絵と数学とノットイコール 【答えあわせ】
江戸川はリビングの床に寝転がり、論文を読んだり、目を閉じて何かを考えたりしている。神楽はベランダの窓を開け、桟の部分に腰かけて、空を見上げて抽象画を描いた。
各々自由な時間を過ごして、夕食だけ一緒にとり、再び解散して、自分のことをする。
そういう日常だった。
休日になると、よく江戸川は言った。
「ピクニックに行きたい」
「良いですね、どこに行きますか?」
「この前行った、駅の南口の公園が良い」
「あ!僕も良いなと思っていました。キンモクセイの花を描きたいなと思っていたんです」
「じゃあ決まりだ」
正直、一人で過ごすよりも充実して楽しい。
こんな事ならちゃんと恋愛をして誰かと同棲すれば良かった、なんて思ったりするが、畑山含む世の女性と、こんな穏やかな生活が出来るとは到底思えなかった。
江戸川だからちょうど良いのだ。
最近、江戸川は調子が良い。
胃腸も痛まないし、寝不足の感覚が一ミリもないし、冷え性が治ったし、お腹の脂肪が減った。身体も軽い。心も明るい。
神楽の言う通り、運動と食事というのは健康に直結していた。
やっぱり神楽を傍に置いて良かった。
江戸川が神楽の作ったお弁当を食べていると、生徒がそっとたずねて来た。
「先生、なにか進展はありましたか?」
「進展?」
「ほら、イコールさんと同棲してるって言っていたじゃないですか」
「ああ」
「どんな感じですか?」
「どんな感じとはなんだ」
「近況報告とか、教えてください」
「最近は、よくピクニックをする」
一瞬静かになって、その後一斉に生徒たちが喋り出した。
生徒は身を乗り出し、言う。
「ピクニック?!外出嫌いな先生が?」
「そんなに驚くことじゃないだろう」
「驚きますよ。ご飯とか食べるんですか?」
「ああ。キャッチボールとか、バトミントンをして、散歩して、作ってくれた弁当を食べる。帰りにスーパーへ寄って、アイスを買って帰る。すごく楽しい」
研究室がどよめいだ。
「先生、もっと話を聞かせて下さい」
「それだけだ。大したことはしていないぞ」
神楽が夕飯の支度をしていると、江戸川は言った。
「今日、生徒と沢山話をした」
「へえ、良かったですね」
「ああ。君と行ったピクニックの事を話したら、盛り上がった」
「え、盛り上がったんですか?」
「ああ」
神楽は想像し、笑って言った。
「やっぱり、出不精な先生が出掛けたことが珍しかったんじゃないですかね」
「そうか?」
「ふふ、先生は生徒に慕われているんですね」
「良い生徒たちだ。俺なんかに沢山話し掛けてくれる」
「楽しそうです」
「楽しいぞ。君も見学に来れば良い」
「え、僕は良いですよ」
「遠慮するな。俺が紹介する」
「生徒さん達ビックリすると思いますよ」
何気ない話をしながら、アジの塩焼きと、ほうれん草のおひたし、白米、豚汁、ミニトマトをテーブルに置く。
二人で手を合わせる。
「「いただきます」」
江戸川は豚汁を啜って言う。
「美味い」
「良かったです。冬に近づいて来たので作ってみました。温かいものが美味しく感じる季節ですね」
「そうだな」
「先生はおいもが好きなので、豚汁が空になったら、さつまいもと玉ねぎのお味噌汁を作ろうかと思っています」
「良いな。楽しみにしている」
ご飯を終えてから、神楽は水彩紙と水彩絵の具をローテーブルに用意した。
つい先日、ちゃぶ台から、それより大きい木製のローテーブルに変えたのだ。
江戸川から借りていた分厚い数学の本を開き、挟んでいた紅葉とキンモクセイの押し花を取り出す。
神楽は簡単に鉛筆でスケッチをし、透明水彩でそれを描いた。水を多めに使い、わざと滲ませて紅葉の色を赤や橙を重ねて表現する。
ソファに寝転んで論文を読んでいた江戸川が、上から覗いて言う。
「綺麗だな」
「ありがとうございます。具体的に、どこが良いと感じますか?悪いところも教えて下さい」
「俺は素人だぞ」
「いえ、素人の方が良いんです。今度カフェのギャラリーに作品を展示するのですが、見る人は一般の方が多いんです。芸術性はそこまで高くなくて、一般の方も楽しめるようなものを描きたいと思っています。その練習です」
「凄いじゃないか」
「有難いお話でした。画廊という形式で絵を飾って貰う機会は全然ありませんから」
「誰かが君を推薦したのか?」
「画材屋の常連の方がカフェのオーナーと仲が良くて、その伝手で参加させて貰えました。お客さんが優しかったです。僕のことを応援してくれました」
「そうか。君の人徳だな。自信を持つんだ」
「はい。それで、詳しく言うと展覧会というよりは、投票とかもあって、コンペティションみたいなもので、絵が評価されます。投票はお客さんがするので、基本的には綺麗とか可愛いとか、分かりやすい印象の絵が良いかと思いました」
「なるほど、そういう事か」
「ですが、参加者の話によると、カフェのオーナーは画商とも繋がりがあって、みんなその画商に目を止めて貰いたいのが目標ではあるようでした」
「つまり、分かりやすいだけでも駄目ということか」
「そうですね、その画商さんがどんな絵を中心に売っているのかは分かりませんが、シンプルにお客さんが良いと思う絵ではなくて、芸術性のあるものでないといけないかもしれないなと悩んでいます。それに実際、お客さんも芸術性のある絵の方が凄いと思って票を入れるかもしれないし、考えれば考える程、よく分からなくなってきます」
「芸術性のある絵というのは、どんなものだ?」
「うーん。一言で言うなら、意味が分からない絵、ですかね。抽象画自体は、複数の視点から物を見る、という事を目的とした絵が多いので、理解できないのは当たり前なんです」
神楽が言うと、江戸川は笑った。
「君は悩んではいるが、答えは決まっているようだ」
神楽は肩を竦める。
「やっぱり、誰でも分かる絵の方が楽しいと思うだけです。あと僕の場合、抽象画って自分の心を映しているだけになってしまうので、描きやすいのは勿論、人に見せる絵じゃないんです。自己表現的抽象などとも言われますが、代表的なカンディンスキーの絵なんかとは全く別のものだと感じています」
「人に見せる絵じゃないとは、どういう意味だ?」
「そのままです。見せる価値もない絵なんです」
江戸川は首を傾げる。
神楽は言った。
「色々考えましたけど、結局いつも通り描くしかないなって思っています」
「ほう。芸術とは難しいものだな」
「そうですね。僕の絵は、綺麗すぎる絵だと批評を受けることが凄く多いです。一次審査は通っても、前回も見る角度や思考、空気感に工夫を感じられないってコメントが付けられて二次で落ちました」
「どの絵だ?」
「最近だと、ブロック塀の上で眠る猫の絵です」
「ああ!あの油絵か。とても良い絵だった。日だまりの中、くつろいでいる猫が可愛らしかった。塀からはみ出る脚と、ふさふさした腹の毛が思わず撫でたくなるくらい、ふさふさしてリアルで、凄かった」
「ありがとうございます。散歩している時にいつも会う野良猫が可愛かったので描いたんですが、つまらないと一刀両断されてしまいました。あとから受賞した絵をネットで見ましたが、全体的に暗い絵が多かったですね。まあ審査員がそういう風な絵が好きだったのかもしれないけど…うーん、芸術性の低い絵が評価されにくいのは事実です」
「絵は返却されるのか?」
「はい。今回のものは返ってきます」
「なら部屋に飾ろう」
「いいんですか?」
「もちろんだ。君の絵は部屋に飾りたくなる素敵な絵ばかりだ。みんな見る目がないなぁ」
江戸川は眉根を寄せ、床に転がる。
神楽は笑って言った。
「ありがとうございます」
寝る前に、神楽は何気なく言った。
「今日は随分冷え込みますね」
靴下をはいて、腹巻きをしていると、江戸川はたずねて来た。
「そういえば君、床で寝て寒くないか?」
「床?ちゃんと布団に寝ているので、大丈夫ですよ」
「いや、そうじゃない。ベッドの方が温かいだろう」
