26.それぞれの決意(3)
「ジュン、オーナーがあなたに話があるって」
配達から戻った純一にエリカが二階のオフィスを指さした。
やっと完成した 〝あの絵” は今月の展示品には選ばれなかった。
自信作だっただけに純一は失望の色を隠せない。何よりもめぐみとの約束を
果たせなかったことが無念でならなかった。
「いい絵を描くようになったな…」
ポール・ビショップは 〝あの絵” を手にしながら静かに切り出した。
「…実は、この絵を来年のパリのコンクールに出展しようと思うんだが、
一応、君の許可を取っておきたくてね。入選はまだ無理かもしれないが、
どうだ?」
「えっ!? はい、ぜひ……」
純一はオーナーの言葉が信じられなかった。
その絵画コンクールは権威があることで有名で、新人画家の登竜門として
これまで数々の著名な画家を輩出してきたことでも知られている。
入選などという大それたことは眼中にない。自分の絵が出展できること
だけでも純一にとっては夢のまた夢のような話だった。
「よし、じゃ、さっそく発送の手配をしよう」
そう言うとポールはデスクの上の受話器を取り上げた。
「あ、あの… 一日、一日だけ待ってもらえませんか?」
「?…」
「どうしても、見せたい人がいるんです」
純一は顔を赤らめ伏し目がちに言った。
「わかった。明日まで待とう」
彼の想いを察したようにポールは頷いた。
一旦コンクールに出展すると手元に戻るまでには相当の時間を要する。
その前にこの絵をどうしてもめぐみに見てもらいたかった。
「もしもし、あの… 仁科純一です。すいません、携帯に電話したりして…」
「いいえ… それより、どうかしたの?」
躊躇いがちに切り出すと、めぐみの優しい声が返ってきた。
「あの、絵が、あの海の絵を、どうしても、めぐみさんに見せたくて…」
興奮と緊張のあまり純一はしどろもどろになった。
「純一くんの絵、ギャラリーに展示されたの?」
「いえ、そうじゃなくて……。」
何とか事の経緯を説明すると、めぐみは自分のことのように喜んでくれた。
純一は絵を抱え、ピアノのレッスンのために『リズの家』に居るという
彼女のもとへ急いだ。
「柔らかい朝の光を浴びる穏やかな海、真っ青な空にぽっかり浮かぶ白い雲、
砂浜で無邪気に子犬と戯れる子供たちの生き生きとした表情……
のどかで明るい、春の海辺かしら?……」
純一の絵をじっと眺めていためぐみが口を開いた。
「…なんだか、とっても優しい気持ちになれる。幸せな気分にしてくれる…
純一くんって、こんな凄い絵を描く人だったのね…」
自分の絵に注がれる優しい眼差し、彼女の放つ言葉の一句一句が純一の心に
響く。おそらくどんな高名な批評家の賛辞もこれほど彼の心を満たしては
くれないだろう。
(この絵は、狂おしいほどにあなたを想い、あなたに恋い焦がれる俺の魂が
描かせてくれたんです。あなたが好きだ! どうしようもないくらい
あなたのことが、好きで好きでたまらない…)
告白することの許されないめぐみへの切ない想いを純一は心の中で必死で
叫んでいた。
* * * * * * * *
純一が宝物ように大切にしまい込んでいるスケッチブックをそっと開いてみた。
どのページもめぐみのデッサンで埋め尽くされている。
憂いを含んだ綺麗な横顔、遠くを見つめるような淋しげな表情、はにかむような
可憐な笑顔・・・
どれも彼女の美しさが充分に表現され、素人目にもみごとに描かれている。
あの夜、有賀健介に対する激しい嫉妬と羨望が強いアルコールに煽られ、
純一はめぐみへの叶わぬ恋情、悶々とした想いを幼馴染の躰の中に発散させた。
直美から誘惑したとはいえ、それはまるで彼女の人格も感情も無視したレイプの
ような一方的な行為だった。
翌朝、一言『夕べは悪かった』と言ったきり、あの夜以来、直美の躰に指一本
触れようともしない。
直美は昔から純一のことが好きだった。
恋愛感情をはっきり意識するようになったのは、高校に入学した頃だった。
それまでは兄弟のような中性的な存在だった純一を異性として感じるように
なり、彼の周りに集まる女子生徒に冷たい視線を送るようになった。
結局、自分の想いを伝えられないまま卒業を迎え、それぞれの道に進むと
次第に疎遠になっていった。
純一の渡米後、直美は心の中にできた空洞を埋めるように次々と男を求めた。
が、誰一人として彼女の心を満たしてはくれなかった。
純一の面影を追い続け、最後は彼に似た容姿を持つ妻子ある男との不倫にまで
のめりこんだ。そんな命を懸けた恋も定番通りの結末を迎え、何もかも失った
直美に残ったのはボロボロに傷ついた心と身体、虚しさと惨めさだけだった。
夢にまで見た純一との同居生活を手に入れたにもかかわらず、直美の心は
空虚なままである。同じ空間に居ながら手を伸ばせば肌が触れ合う距離に
居ながら、純一の心は直美を無視し振り向いてもくれない。
直美は手鏡に自分の顔を写した。
幼い頃から 〝愛嬌のある顔” と言われてきた。丸顔に大きな目、大きな口、
低い鼻、ニキビの跡が残る色黒の顔は、確かにアニメのキャラクターのように
愛嬌があり不細工ではない。が、どう贔屓目に見ても美人とは言えない。
純一の手によって描かれたスケッチブックの中のめぐみは同性の目から見ても
眩しいくらいに美しい。禁断の恋の相手、美貌の人妻、薄幸のヒロイン・・・
そんなフレーズがぴったりくる、男の心を捉え魅惑するような何かがある。
ページを捲っているうちに沸々とした感情が身内にほとばしり、気が付くと
直美はリップスティックを握りしめていた。
(絶対、わたさへん……)
愛する男の心を虜にした女の綺麗な顔が真っ赤に塗り潰されていく・・・
愛嬌のある直美の丸顔は、いつのまにか嫉妬に狂う阿修羅の顔に変貌していた。




