートとかもそうだけれど、常識に縛られない作品はわかりずらいのです。
人間は単純明快を求めるようになっているから、仕方のないことだけど。
その定義で考えると、ミステリだとか、ファンタジーなどの人気ジャンルも、すべて大衆文学という起承転結のしっかりした、娯楽性に重きを置いている作品です。
ライトノベルとかも、ただわかりやすいように、そのようなジャンルが作られただけで、大衆文学という認識になるのです。
「ライトノベルは文学じゃない!」と言う人がいますが、一応ライトノベルも大衆文学だと言っても間違いではないです。
これが、今現在の私の文学に対する定義にしています。
と、まあ、文学などと固く考えずに、自分の感性に合い、これ文学的だなと思う作品なら、誰が何と言おうと文学で間違いないのですよ。
結局、アートなどと同じで、偉い人が文学だと言えばそれは文学になるということだと思いますね。
多数決の原理で言えば、最大多数の人が純文学と言えば純文学、大衆小説と言えば大衆小説になります。
明確な定義などないのだから、正直ジャンル分けなど、読みたい作品、読ませたい作品を探しやすくするカテゴライズ以外の意味はないと思う。
どのような本だろうと、読むことで読書の恩恵は得られるだろうし、書いている人は時間をかけて、何かを伝えたいと思って書いているわけで、何らかの発見はあるはず。
だから、難しく考えずに、好きなものを読めばいい。
どのような文学だろうと、読んだ人が何かを見つけられたり、読んでいる間楽しめたのなら、それでいいのです。
なんか、グダグダに終わってしまいましたね……。けれど、読む人によって十人十色、感じ方が違うのだから、「純文学や大衆小説のジャンル分けは人それぞれ」という結論しかないと思いますけどね。