「ああ、そういう意味か。ぜんぜん平気です」
「そうか?」
「はい、気にしないで下さい」
神楽は微笑んで頷いた。
翌日、江戸川は生徒に問うた。
「みんなに聞きたいことがある」
研究室にいる生徒全員がぱっと顔を上げた。
「はい!なんでしょう」
「今、俺はベッドでイコールが布団で寝ている。それで、イコールをベッドにしてやりたいんだが、部屋が狭くてベッドには出来ない。だけど、それじゃイコールが可哀想だし、平等じゃない感じが、気になってしまう。どうしたら良いだろう」
生徒は顔を見合わせ、江戸川に問う。
「えっと、先生とイコールさんは、別々の部屋で寝ているんですか?」
「そうだ。ベッドは俺の部屋は勿論、もう1つの部屋にも置けそうにない。でもイコールは寒がりで、靴下と腹巻をして寝ている。床暖房や電気毛布を買ってあげれば良いのかもしれないが、やっぱりベッドに寝かせてあげたいんだ」
生徒たちはもう一度、顔を見合わせる。
そして言う。
「一緒に寝た方が良いと思います」
「一緒?」
「はい。そこは先生がちょっと頑張って、イコールさんと同じ、布団で寝てみたらどうでしょう」
「…なるほど。それは盲点だった。俺も布団にするという事か。うん、それなら平等だし、俺も気が楽だ。それで温かいものをイコールに買ってあげれば良いな」
江戸川はコクコクと頷いた。
生徒たちは、何やら話し合っている。
そして言った。
「冬だし、一緒にいた方が温かいと思いますし。頑張って下さい、先生」
「良い案だった。やっぱり君達に聞いて良かった。ありがとう」
金曜日の夜、謎の大きな荷物が届いた。
神楽はリビングに運んで、江戸川に問う。
「何ですか、これ」
「布団だ。俺もこれから布団にしようかと思ってな」
「え?ベッドあるのに?」
「君も布団だから俺も合わせる。それとも、君はベッドの方が良いか?」
「…いや、ちょっと意味が分からないんですけど」
「良いんだ。俺の考えだから、君が気にする必要はない」
そして、神楽の布団からすこし開けた横に布団を敷き始めたので驚いた、
「え、ここに寝るんですか」
「嫌か?」
「いえ、嫌とかじゃないですが、急だったので、なにかあったのかと思って。部屋に虫でも沸きました?」
「そういうものじゃない。冬だし、一緒にいた方が温かいと思った」
「はあ」
人恋しいのだろうか。
そうだとしたら少し江戸川が可愛く見える。
神楽は優しく言った。
「そうですね、冬だし、二人なら寂しくないです」
「君は一人だと寂しいのか?」
急にたずねられて、神楽は困惑する。
「え?まあ、そうですね、先生と一緒の方が楽しいですよ」
「そうか。それなら良かった」
神楽は画材店のストックに入り、荷物を下ろしてからふと気が付いた。
弁当を忘れた。
江戸川にチャットを送ると、すぐに返信が来た。
ー ちょうど家を出るところだから、寄っていく
― すみません、ありがとうございます
スポン、という音と共に、江戸川は今流行りの、可愛いクマのOKスタンプを押して来る。
最近気が付いたのだが、江戸川は生徒の影響を随分受けているようだ。
なにか言動に違和感がある時に、どうして知っているのかたずねると、大体「生徒が教えてくれた」と言う。
この前だって、急にテレビを付けて、何を観るのかと思ったら、撮り溜めた深夜にやっているラブコメアニメを見始めた。「今凄く流行っていて、今度映画化されるんだ」と言っていた。そういうのを思い返せば、キリが無い。
牛柄のTシャツが届いて「今年クルのが牛柄だ」と言い出したり、タピオカミルクティーを買ってきたり、二次元のイケメンがいっぱい出てくるスマホアプリを見せて「君の推しはなんだ?」と言ってきたり、女の子のアイドルグループのリズムゲームを人差し指で一生懸命やっていたり…江戸川は生徒のことが大好きなようで、沢山の物に触れている。
知れば知る程、江戸川は純粋で、可愛らしい人間だと分かった。
江戸川は画材屋へ向かった。
散歩の時に教えてもらったので、行き方は分かる。
ガラス戸を開いて、店内に入る。店内は木の棚がギッシリと並び、画材も所狭しと置いてあって、身体の大きい江戸川は歩くので一苦労だった。
店の奥まで行って、レジの方を見て神楽が来るのを待っていると、そっと声を掛けられた。
声からして、女性の店員だ。
江戸川はネームプレートを読む。畑山。
畑山は言う。
「えっと、何かお探しですか?」
江戸川は答える。
「神楽を探している」
「え?」
「神楽は居るか?」
畑山は目をパチパチさせた後、言う。
「…あ、はい。神楽はいますが…」
不可解そうに、畑山の眉が顰められる。
江戸川は言う。
「神楽と同棲している者だ。忘れ物を届けに来た」
「……ど、同棲?」
「そうだ。ほら、弁当だ。届けに来た」
江戸川は鞄から包まれた弁当を取り出して、示す。
いっぱく置いて、畑山は言った。
「…えーっと、呼んできますね」
段ボールを抱えた神楽が店の奥から出てくる。
畑山が近づき、神楽に何かを言う。神楽は顔を上げ、江戸川に気が付いた。
神楽は段ボールを画用紙のコーナーの前に置いてから、江戸川に駆け寄る。
「すみません、有難うございます」
「いや。仕事、頑張れ」
「有難うございます。先生も頑張って下さい」
「ああ。またな」
「はい」
江戸川は店を出る。振り返ると、ガラス越しに、女性の店員が神楽に近づいて、何か喋っているのが見えた。
神楽も作業の手を止め、女性と向き合い、二人は話を始めた。
江戸川は少し聞き耳を立てたくなったが、もう時間だ。
神楽がバイト先の人間とどう関わっているのか気になった。
畑山は腕を組み、険しい表情で神楽に言った。
「今日はちょっと、言いたい事があるんですけど」
「はい」
「友達から一般の人が参加するって聞いて、どんな実力がある人かと思ったら、神楽さんだったので吃驚しました。一体、どういうコネを使ったんですか?あそこの展示は美大の卒業生でも一部の人しか声を掛けられないのに。神楽さんはOBでもないし」
驚いた。だがよく考えれば畑山は美術大学に行っていた訳だし、十分あり得る話だった。
正直に言えば、お客さんの名誉に関わるかもしれない。
神楽ははぐらかして、逆に問うた。
「畑山さんは、どうして選ばれたんですか?」
畑山は腕を組んで自慢げに答えた。
「卒業制作の評価が良かったんです。あたしは学科内でも1桁の順位です」
「へえ、凄い」
素直に感心すると、畑山は言う。
「こういうのは、自分から話を聞きつけて速攻行かないと駄目なんですよ。チャンスは待ってても来ないんですから。特に絵描きなんか」
「なるほど」
「だから変なんですよ。お金でも積んだんですか?」
神楽は苦笑した。
「違うよ。オーナーさんにも失礼になるから、そういう事は、外じゃ言わない方がいいよ」
靴底でコツンと床を鳴らし、畑山は言う。
「神楽さんって大学行ってないんでしょう?店長から聞きました。ちゃんと絵を勉強している人が出られる訳もないんですけど。納得いかないです。技術は誤魔化せないし、そんな簡単な世界じゃないですよ」
神楽は畑山に向き合って、言った。
「プロの画家さんの中でも、大学に出ていない人は沢山います。それに、僕は大学には行っていませんが、美大受験の予備校に五年間通って、技術だけはしっかり磨きました」
「予備校?予備校だけ行って、まさか浪人ですか」
小馬鹿にするように、畑山は口元に手を当て、目を丸くする。
こういう人種はけっこう居る。
神楽は言った。
「高校に通いながらバイトをして、卒業してからも一年働いて貯金をしてから、美術大学の予備校へ入学しました。そこで卒業生の話も聞くことが出来たのですが、基本的に美大というのは、画家を余り勧められず、就職が主で、画家のマーケティングのパイプはほぼ得られないと言ってよい、と教えてくれました。それに、大学は技術自体を磨くことはとても少なかったと言いました。なら、僕は割安で絵の技術を磨ける予備校で良いかなって思ったんです。その時良い先生にも巡り合えたので、自分が満足するまで通い続けました。だから絵の技術じゃ自信はありますよ」
