第34話 星空の野営地と、泥だらけの王
夜風が冷たく頬を撫でる。王都を遥か遠くに望む広大な平原には、数千もの焚き火が赤々と燃え盛り、まるで地上に無数の星が降り注いだかのような幻想的な光景が広がっていた。
ほんの数日前まで、私とリル、そしてルカのたった三人で、寒さに震えながら囲んでいた小さな火。それが今、これほどまでに多くの命の熱となって、平原を埋め尽くしている。
「…………」
小高い丘の上からその光景を見下ろしながら、私は胸元に下がった粗末な麻紐を——鉱山街の少女からもらった木彫りのお守りを、ギュッと強く握りしめた。
明日、私たちはあの王都へと攻め込む。私の言葉ひとつで、この数千の人々が、血を流すかもしれない死地へと飛び込んでいくのだ。そう実感した途端、心臓が早鐘のように鳴り、泥だらけのブーツに包まれた足が、微かにカタカタと震え始めた。
「……震えてるのか、アニエス」
不意に、背後から低い声が降ってきた。振り返る間もなく、私の震える小さな肩に、ゴツゴツとした大きな手がポンッと置かれる。リルだった。彼は夜風に銀色の髪を揺らしながら、私の隣に並んで立ち、平原の無数の火を見下ろした。
「ごめんなさい、リル。……私、すごく怖いの」
私は正直に、震える声で打ち明けた。
「私のせいで、誰かが死んでしまうかもしれない。みんなの命を背負うには、私なんかじゃ……」
「バカか、お前は」
リルが、私の頭を乱暴にわしゃわしゃと撫で回した。
「一人で全部背負い込もうとすんな。お前がどこへ行こうが、どんな絶望が待ってようが……俺が一番前で、お前の道を切り開いてやる。だから、お前は無事に家に帰ることだけ、考えてたら良いんだよ」
不器用で、乱暴で、けれど絶対的な安心感を与えてくれる番犬の言葉。私の肩の震えが、ふっと少しだけ和らいだ。
「やれやれ。神話の魔獣に先陣を切らせるなんて、随分と贅沢な軍隊ですね」
背後から、カチャッ、と魔導銃のシリンダーを回す鋭い音が聞こえた。ルカが眼鏡をクイッと押し上げながら、呆れたように肩をすくめて歩み寄ってくる。
「僕の天才的な計算によれば、彼らの士気はすでに国軍を遥かに上回っています。装備も、あのレジスタンスたちが持ち込んだ物資で完璧に整え終わりました。……あとは、あなたが引き金を引くだけですよ」
ルカが、初めて私を試すような、けれど確かな敬意を込めた瞳で微笑んだ。
「姫様! 準備が整いました!」
そこへ、新しい鋼の剣を背負ったザックが、丘を駆け上がってきた。その顔には、かつて地下下水道で私を睨みつけていた時の敵意は微塵もない。あるのは、自らが信じた主君への熱い忠誠だけだ。
「みんな、あんたの言葉を待ってる。……俺たちの王の姿を、見せてやってくれ!」
三人の頼もしい騎士たちに見守られ、私は小さく、けれど力強く頷いた。 ギュッと胸元のお守りを握り直し、王族のきらびやかなドレスではなく、泥と血に汚れた村娘の服のまま、私は数千の民衆が待つ野営地の中心へと歩き出した
ザックが用意してくれた急造の演壇――いくつか重ねられた木箱の上に立つと、数千人の視線が一斉に私へと注がれた。静まり返る野営地。パチパチという薪の爆ぜる音だけが響く中、私は一度ギュッと目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
「…………ごめんなさい。本当は、立派な王様みたいな挨拶を考えてたんだけど……」
沈黙を破った私の声は、少しだけ上ずっていた。
「みんなの顔を見てたら、全部、頭から飛んじゃった」
数千の群衆から、クスッと温かい笑い声や、「無理すんな姫様!」「そのままでいいぞ!」というヤジが飛ぶ。張り詰めていた空気が少しだけ緩み、私も泣きそうに笑ってしまった。
「……私、王宮を追い出されるまで、本当に何も知らないバカな子供だったの。森でウサギのお肉を真っ黒に焦がして泣いたし、泥道では何度も転んだし……。世界がこんなに冷たくて、理不尽に痛い場所だなんて、知らなかった」
私は言葉を紡ぎながら、平原を埋め尽くす一人ひとりの顔を見渡した。
