25.それぞれの決意(2)
耕平は航空便で送られてきたばかりの分厚い資料に目を通していた。
勇樹の自閉症を確信して以来、発達障害児に対する教育機関、療育施設について
独自のリサーチを続けてきた。三歳になれば診断が確定する。
出来るだけ早い段階から勇樹には最高の環境で最大の教育を受けさせてやりたい。
そのためには少々の犠牲を払う覚悟もできている。
耕平はアメリカへの移住を考えていた。
障害児教育に関しては日米の間には雲泥の差がある。その研究や指導者の人材
育成にかけられる公的機関の予算、民間団体の規模も比較にならない。
意識の面でも日本では障害児やその家族に対してまだまだ根強い差別と偏見が
残っている。
杏子は依然、息子の障害を受け入れられず真っ直ぐ向き合おうとはしない。
彼女の両親も可愛がっていた孫が自閉症である事実に困惑しきっている。
「なあ、舞… パパと勇樹と三人でアメリカで暮らそうと思うんだけど、嫌か?」
「……」
来年には小学四年になる舞は父親の突然の言葉にキョトンとしている。
僅か一年のアメリカ生活だったが、さすがに移民で成り立つ国だけあって
排他的な島国日本にはない、あの国の持つ自由な風潮、人々の寛容さには敬服
させられた。同時に、外国で暮らしていると日本独特の文化や伝統というものを
客観視でき、日本人であることを見直し誇りに思う機会に何度も遭遇する。
新しい環境に順応するまで時間はかかるかもしれないが、健常児である舞に
とってもアメリカ生活は将来必ずプラスになると耕平は確信している。
「アメリカで暮らせば、ママに逢える?」
暫く考えていた舞は父親の顔を覗き込むように言った。
「そんなに、ママに逢いたいのか?」
「う。」
舞は大きく頷いた。
「でもな、ママはもう… 」
「わかってる、ママはもうパパの奥さんじゃないこと。でも、逢いたい!」
これまで一度も逢いたいと口にしたことのなかった娘がきっぱりと言った。
物心つかないうちに実母の陽子と死別している舞にとって、亜希は実の母親以上
の存在だった。彼女も舞のことを本当の娘のように可愛がっていた。
まだ暗いうちから毎朝、料理の本と睨めっこしながら幼稚園に持たせる弁当を
作っていた亜希の姿と、小学校の遠足にコンビニの弁当を平気で持たせようと
する杏子の姿がだぶる。一度ならず二度までも愛する母親を奪われた娘が不憫で
ならない。
「よっし、今度の春休み、ママに逢いに行くか?」
「ホント、パパ!?」
舞のこんな明るい笑顔を見るのは久しぶりだった。
耕平は今更ながら自分が娘から奪ったものの大きさを実感させられた。
* * * * * * *
「俺としては、勇樹の母親である君にも一緒に来てほしいと思っている。けど、
強制するつもりはない」
耕平はアメリカ移住の意志を妻に伝えた。
「私が嫌だって言えば、シングル・ファーザーとしてアメリカで生きて行くって
ことなの?」
杏子は呆れたような表情を浮かべる。
「ああ、君にその意思がないならそういうことになる。もし君が離婚を望むなら
それも仕方ないと思ってる」
「私、あなたと離婚する気はないわ。でも、あなたのように、いくら血を分けた
我が子のためとはいえ自分の人生を犠牲にする気もないわ」
杏子はきっぱりと言い放った。
障害児の母として子供と伴に生きていくような生活はとても考えられない。が、
やっと手に入れた妻の座をそう易々と手放すつもりもないらしい。
「じゃ、仕方ないな。とにかく、俺は春休みに子供たちを連れて一度、渡米する。
来年の夏までには向こうでの生活を始めたいと思っている。
マンションの処分は君に任せるよ」
耕平の淡々として口調の中に彼の強い決意と杏子への決別が現れていた。