畑山は両腕を腰に当て、笑って言う。
「負け惜しみでしょ」
「自由に解釈して下さい」
神楽が踵を返そうとした時、畑山は言った。
「それにしても、神楽さんがゲイなんて知らなかったなー」
「は?」
神楽は思わず振り返った。
畑山はふふんと笑って言う。
「さっきの人に聞きました。同棲してるって」
神楽は頭を抱えそうになった。
神楽は首を振り、身を乗り出して言う。
「そんな訳ないだろ!あの人ちょっと変わってるから、言葉の意味を間違えてるだけだよ。居候はさせて貰ってるけどさ!」
畑山は肩を竦める。
「なんだ」
「そうですよ、ちょっと浮世離れした感じしたでしょう?」
畑山は細いおとがいに手を当てて、考えるように言う。
「…でも、背は高いし、歳はちょっといってるけど、めっちゃカッコいいですね。結婚してるんですか?仕事は?」
神楽は呆れた。
「さあね。仕事に戻ります」
畑山は去っていく神楽を見る。
あんな表情初めて見た。しかもタメ口なんて初めてきかれた。
神楽にとって江戸川は、気の置けない友人のようだ。
最近たまに、江戸川は仕事の終わりに画材屋に寄って来る。
画材屋の終わりが七時なので、江戸川がここまで来るのを加味すると、ちょうどピッタリの時間なのだ。
江戸川は駐車場の空いているタイヤ止めに座り、スマホを弄って待っている。
神楽は駆け寄って言う。
「お待たせしました」
「ぜんぜん待っていない」
江戸川は携帯をポケットに仕舞い、立ち上がる。
「今日は商店街のカニクリームコロッケが食べたい」
「良いですね。このまま買って帰りましょうか」
話していると、猫を被った畑山が、「お疲れ様でしたー」と笑顔で挨拶して帰っていく。
畑山は江戸川のことを狙っているのかは分からないが、良い子ぶっている。
神楽は元々悪口や愚痴を言わないタイプだ。道徳的な理由ではなくて、言えばその事を思い出してしまうから嫌なだけだ。嫌なことは即忘れるに限る。
だから神楽は、畑山のことを江戸川に詳しく話していなかった。
実際江戸川も畑山について話をしてこないし、全く興味が無さそうだ。
そんな機会が度々あり、一応、江戸川は畑山と何度か顔を合わせていた。
ある日のこと。
江戸川がタイヤ止めに座って神楽を待っていると、声を掛けられた。
「神楽さんを待っているんですか?」
「…」
顔を上げると女性がいた。
短いスカートに、白いブラウス。
顔を見ても分からない。
江戸川が無言でいると、女性は言った。
「今日は他のお店に商品を搬入したりしていて、帰ってくるのに時間が掛かると思います」
バイトの従業員か。
江戸川は言う。
「教えてくれてありがとう」
「いいえ」
会話が終わる。
女性は言った。
「あの、少しお時間もらえますか?」
「…」
嫌な予感がする。
「俺は帰る」
「待って下さい」
女性は言ってきた。
「ずっと前から格好良いなと思っていました」
「…」
「神楽さんの迎えに来ていて、挨拶くらいしか言葉は交わさなかったので、覚えていないかもしれないんですけど…」
昔はよく告白された。
興味がないから、と全部正直に断り、どこが駄目なの?と訊ねられて、好きじゃない、と毎回本音を言っていたら、いつの間に恨みを買っていたのか「最低」と皆の前で頬を張られたことがあった。
大学時代、一番モテていた時期だ。
流石に鈍感な江戸川も、断り方が良くなかったのだと気が付いた。
それ以来、江戸川はいつもこう言っている。
「俺はゲイだから君の気持ちには答えられない」
誰も傷つけない嘘で、更に、みんな告白して来なくなる。
だから江戸川はこの言い訳を気に入っていた。
女性は驚いたのか、目を瞬かせ、問う。
「…ほんとにゲイなんですか?」
「そうだ、だから無理なんだ」
女性は無言になって俯く。
ちょっと可哀想になってきた。
だが、ふと思い出して、江戸川は問う。
「君が神楽に嫌がらせをしているという人間か?」
女性はいっぱく置き、言う。
「違います。それは別の人です。バイトの人はもう一人いて、その人です」
「そうなのか。勘違いして悪かった」
「いえ」
その時、駐車場に店長の車が帰って来た。神楽も乗っている。
畑山は江戸川に近づき、両手を組んで祈るように言った。
「あの、チャットだけでも教えて下さい」
「それは無理な話だ。じゃあ俺はこれで」
畑山の瞳が潤む。
どうしようかと冷や冷やした。
この状況じゃ自分が泣かせたみたいだ。
取り敢えず、後で神楽に相談しようと考え、江戸川はIDだけ言った。
「153939だ」
畑山は頭を下げて、懇願する。
「誰にも…神楽さんにも言わないで下さい」
畑山は一度店に戻り、休憩室の椅子に座って考える。
江戸川が本当にゲイだったなんて予想外すぎた。でもそれなら自分が断られた理由も納得できる。何しろ自分は学生時代に20人以上に告白されたし、自分から告白して振られた事が無かった。顔もスタイルも良くて、よくアイドルみたいだと言われる。
神楽たちの話を盗み聞きしていると、男が江戸川という名前で、大学の講師だと分かった。歩いてここへ来られる距離の大学と言ったら、一つしかない。調べてみたら数学の准教授で、随分優秀なようだった。
俳優みたいに格好良いし、今自分はフリーだし、年上もたまには良いかな、と思って隙を狙って告白してみたのだ。
でもまさかその場で断られるとは思ってもみなかったので、作戦を変更した。
神楽は江戸川と仲が良い。そんな江戸川が自分と仲良くしたらどうなるかな、と考えた。しかも江戸川は約束を守りそうな男だ。
だから証拠となるものを確保したかった。
ちょっとした遊びだ。
ガチャっとドアが開いて、神楽がやって来る。
神楽はたずねる。
「先生…江戸川さんは帰っちゃったんですか?さっき駐車場に居ましたよね」
「はい。あたしが告白したら、動揺しちゃったみたいですよ」
「は?」
怪訝そうな神楽の顔の前に、チャットの画面を見せつける。
「連絡先も交換しました。ほら」
神楽は目を丸くする。
驚いて声も出ないようだ。
「ふふ、神楽さんは江戸川さんの事先生って言うんですね」
神楽は呆れ顔で言う。
「泣き落としでもしたんですか?」
「まさか、そんな事してませんよ?あたし容姿には自信あるんです」
「…」
神楽は無口になる。
若干、動揺している気がする。
というか、可能性があると思っているという反応からして、神楽は江戸川がゲイだとは知らないようだ。
江戸川の神楽への気持ちは一方通行なのかもしれない。
そもそも、男二人で一緒に暮らしているのは、普通に考えておかしいけれど、神楽は都合の悪いことは放置する傾向があるので、居候させてもらっているというメリットの方が上回っていて、江戸川の想いを大して考えていない可能性が高い。
江戸川は健気に神楽を迎えに来るし、スマホを弄りながらタイヤ止めに座って神楽を待つ様子は、まるで彼氏の部活終わりを待っている彼女みたいだ。
と、そんな事はどうでも良い。
最近神楽が生意気だから、ちょっと気に入らないのだ。
神楽は眉を上げたあと、「お疲れ様でした」といつも通り、ごく普通の挨拶をして、帰って行った。
神楽は元々本当の感情を表に出さないし、案外ナイーブそうだから、内心はけっこう色々考えているかもしれない。バレたらバレたで、神楽により一層嫌われるだけで失うものはない。
しばらく様子を見てみよ、と畑山は思った。
帰ってきて、夕飯を食べながら江戸川は考える。
どう言おうか迷った。
自分のような人間が告白される、というのが後ろめたくて人に言うのは苦手だ。
しかも相手はあれから連絡もしてこないし、大した問題じゃない気がしてくる。
神楽は知らない訳だし、自分が言わなければ何もない話なのだ。
それに彼女にも言わないで欲しいと頼まれた。
まあいいや、と江戸川は思って、炊き込みご飯をかき込んだ。
ご飯をかき込む江戸川を見て、神楽は考える。