「でもね。……村のおばあちゃんが沸かしてくれたお湯は、すごく温かかった。ザックたちが分けてくれた硬いパンは、信じられないくらい美味しかった。そして……」
私は、首から下げた麻紐の先にある、不格好な木彫りのお守りを両手で強く握りしめた。
「村の女の子が小さな手で握らせてくれた、この木彫りのお守り……。どんなに冷たくて心細い夜でも、私をずっと励ましてくれました。
誰かが誰かを想う気持ちが、こんなにも温かくて、心強いものだったなんて……王宮の分厚い壁の中にいた頃の私は、少しも知らなかった!」
私の声が、夜空に高く響き渡る。
「明日、私たちは王都に攻め込みます。……本当のことを言うと、すごく怖い。私のせいで、優しいみんなが血を流すのが、死ぬほど怖いわ。私には、お兄様みたいな才能もないし、剣も振れない。私一人じゃ、宰相の軍隊には絶対に勝てない」
私は誤魔化すことなく、ボロボロと涙をこぼしながら、群衆に向かって深く、深く頭を下げた。
「だから、お願いです! どうか私に、あなたたちの力を貸して!」
顔を上げ、涙で滲む視界のまま、私は力の限り叫んだ。
「完璧な王様にはなれないかもしれない。でも……誰かが理不尽に泣かされているのを、黙って見過ごすような真似だけは、絶対にしない! 誰よりも先に立って、泥だらけになって、私がみんなの盾になる!
お父様とお母様が愛した……大好きなあなたたちの明日を、私と一緒に取り戻してください!!」
一瞬の、静寂。 そして――。
「「「おおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」」」
夜空を、大地を揺るがすような、凄まじい大歓声が沸き起こった。ザックたちレジスタンスが剣と盾を打ち鳴らし、炭鉱夫たちがクワを天に掲げる。
「アニエス様!」「我らが王!」「俺たちの明日を取り戻すぞ!!」という怒号のような声援が、地鳴りとなって平原全体を震わせた。
その熱狂の渦の中心で。 私の右手の王家の指輪が、不意に熱を帯びた。
――まばゆい光……。
それは、敵を弾き飛ばすための攻撃的な閃光ではなかった。私の想いと、数千の民衆の心が完全に一つになったことに呼応するように。指輪はまるで夜明けの太陽のように温かく、静かで力強い黄金の光を放ち、野営地全体を優しく包み込んだのだ。
「……すげぇ。本当に、太陽みたいだ」
ザックが眩しそうに目を細める。
「……計算不能ですね、まったく。やっぱりウチの姫様は、最高に規格外だ」
ルカが眼鏡を押し上げ、誇らしげにフッと口角を上げた。
「……ハッ。俺の主なんだ、当然だろ」
演壇の下で、リルが腕を組み、誰よりも頼もしい番犬の顔で獰猛に笑っていた。
温かい黄金の光の中、私は涙を拭い、遥か遠くにそびえる王都の防壁を真っ直ぐに見据えた。 もう、足の震えは止まっていた。私には、最強の騎士たちと、こんなにも温かくて心強い民がついている。
「さて、士気は最高潮ですね。ここからは僕の仕事だ」
ルカが地面に広げた王都の地図を指差す。
「数千の軍勢とはいえ、大半は素人です。正面から国軍とぶつかれば被害が大きすぎる。だから、彼らには国軍を正門に引きつける最大にして最強の囮になってもらいます」
「囮だと? 随分と人使いが荒いじゃねぇか、学者先生」
ザックがニヤリと笑う。
「ええ。そして国軍の精鋭が正門に釘付けになっている隙に……僕たち三人が、手薄になった地下水路から一気に王城の最奥を叩く。これが、最も血の流れない最適解です」
「……いいだろう。表のドンパチは俺たちに任せな」
私はザックと力強く頷き合い、リルとルカを振り返った。
――待っていて、お父様、お母様、お兄様。どんなに泥だらけでも、私が明日、すべてを終わらせに帰るから。
泥水をすすり、地べたを這う民の痛みをその身に刻み込んだ彼女の瞳には、完璧な温室では決して育つことのない、深く静かな威厳が宿っていた。頭上を飾る黄金の王冠などなくとも、木彫りのお守りを胸に下げ、豪華なドレスの代わりに泥にまみれた服を纏った彼女の姿は、今、この平原の誰よりも気高く、真の『王』であった。




