第8話 黄金の盾と、番犬の誇り
翌日の夜。私たちは再び、静まり返った職人の街の路地裏を走っていた。
「……近いぞ。昨日逃げた下水道から、真っ直ぐ工房の方に向かってやがる」
リルの鋭い嗅覚が、冷たい夜風に混じるヘドロのような呪いの匂いを正確に捉えていた。角を曲がり、昨日の兄弟子が所属する工房の前に出た瞬間——巨大な黒い影が、工房の扉を破ろうと暴れ狂っているのが見えた。
『ギィィ……ッ! なんで……なんで、あんたばっかり……ッ!』
ドロドロの泥水のような体から、人間の、血を吐くような悲痛な叫び声が響く。
『俺だって……寝る間も惜しんで、ガラスを叩いてたのに……! なんで俺の手は、こんなに不器用なんだ……! あんたみたいに、綺麗なものが作れないんだ……ッ!!』
影の首元で、歪な形をしたガラスのペンダントが、どす黒い光を放って脈打っていた。才能がないことへの絶望。天才である兄弟子への、狂おしいほどの嫉妬と劣等感。それが、彼をあのようなバケモノに変えてしまった正体だったのだ。
「……才能なんて、残酷なものね」
「チッ。自分の不器用さを呪いのせいにして暴れるなんて、とんだ甘ったれだぜ」
リルが地を蹴り、銀色の軌跡を描いて魔獣へと肉薄する。しかし、魔獣は昨日のように逃げようとはしなかった。自身のコンプレックスを爆発させるように、全身を大きく、限界まで膨張させたのだ。
『消えろぉぉぉっ!! 俺より才能がある奴は、みんな消えちまえ……ッ!!』
直後、膨れ上がった魔獣の体から、四方八方へ向けて致死量の黒い泥の雨が弾け飛んだ。触れれば生命力を根こそぎ奪われる、猛毒の呪いだ。
「なっ……!?」
リルの身体能力なら、避けることは造作もなかったはずだ。 だが、彼は動かなかった。彼が避ければ、真っ直ぐな射線上にいる『私』に、その泥の雨が降り注いでしまうからだ。
(——私のために、盾になる気!?)
リルが舌打ちをし、私を庇うように大きな背中を向けた、その瞬間。
「やめて!!」
私は無意識のうちに、リルの前に飛び出していた。
「おい、バカ、何して……ッ!」
背後でリルの焦燥に満ちた声が響く。
温室育ちで、剣も魔法もろくに使えない私。でも、もう彼にただ守られているだけの、無力な姫でいるのは嫌だった。
(お願い……彼を傷つけないで!)
強く祈り、両手をギュッと組んで魔獣の前に立ちはだかった瞬間。
私の右手にはめられた王家の指輪が、突如として眩い黄金の光を放った。私のはちみつ色の髪を鮮やかに照らし出すその光は、瞬時に空中で薄いベールのような光の盾を展開し、私たちに降り注ぐはずだった呪いの泥を弾き飛ばした。
ジュゥゥゥッ……と音を立てて、黒い泥が光に触れた端から浄化され、白い煙となって消えていく。
「こいつは……」
「……私にも、あなたを守れる力があるみたいね。さぁ、今のうちに!」
私の言葉に、リルは目を見張り——直後、最高に獰猛で、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ハッ……! 主に守られちまうなんて、番犬失格だな」
黄金の光に当てられ、浄化の力に怯んだ影の魔獣。その一瞬の隙を見逃すリルではない。彼は光の盾の横から弾丸のように飛び出すと、「俺の主の力を使わせた罪は重ぇぞ」と低く唸り、魔獣の核である歪なペンダントごと、呪いだけを正確に一刀両断した。
「……あ、ぁぁ……」
黒いヘドロが霧散し、後には元の姿に戻った見習いの青年が、石畳の上に崩れ落ちた。
「ごめんなさい……俺、あんたが羨ましくて、憎くて……っ」
自身のしでかした罪の重さと、醜い嫉妬心に耐えきれず、ポロポロと涙をこぼす彼。 そこへ、工房から飛び出してきた兄弟子が駆け寄り、泣き崩れる弟弟子を力強く抱きしめた。
「……バカ野郎。お前が不器用なことなんて、親方も俺も、ずっと前から知ってる」
「っ……」
「でもな、俺は……お前の作る、その泥臭くて、魂のこもったガラス細工が……他の誰の作品よりも好きだったんだよ」
兄弟子の震える声に、青年は弾かれたように顔を上げた。
「お前は絶対に、俺なんか足元にも及ばない大物の職人になるって……ずっとそう信じてたんだぞ。だから、戻ってこい。また一緒に、工房でガラスを叩こう」
「あ……あぁぁぁっ……!」
弟弟子は兄弟子の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。才能という残酷な壁が生んだ、哀しくも愚かな嫉妬の呪い。それは、互いの本当の思いを知った彼らの涙と共に、今度こそ完全に消え去ったのだった。
「……これは」
戦いが終わり、私がホッと息を吐いた時。リルが足元に転がっていた《《何か》》を拾い上げ、ポンッと空中に放り投げてキャッチした。
「あの魔獣……呪いの残滓が固まってできた魔石だ。ずいぶんと澄んだ、強ぇ魔力が詰まってやがる」
月明かりの下、銀色の髪を揺らしながら、リルはその魔石を太陽にかざすようにジッと見つめた。人間の通貨やお金の価値など、何百年も地下に幽閉されていた彼が知るはずもない。だが、最強の獣である彼の本能が、「これは人間どもが欲しがるほどの、特別で綺麗な石ころだ」と告げていた。
(……これなら、あいつが売っちまった《《キラキラした石》》の代わりになるかもしれねぇな)
そんな不器用で真っ直ぐな企みを秘めていることなど微塵も感じさせず、リルは私の顔を見て、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。