何も言ってこないのは、本当に動揺して秘密にしているか、それとも興味がなくて忘れてしまっているか。
後者の方が可能性は高い気がするが、江戸川のことを完璧に理解している訳じゃない。
神楽は問う。
「今日、畑山さんと話していませんでした?どうして帰っちゃったんです?」
江戸川は眉をピクリと上げ、フルフルと首を振る。
「いや、何もない。元栓を締め忘れたのを思い出して帰った」
怪しい。めちゃくちゃ怪しい。
まだ決定には至らないが、江戸川があんな人間に騙されたのだと思うと、ちょっと嫌だった。結構ショックだ。
こんなにもショックを受ける自分に動揺した。
神楽は、江戸川に心を許し過ぎるのも良くないと、自分を戒めた。
十二月に入り、絵を飾る日になった。七時集合だ。
絵を持ってカフェに向かうと、既に多くの人が集まっていた。想像していたよりも人数は多い。三十人くらい居そうだ。若い学生が多く、畑山の言っていた通り、卒業生や現役の大学生で繋がりがあるのか、みんな和気あいあいと話している。
彼等の絵はどれも芸術性が高く、独特の雰囲気を持っていて、「あー受賞しそうな絵だ」と神楽はぼんやり思った。
改めて自分の絵を見直すと、彼等のものとは全く別物に見える。具象絵画にもなり切れていない。だが、それが自分の描きたい絵、見て貰いたい絵なので、どうしようも無かった。
自信をなくしていると、追い打ちをかけるように、コツコツとヒールの底を鳴らしながら畑山がやって来た。
畑山は神楽の絵をじっと見て、腕を組む。
何か言うのかと思いきや、畑山は神楽に何も言わず、踵を返し、行ってしまった。
神楽が描いたのは、江戸川の家のベランダから見おろした、下町の夕暮れの景色だ。
線路、電車、公園、住宅街、商店街、小学校、幼稚園、保育園、スーパー、全ての建物を不透明水彩で緻密に描き、パステルと色鉛筆で夕暮れの茜色を重ねながら温かさを表現した。
江戸川のアパートは小高い丘の上にあって、ベランダからは、様々なものが見下ろせる。
神楽は幾度かカフェに行って客層を見たが、地元の人がほとんどのようだった。値段も安めに設定されているので、学校帰りの学生や、子連れで来る親も多い。
自分はこの街が好きだ。地元の人も、いまだに世代を跨いで棲んでいる人が多い。
お客さんも絵を見ていて、自分の街だと気がついたら、楽しくなるかもしれない、と思った。神楽自身、コーヒーを飲みながら、ここに飾るならどんな絵が良いだろう、とすごく考えて描いた。
時間まで待機していると、みんなの話し声が良く聞こえた。
「審査員が三人もいるなんて聞いてないんだけど」
「緊張するね」
「うん、カフェのオーナーだけって話だったよね」
「抜き打ち?画商さんいるのかな」
「分からない。頑張ろ」
みんな絵を持ち寄り、番号を渡され、プレゼンテーションのようなものが始まる。
長テーブルが二つ向き合うように置かれて、対面して三人の審査員が座る。
手前の長テーブルに絵を置き、三人に向かって説明をする、というような状況だ。
「1番、どうぞ」
「はい。タイトルは「ねらうものたち」です。水中、陸上、空、人間界、どこにでも捕食者が存在します。そんな注目を表現しました」
「次、2番どうぞ」
説明が進んでいく。
神楽の番になり、長テーブルに絵を立て、神楽は絵を紹介した。
「タイトルは、「あなたの街」です。家のベランダから、街を見下ろした風景です。写実的でいながら、温かい雰囲気を意識して描きました。○○街だけでなく、自分の故郷や好きな場所を思い出してくれたら良いなと思います」
中心に座った女性が問う。
「画材は?」
「水彩とパステル、色鉛筆です」
絵の紹介が終わると、番号順に各々絵を飾る。タイトルの紙を下に貼り付けて、解散となる。結果発表は一月の末。話によると、今回が第一回で、既に第二回に参加する人間は決められているそうだ。
木の台に籠が置かれていて、その中の紙が気になり、見てみた。紙は投票シートになっていて、三つ番号が描けるようになっている。ここから良い作品を三つ選んで描くという仕組みだろう。
その時、まだ営業時間ではないにも関わらず、扉の鈴が鳴って人が入ってきた。
ベージュのストライプのスーツを着ている、三十代半ばくらいの男性だ。焦げ茶色のハンチング帽を脱ぎ、軽快な動作で二階へ上がって来る。
お喋りがパッと止んだ。
みんなの反応から察するに、この人が画商かもしれない。
男はゆっくりと絵を眺めてから、ある絵の前で足を止めて言った。
「この絵を描いたのは?」
はい、と一人の男子生徒が出てくる。色々絵について質問され、答えている。
みんな、何か自分の絵について言われないかとドキドキして待っている。
神楽もまたその一人で、男が足を止めたので驚いた。
だが、男は顔を顰めて言った。
「これは?」
「はい」
「そうか。もっと多面的に世界を見ると良いよ。君の絵は綺麗だが、体面を取り繕っているようにしか見えない。これじゃ芸術の世界には通じないよ、ダメだ」
神楽は開き直って問うた。
「綺麗に描いてはいけないんですか」
「ダメという訳じゃないが、今も言ったように、君の絵は表面だけの美しさだ」
神楽はアドバイスが欲しくて、たずねた。
「どこに表面だけの美しさを感じましたか?」
男は眉を顰めた。
「それは、人の解釈によるよ」
「分かっています。でも、プロの方の考えが聞きたいです」
「言葉によるものじゃない。ただ感じるものだと言えば良いかな」
露骨に嫌そうな顔をされ、神楽は頭を下げた。
「すみません、貴重な意見ありがとうございます」
画商は帰って行った。
神楽は心の内で呟く。
自分は抽象画も描ける。
芸術とは何か分からなくても、多面的な視点からそれを一つに凝縮する、というような芸術っぽい考え方は把握できている。実際それを描いて賞に入った事もある。
でも、驚くほど嬉しくなかった。まるで他人の賞を見ているようだった。むしろ恥ずかしくなった。こんなのは自分の絵ではないと声高に言いたくなった。
自分が描きたい絵ではなかった。自分は賞を取るために絵を描いている訳じゃないというのが、その時よく分かった。
自分は、自分の良いと思う絵をハッキリ認めて貰いたいだけなのかもしれない。
飾った自身の絵を見返していると、女性二人に声を掛けられた。
「あの、社会人の方ですよね」
「はい」
「参考として、卒業生の方にどんな進路に進んでいるのか今聞いて回っているんですが、教えて貰っても良いですか?」
「はい。良いですよ。僕は高校を卒業して、美術学校の予備校に四年くらい通ってから、今は絵画教室の先生をしています」
女子生徒二人はちらりと視線を交わし、神楽に言った。
「そうですか、有難うございました…あ、年齢を聞いても良いですか?」
「二十七です」
「有難うございました」
女子生徒は帰っていく。
神楽も下ろしていたリュックを背負い、カフェから出ると、女子生徒が前を歩いていて、ちょうど会話が聞こえてきた。
「絵、怒られてた人、やっぱり全然参考にならなかったね」
「そもそも予備校で浪人して、大学諦めて絵画教室の先生って、ちょっと良く分かんないよね」
「駄目だったんじゃないの?」
「それはそうなんだろうけど、絵の勉強したいなら大学行くしかないじゃん。けど受からなくて、そこら辺の絵画教室に入って、今もこうやってだらだら画家志望を続けている訳じゃない?」
「確かに、中途半端って感じする」
「私達とは環境が違いすぎるよ。てかさ、さっきのもヤバすぎ。画商さんに必死に食い下がってるしさ、恥ずかしいとかそういう気持ちもないんだよ」
「必死だったね」
「ほんと痛いよ。ああいう大人には絶対なりたくない」
「反面教師としては参考になったんじゃない?」
「確かに」
二人がクスクス笑う。
普通に追い越そうと考えていたが、もういっそのこと彼女たちの話を全部聞きたくなった。
彼女たちは周囲のことも気にせず、話をする。
「画家になりたいって夢もあるけど、将来のビジョンが全く見えないのはきついね」
「そうだねー、あたしも二十五くらいで結婚はしたいな」
「まあ、画家とかでデビューしているのは、やっぱり若い人だから、正直二十半ばになったら夢は諦めるべきだと思うんだよね。実際、コンペティションとかでも、三十歳以上の人間は応募不可っていう制約も増えるじゃん?」
「うん。もうそこまでいったら才能ないって認めなきゃマズイよ」
「現実的に考えてそうだよね」
「うん、まあ私達は時間あるし、色々保険かけながら万遍なくやってこ」
「そうだね、今の人やっぱり結婚してないし、大学生に混じって来ちゃってるし、どういう伝手使ったんだろ。話戻るけど、ちょっと必死過ぎて怖かったね」
「まあ夢追い人なんて、良い解釈してるけど、現実逃避ってことだよ」
「そうだよね。そういえば、あの人腕も無かったよ。義手だった。よく見たら変だったもん」
「それ!美色も気づいてた?」
「うん」
「多分、いろいろあったんでしょ、もう後には引けない感じなんじゃない?」
「ああ、なるほど。そういう線だね」
神楽は彼女たちの前に出た。
彼女たちはピタリと立ち止まり、硬直する。
神楽は言った。
「悪口を言うなら、もっと誰にも聞かれない場所で言うようにした方が良いよ」
本当はどうでも良かったが、未来がある彼女たちのためだ。
自分とは違い、彼女たちにはうまく生きて行ける可能性と自由がある。
あの時急に施設を出されて、自分は衣食住を確保するのが先だった。その中で選んだ道で、今も後悔していないけれど、皆、浪人とか絵画教室のことも馬鹿にするし、そういう個人の主観に晒される時、いつも胸が苦しくなる。
理由を言っても、そうですか、としかならない。
他人に同情されるのも、裏でこそこそ言われるのも、自分の絵を否定されるのも、もう本当に、うんざりだ。
江戸川は絵を描く神楽の背中を見た。
ここ1週間くらい、神楽の様子がおかしい。
いや、具体的に言えば、絵がおかしかった。
今日も神楽は、水彩の平筆で、真っすぐ横に線を引いていた。
「…何を描いているんだ?」
「海です」
「海?」
「遠く離れた海ですよ。静かでなにも無い海です」
神楽は色を重ね続ける。
青を重ね、紫を重ね、急に赤を重ね、最後は黒になって、神楽はそこに水を含ませた筆をおく。黒を含んだ水は絵筆から流れ出て、涙のようにキャンパスの下まで伝い落ちる。
そして神楽は義手の手を開いて、まだ濡れたままの紙に押し当てる。濃い赤でかたどり、赤い水を含んだ筆を振り、まるで血飛沫のようなものを表現する。
江戸川は問う。
「テーマは?」
神楽は振り返り、笑って答えた。
「芸術です」
神楽はそんな絵ばかり描いていた。
「大丈夫か?」
「なんの話ですか」
「いや…」
明らかに何かあったに違いないのに、言葉が上手く出てこなかった。
江戸川は息苦しくなる。ただ悲しい絵を描く姿を見守ることしか出来ない。
畑山はルマサンドカフェにやって来た。
席に着き、メニューも開かず店員に注文を頼む。
「アイスコーヒー一つ」
出されたコーヒーを飲みながら、畑山は考える。
画商はああ言ったが、神楽の絵は凄く良いと思う。
表面上の美しさがどうのこうの、と言ったが、それこそヤツの主観の話だ。そんなもの知るか。
自分の絵もスルーしたし、あんな若い画商に経済力があるとも思えない。
それより自分はもっと上に行く。そのために何が必要なのか考え直すためにここに来た。
畑山はコーヒーを飲み終えた後、二階に上がって絵を見直した。
腐っても画商だ。まず、ヤツがどんな感性を持っていたのか、理解する必要がある。ヤツが褒めた絵を見て、共通点を確認する。
全員の絵をゆっくりと見ていく。
畑山は神楽の絵の前で、足を止めた。
あそこまで神楽の絵を否定しなくても良いじゃないかとイライラする。納得がいかない。描く側は一生懸命描いているのに、自分があんな事言われたらキレて喧嘩になっていたかもしれない。
こっちの魂、命である絵を否定するなら、もっと具体例を出すべきだった。
芸術は芸術といっても、理解できないものを、すべて芸術という言葉で片付けて良いものだとは絶対に思わない。
だから神楽はしっかり聞いた。それで答えられなかったアイツにガッカリした。
大体、自分がこの絵を見た時、表面上の美しさなんて感じなかった。
見る人間がひねくれ過ぎだ。
この絵を見ていると、ただ自分の地元を思い出す。よく似ている気がして、帰りたくなった。
良い絵というのは、何らかの感情を発生させるものだと思う。
だからあんな公開処刑はおかしかった。これは良い絵だ。技術も本人が言っていた通り、ちゃんとしている。遠近感や配置も良い。建物もしっかりしている。だからリアルに描けている。スカンブル技法も上手い。リアルな中に優しさと温かみを添える役割を果たしている。
そもそもこれは具象絵画に近い。正反対である抽象絵画とは種類が異なるから、評価されるポイントが変わって来るのに、明らかにアイツは同じような基準で物を言っていた。
畑山は腕を組んで呟く。
「あたしの方がよっぽど評論できるわ」
畑山は客のリアクションを観ようと、近くの椅子に座って待っていた。
親子がやって来た。お母さんと幼稚園児だ。制服を着ている。
母親は神楽の絵を見てから、あ、と顔を輝かせ、子供に言った。
「これ、ねねちゃんの幼稚園が描いてあるよ」
「え!見たい!」
母親は子供を抱き上げる。
「ほら、駅もあるし、商店街もある。○○街を描いているんだわ」
「ほんとだ!電車もある!ねねの家は?」
「ここら辺じゃない?」
「えー見えない」
「でもほら、水泳教室は見えるよ」
「ほんとだ!公園もある!この絵、すごい!」
「すごいね。とっても綺麗だね」
楽しそうだ。
畑山は考える。
神楽の絵が五千円で売っていたら、多分売れる。
大切なのは難しい事じゃない。
人が欲しい絵であるかどうか。
自分はまずそこを目標にするべきかもしれない。
小学生の生徒が、神楽に言った。
「なんか先生良いことでもあったの?」
「どうしてそう思う?」
「いつもより笑ってるから」
「ふふ、気づいた?」
「うん、なに?カノジョ?」
「ひみつ」
神楽は人差し指を口元にあて、笑顔を作る。子供たちは、色々お喋りをしてくる。
応えながら、神楽は心の隅で冷静に思う。人間は顔でその人の感情を判断するという。笑顔を作れば、皆が上機嫌だと思ってくれる。
大人だけじゃない。子供も見抜けない。
子供には誠実に、大切に接したいけれど、どんな本心を晒せば良いのか分からなくて、結局笑顔の面を被ってしまう。だが不安にさせるより、よっぽど良いだろう。
人間なんて所詮、目で見えることしか分からない。
二十後半で夢を追いかけ続ける、腕がなくて後に引けない、現実逃避の痛い男、というのが耳に残っていた。
江戸川は神楽の顔を凝視した。
口角が上がっているから、笑ってはいる。
だが、最近は自分ともあまり喋ってはくれないし、避けられているのが分かる。
「最近なにかあったのか?」
神楽は言う。
「先生は心配しいですね、確かにちょっと色々ありましたけど、あと三日もすれば元に戻るので大丈夫ですよ」
「何が元に戻るんだ?」
江戸川は顔を顰めて言う。
「騙されないぞ」
神楽は言う。
「以前先生は、僕が笑顔の面を被っていると言いましたが、どうしてそう思うんですか?」
「それは前にも言った。君が笑い続けているからだ」
「顔が分からないのに?」
「顔が分からないから、集中して見ているんだ」
「僕はよく笑う方なんです。昔から言われていました。いつもの事ですよ」
「俺が言いたいのは…君がなにか困っているなら話を聞きたいという事だ」
神楽の口角が上がる。
「先生は心配しすぎです。僕は少し集中して絵を描きたいです」
神楽はそう言って、ベランダの窓を閉めた。
「外は寒いぞ」
「すぐ戻ります。もう少しで完成ですから」
神楽の絵には花の無い薔薇が描いてあった。
花弁がない。あるのは茎と、棘だけだ。
江戸川は子供の頃に読んでいた、植物図鑑を思い出す。
薔薇の棘には敵から身を守るだけでなく、身体を支え、茎の強度を上げるという役割もある。
神楽の元気がないというだけで、これほどまでに心苦しくなるとは知らなかった。
江戸川は呻き、数学の紙を放り投げて、机に突っ伏した。
「フゥン!!」
生徒たちが吃驚して立ち上がる。
「ど、どうしたんですか、先生!」
江戸川は呻きながら言う。
「苦しい」
「え!心臓ですか」
「痛い」
「大丈夫ですか」
「もうダメだ」
「誰かAEDもってきて!」
「違う。身体的なものじゃなくて、精神の話だ」
研究室がシンと静かになり、生徒はそっとたずねて来る。
「イコールさんの事ですか?」
江戸川は驚いて顔を上げた。
「なぜ分かるんだ?」
「だって、そのくらいしか見当たりません。虫歯で神経まで歯が溶けても痛いとか苦しいとか言わない先生がそんな事言うなんて、緊急事態です」
生徒たちが集まって来る。
「先生、俺達が力になりますよ!」
「何でも言って下さい!」
江戸川はぽつりと言う。
「イコールは何か傷ついているのに、俺はどうしようも出来ないんだ。聞いても教えてくれないんだ。俺と喋りたくないみたいだ。どうしよう、俺は嫌われてしまったんだろうか」
「イコールさんは、悩みがあるけど、相談してくれないって感じですか」
「ああ。何度も試したが、笑ってはぐらかすだけだ。こんなに無力だと思ったことは無い。何故俺を頼ってくれないんだ」
生徒の一人がポツリと言った。
「…頼れないのかもしれません。そういう性格、そういう人なのかも」
「どういう意味だ?」
「一人で抱え込んでしまう人です。何とか自分で解決しよう、とか、誰かを嫌な気分にさせたくない、とか、理由はそれぞれかもしれないけど…」
「まるで心を閉ざされているようで、悲しい」
江戸川が言うと、生徒たちが顔を突き合わせて、話し合いを始めた。
「まずイコールさんがさ、心を開くきっかけを作るべきだと思う。急にどうしたのって訊かれて、すぐ本音を打ち明けられる人なんていないもの」
「なるほど。言いたい事は分かる。ムードってヤツだろ」
「そのムードのきっかけをどうするかって所じゃない?」
「うーん。思い切ってハグとか?そこから流れを持っていくのは?」
「ドラマの見過ぎ」
「でも滅多にやらない事だから、効果があったりするかもよ」
「ふつうに話を聞くのが一番だろ」
「それが出来ないから困ってるんでしょ」
「頭を撫でてあげるとか」
「童貞の思考すぎ、急に頭撫でられても、キュン、とかしないから」
「された事ない癖に」
「案外、時間置いたら解決するかもしれないよ?」
「そんな呑気なこと言ってるから彼氏に浮気されるんだよ」
ごちゃごちゃ声が聞こえる。
江戸川の耳に残ったのは、ハグだった。
ハグ…確かに外国では当たり前のことだし、感動のシーンや、応援のシーン、様々な場合で使われる。それだけ意味があり、影響があるのは事実だろう。ムード、話しやすい雰囲気を作るという意見も凄く参考になった。
生徒は言う。
「多分、具体的な行動で解決できるようなものじゃなくて、心の迷いっていうか、そういう感じなんじゃないかな」
江戸川は問う。
「心の悩み?」
「はい。直接言葉で聞くんじゃなくて、少し優しく、タイミングを見計らってそっとたずねるのが良いかもしれません。どうしたの?って」
「なるほど」
生徒は研究そっちのけで、懸命に話し合ってくれたが、結論は出なかった。
それでも江戸川は凄く有難かった。
「ありがとう。とても落ち着いた。出来ることをやってみようと思う」
「いいえ。先生、応援してます!がんばって!」
神楽は画材屋から帰って来て、いつものように絵を描いた。ご飯を食べて、布団に入る。目を閉じても、すぐに眠れない。
もともと神楽は寝つきが悪い。心地よい睡眠なんて、人生で一度も取れた記憶がない。
昔のことを思い出し、神楽は嫌な気持ちになる。
自分が普通に生まれていれば、彼等と同じように人生を歩めたかもしれない。自分は真面目に生きて来たし、何も悪い事はしていない。
それなのに、どうしてこんな目に…
神楽が寝返りを打ち、ぎゅっと布団を抱き締めた時、ミシ、ドタ、という音のあと、急に後ろから、太い腕に抱き込まれた。
「大丈夫だ」
驚きすぎて声も出なかった。
男に…いや、人に抱き着かれた事なんてはじめただ。
神楽が硬直すると、江戸川はそっと頭を撫でてきた。優しく髪を撫で、回した腕を、赤子をあやすようにトントンする。
「…急に、どうしたんですか、怖いんですけど」
「俺は、君の傍にいる」
「…」
「君は、何に悩んでいるんだ」
「なにも」
神楽の言葉を遮り、江戸川は強く言った。
「どうして教えてくれないんだ」
苦しそうだった。
その声に、少し胸が痛くなった。
江戸川は本気で自分を心配してくれているのだ。
江戸川は言う。
「…すまない。言わなくても良い。俺はただ、君が…元気でいて欲しいんだ」
江戸川はぎゅっと神楽を抱き締める。
江戸川の心音がゆっくりと背中を伝って聞こえてくる。
江戸川は囁く。
「君は一人じゃない」
優しく頭を撫でられる。
「俺がついている」
「…どうして先生は、そんなに僕の面倒を見てくれるんですか?」
「そんなこと、大事な人間だからに決まっている」
「大事な人間?」
「そうだ。それ以外になんの理由があるというんだ」
「…異性でもないのに、優しくしてもメリットなんて無いですよ」
「そんな事どうでも良い。別に君になにかして欲しい訳じゃない。そんな難しい話じゃない。ただ心配なんだ」
「…」
神楽は背を向けたまま問う。
「そういえば、畑山さんとは、どんな関係なんですか?」
「畑山?…君のバイトの人か」
「そうです」
江戸川はいっぱく置き、言った。
「あの時は黙っていて悪かった。告白されて、連絡先を教えて欲しいと懇願されたんだ。泣かれたら嫌だったから教えた。でも、ぜんぜん連絡も来なかったから、君に言わなくて良いと思った。秘密にして欲しいと頼まれたんだ。勿論、君がなにか彼女に言う人間じゃないというのは、分かってはいるが…俺は、彼女とは何も関係がないよ」
騙された。
神楽は反省して言った。
「ごめんなさい。僕が馬鹿でした。邪推をしました」
「大丈夫だ。…そうか。あの人が君に嫌がらせをするという人だったのか」
「先生が付き合っていたらどうしようかと思ってしまいました」
「すぐに聞けば良かったのに」
「もし本当だったら耐えられないと思いました」
「そんな訳ないだろう。他にも聞きたいことがあるなら、教えてくれ」
江戸川が頭を撫でる。
「なんでも答えるし、なんでも聞きたい」
「…絵の展示の時に、色々あって」
「そうか」
分かっていた事だが、改めて指摘されて、自分がどれだけ異端か思い知らされた気分だった。
将来のことは不安だし、一人だし、腕は無いし、歳もとっていくし、世間から見たら、実際必死で痛いヤツだろう。恥ずかしいし、もう今回みたいなものはやりたくないし、誰にも評価されたくないし、なのに、それでもまだ絵を描いていたい。
江戸川がそっと胸をトントンする。
心の扉がノックされたようで、それに応えようと、神楽は小さく口を開く。
だが、急に様々な感情が噴出して、神楽は手を付けられなくなった。
溢れた想いが、涙となって零れてくる。
江戸川が身体を起こして、ティッシュ箱から沢山ティッシュを取った。それを神楽に差し出す。神楽も身体を起こして、江戸川の取ってくれたティッシュを受け取った。三角座りをして、言った。
「絵が好きなのに、描いて、人に見せるのが嫌になっている事が辛いです。今までもそういう事はありましたが、それを強く思ってしまいました」
江戸川は頷く。
神楽は言う。
「誰かに認めて貰いたいです。でも、それがいつか分からないし、死ぬまで叶わないかもしれないと思うと、辛くなります。絵というものから、離れたくなります」
神楽は短く息を吸って、続ける。
「才能なんて無いって、分かってました。僕は画家にはなれません」
神楽が泣くと、江戸川は近づいて言った。
「自分を平均値において考えるのは、意味がないぞ。可能性がある限り、それは成立するものだ。君が画家史上初めて六十歳でデビューする可能性だってある。あり得ない出来事の第一人者になるかもしれない」
「…」
神楽が口を閉ざすと、江戸川は言った。
「君は、画家の定義を知っているか?」
「画家の定義?」
江戸川はゆっくり言う。
「絵を描くことを職業とする人。絵を描く人」
「…はい」
「では職業とは何か。職業とは、生計を立てるために日常従事する仕事。貧困の国では、子供は糞を拾う職業をしている。子供が拾った糞は肥料になる。お金が発生する。生計を立てるための仕事だ」
神楽は顔を上げる。
江戸川は神楽の瞳をじっと見て、先生然と言う。
「これを先ほどの画家の定義に当てはめてみよう。絵を描くことを職業とする人。絵を描いてお金を得る人。つまり、少額でも絵を売ることが出来るなら、それは画家と呼べる。誰かに認められることが、画家の定義ではないんだ」
急に涙が込み上げた。
分かっている。
神楽は言う。
「分かってます」
江戸川はなにも言わず、頷く。
神楽がティッシュで目を押し当てると、江戸川はそっと抱擁して、また不器用な手つきで後頭部を優しく撫でてきた。
神楽は言った。
「僕はごちゃごちゃしています。僕は絵を描くことで、絵を評価されることで、自分自身を認められたいと思ってしまっています」
「そうか」
「はい。幼少期に色々あったせいか、色々なものがずっと足りていない気がして、ずっと満たされないままです。とても苦しいです」
江戸川はそっと神楽の顔を覗き込み、言った。
「君の紅葉の絵が好きだ。木漏れ日で眠る猫が、重なる椿の花びらが、俺は綺麗で良いと思う。君は気休めの慰めだと思うかもしれないが、これは事実だ。俺は君の絵が好きだ」
江戸川は手を広げ、安心させるように笑んで言う。
「君の絵は、君の感性は、素晴らしいよ。数学は同じ解き方や、同じ定義をやろうと思えば誰もが応えられる。だが絵は違う。模写でもない限り、君の絵は世界にただ一つだ」
神楽は鼻をかみ、少し笑った。
「規模が大きいです」
江戸川は目を細めて言う。
「事実だよ。君にしか出来ない事、君にしか描けない絵。それだけで価値がある。他人が評価するなんて、矛盾した話だ。その絵は描き手にしか理解できない。見る側が理解できる絵を描くのは、また違うものだ。それを両立させられるのが、一部の人間、一般的に言う、才能というものなんだろう」
「…その通りですね」
「もっと自信を持つんだ。君の絵は美しい。一番綺麗で、温かい良い絵だ」
「ありがとうございます」
「君が認められないのなら、誰かが認めてくれないのなら、たくさん俺が認めよう。君の絵はすごく綺麗だ。そして、君自身も、料理が出来るし優しいし、一生懸命になれる、真面目で素敵な人間だ」
神楽はもう泣かなかった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございます。すごく元気が出ました」
「そうか、良かった」
江戸川は優しい声で言う。
「君が元気だと、俺も嬉しい」
江戸川の言葉はいつもストレートだ。偽りも虚勢も無い。
だから安心できる。
「取り乱してすみません」
「ぜんぜん大丈夫だ」
江戸川は自分の布団に戻っていく。
神楽と江戸川は再び布団に横になり、電気を消した。
神楽は目を閉じて言った。
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ」
その夜を境に、神楽は復活した。
絵画教室もバイトも、いつも通りこなせている。
だが、一つ恥ずかしい問題がある。
神楽は今までずっと誰かに頼らないように、誰も好きになり過ぎないように生きて来た。だから、あの夜に大泣きして弱さを晒し、思い切り江戸川に甘えてしまったせいで、完全に気を許してしまった。その反動なのか、ずっと江戸川のことを考えてしまう。
休日どこへ行こうとか、どんな事をしようかとか、もう芋づる式の思考で、違うことを考えようと思っても、いつの間にか江戸川のことに繋がっていたりする。
しかもそれに自覚がない時がある。
たぶん依存だ。江戸川に甘え過ぎないように、気を付けなければいけない。
神楽は気を引き締めながら、江戸川の大好きな宇治抹茶アイスを二つ籠に入れていた。
クリスマスの日は、二人でチキンを買ってきて、神楽の作ったチョコレートケーキを食べた。
江戸川は一口食べて、言う。
「美味い。市販のものより美味い」
「ふふ、言いすぎですよ」
「作ってくれてありがとう」
「いいえ。僕も楽しかったです。普段はケーキも食べないので」
「そうなのか」
「はい。昔からプレゼントをもらう習慣もなかったので、特別な日だと感じられませんでした。でも、今年は違いました。みんなの言うクリスマスが、少し分かった気がします」
江戸川は穏やかに笑った。
「そうか」
「はい」
神楽は思い出して言った。
「そうだ先生、来月、動物園に行ってきます」
「動物園?」
「絵画教室の写生大会があるんです」
「ほう、動物を描くのか?」
「はい。子供達は家族と一緒に来ます。僕たち先生がそれを見回ったり、出席の確認をしたりっていう感じです。陽菜ちゃんもご両親と参加するようですよ」
「俺も行く」
「え、先生も来るんですか?」
「ああ。何だか楽しそうだ。休日だろう?」
「はい。日曜日です」
「俺も行きたい」
身を乗り出す江戸川に、神楽は笑って言った。
「分かりました。じゃあ陽菜ちゃんの保護者としてカウントしておきますね」
「君は絵を描くのか?」
「時間があれば描こうと思います」
「陽菜だけじゃなくて、君とも動物園で遊びたい」
「いや、遊びに行くんじゃなくて、仕事です」
「なら、仕事が終わった後、少し遊ぼう」
大真面目に提案する江戸川が、何だか可愛らしかった。
「良いですよ」
江戸川は頷き、神楽の顔をじっと見て言った。
「君が元気になって良かった」
「あの時は迷惑を掛けてしまって、すみません」
「ぜんぜん気にしていない」
神楽は鞄を取り、中から赤い包の長方形のプレゼントを取り出した。江戸川に差し出す。
「これは何だ?」
「日頃の感謝の気持ちです」
江戸川は丁寧に包装紙を開けて、中身のペンをじっと見た。
「柄がある」
「はい。先生はカラーペンって見分けがつきにくいと思ったんです。だからリンゴは赤で、オレンジが橙、バナナが黄色、メロンが緑、魚が青で、花がピンク、ぶどうが紫です。先生は見えなくても、一般的に物が何色に見えるかは大方分かっているようだったので、柄にしました。何か書く時とか、良かったら使って下さい」
江戸川は目を大きく見開いた後、ぎゅっと顔を縮めて笑った。
「ありがとう」
江戸川はメロン柄のペンで生徒の英文を添削していた。
七色のペンを並べ、昨日の出来事を思い出す。
神楽に元気が戻った。それに何だか楽しそうだ。ケーキまで作ってくれた。それだけでも嬉しかったが、プレゼントをくれた。
きっと凄く考えてくれたんだろう。ペンの形は似ていて、色が分からないかもしれない、という悩みは勿論、柄の入っているものなら分かるかもしれない、なんて考え、すぐには出て来ないはずだ。
江戸川がじっとペンを眺めていると、生徒がやって来て言った。
「そのペン、凄く可愛いですね」
「イコールから貰った!」
「え!そうなんですか!」
生徒には、神楽の悩みを聞いて、仲直りできたという事は伝えてある。
生徒はニコニコして言う。
「良かった~ほんと、一時はどうなる事かと思いました」
江戸川は生徒の服を見る。
それから体格、髪型、を確認し、答え合わせをするように、江戸川は自信を持って言った。
「最近、君達のことが分かるようになって来た」
「どういう事ですか?」
川崎佐知子はちょっと大げさに首を傾げる。
あの時、生徒たちが懸命に色々考えてくれて、本当に救われた気がした。
江戸川は生徒たちを、改めて好きだと思った。
そして、神楽を知りたいのと同じように、生徒たちのことももっと知りたいと自分が思っている事に気が付いたのだ。
だから名簿を見た。
研究室にいる生徒の数は十人。大学のホームページを見れば、どの研究を誰がしているかは載っている。
少しずつ確認して、把握できるようになった。
自分が想像していたよりも、ずっと簡単なことだった。たったの十人だ。
今まで自分は覚えようともしなかった。初めから無理だと思っていた。
随分甘やかされていたのだと、少し恥ずかしくなるくらいだった。
江戸川は言う。
「顔は難しいが、声や容姿が頭に入って来る。そして君の名前は1番じゃなくて、川崎佐知子。いつも俺に話し掛けてくれる、明るくて優しい生徒だ」
ガタン、と音が揃って、生徒が一斉に立ち上がった。
「…どうした?」
生徒たちが押し寄せてくる。
「俺は分かりますか?」
「竹田竜」
「先生すごい!ビックリなんですけど!」
ほかの生徒の名前も言うと、みんな目を丸くして、笑ってくれた。
「覚えてくれて嬉しいです!」
「やっぱり恋の力ってすごい!」
江戸川は首を傾げた。
「恋?」
「イコールさんとの恋ですよ!」
江戸川は笑って言った。
「イコールは男だぞ」
「え!?」
研究室が静まる。
一瞬のち、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
生徒たちは身を乗り出して質問をしてくる。
「同棲して、休日ピクニックして、クリスマスでプレゼントまで貰って?」
「そうだ。とても楽しい。これからも一緒に居たいと思っている。そうだ、来週は一緒に動物園も行くんだ。楽しみだ」
生徒達は顔を突き合わせ、喋り出す。
「なにか利用されてる?」
「超寛大な人で、寂しい先生を見過ごせないとか?」
「いや、先生とは善意だけで付き合えないだろ、本当に相性が良いんだよ」
「そうだったら奇跡でしょ。そんな人、もう二度と出会えないんじゃない?」
「もう男でも良くないか?」
「確かに」
「ていうか、じゃあ、この前の布団とベッドの話ってどうなったんだ?」
「いやそれより、ハグして頭を撫でたら仲直りできたって、どういう事だよ」
「やばい、何かもうよく分からなくなって来た」
江戸川はハッハッハ、と笑って言った。
「ずっと勘違いをしていたのか、そんな事あるんだな。君達は想像が豊かだな」
時刻は九時五分。
江戸川は入場門にあったパンフレットを取り、開く。
神楽もスマートフォンで園内マップの画像を見て言う。
「先生たちは猿の場所に居るので、そこへ向かいましょう」
「猿はどこだ」
神楽は江戸川の開いているパンフレットを覗き、小さい猿のマークを指差す。
「ここですね」
「もう生徒は絵を描いているのか?」
「四時までに絵は提出と決まっているだけなので、いつも皆そんなに焦ってはいません」
「そうか、割と自由なんだな」
「そうですね。そういえば先生は僕と一緒に来ましたが、陽菜ちゃんと合流する約束はちゃんとしていますか?」
「昨日チャットで、おじさんは一人で遊んでて、と言われた」
煙たがられているようだ。
「母親と父親が揃う日は余りないからな。俺は一人で回ることにする」
「時間潰せますか?」
「ぜんぜん大丈夫だ。数学の資料は持って来た」
「暇になったら、動物園を出てほかの場所に行っていても良いですよ?湖も近いですし、鰻とかも美味しいらしいです。近くにお店がありましたよ」
「分かった」
くねる上り坂を歩いていくと、正面にカンガルーの柵が現れる。
近づいて覗くと、凸凹の地面に、数匹のカンガルーが寝そべっていた。
江戸川が言う。
「動物園のホームページで少し調べて来た。カンガルーはアカカンガルーとオオカンガルーとクロカンガルーがいるが、ここに居るのはクロカンガルーだ。クロカンガルーがいるのは全国の動物園で三か所だけだ。オーストラリアの南側の拓けた台地にしか棲まない。レアだ」
「へぇ!何度か来たことありますが、木陰で寝そべるただのカンガルーだと思っていました」
「とても可愛らしいじゃないか。木もあるし、被写体として人気そうだな」
「最下位ですね。三年に一人描いているかどうかです」
「何だと?人気は何だ」
「レッサーパンダとか、白クマ、ライオンですかね」
「そうなのか」
「絵具を広げるし、立地も重要になるので、単純に動物のランキングならまた違って来るんじゃないかな」
「なるほど。陽菜は何を描くだろう」
「去年はレッサーパンダでしたよ」
「そうか。ならカンガルーを後で勧めておこう」
「そういう事するから陽菜ちゃんに煙たがられるんですよ」
「そうか?」
「そうですよ」
ポニー、ヤギ、ヒツジ、ロバを通り越すと、広いビニールハウスの鳥ゾーンがある。
室内なので、人が集まって混み始めた。
ドアを開ける時に途中で子供が走ってきて、江戸川と分かれてしまった。
江戸川はキョロキョロと辺りを見回している。
神楽は目立つように赤い服を着て来たけれど、似たような服を着ている人も多かった。
神楽は急いで江戸川の元へ駆け寄る。
「先生!」
そうして江戸川の袖口を掴んだ。
江戸川は微かにほっとした表情をする。
もしかしたら江戸川は自分が想像するよりもずっと、人混みを緊張しているのかもしれない。
神楽は袖を掴んだまま、一緒に歩いてあげることにした。
ちょっと恥ずかしいが、混んでいるし誰も見ていないだろう。
それより江戸川が迷子になる方がよっぽど困る。
江戸川と目が合う。
江戸川は言う。
「そこにカモが居る」
「え?」
「後ろ」
「あ、本当ですね」
自分が過敏になっているだけかもしれなかった。
江戸川と分かれ、猿山の場所に行き、絵画教室の先生達と集合する。
生徒が少しずつやって来る。
出席簿に〇をつけ、画板とお菓子を渡す。
「頑張ってね」
「はい!」
みんな親の前だからか、ちょっと張り切っているのが可愛らしい。
午後は、生徒の様子を見て回った。
クマゾーンに来た時、赤いピクニックシートに座る陽菜を見つけた。隣に両親も居る。
「あ、かぐ先生!」
「陽菜ちゃんこんにちはー」
陽菜の隣に座る母親にも笑顔で挨拶する。
「いつも陽菜がお世話になっています~」
「いえいえ」
陽菜が言う。
「いつもおじさんがお世話になってます」
絶対言うと思った。
神楽は言う。
「ふふ、こちらこそ。陽菜ちゃんは何を描いているの?」
「しろくま!」
「おお、いいねぇ」
陽菜は白いクレヨンでクマの輪郭を描いている。いつもよりも線がまっすぐで綺麗だ。ちょっとお母さんが手伝った痕跡があるが、どこの家庭も大体そうだ。
陽菜は元気に言う。
「今から色を塗ります!」
「そうなんだ、頑張ってね」
「うん!」
猿山のゾーンは動物園の出口付近にあって、みんなが帰ると同時に絵を提出していく。
写生大会が終わって、アトリエを仕切っている絵の先生が絵を回収する。
そこで解散となり、神楽は江戸川と合流した。
「俺はあそこに行きたい」
江戸川が指差す場所にはふれあい広場がある。
「えー」
子供とカップルばかりだ。
「だめか?」
「しょうがないですね。そんなにウサギ好きなんですか」
「ああ。可愛い」
「カンガルーとどっちが好きですか?」
「…ウサギ」
「裏切り者」
「可愛いの種類が違う」
「そういう事にしておきますよ」
柵を押して、中に入る。
ウサギを抱っこして座るゾーンがある。
「先生はどんなウサギがお好みですか?真っ白、真っ黒、白と黒のブチ、明るい茶色、グレー」
「明るい茶色」
「それはこのうさちゃんですね」
「そうか」
「ほら先生はそこに座って下さい。膝に乗っけてあげますから」
「今日は君の方が先生っぽいな」
「だって、先生は放っておけないですから。すぐどっか行きそうだし」
神楽は子供に混じって座る江戸川の膝にうさぎを乗せてあげた。
江戸川はそっとうさぎを撫でる。
百九十センチの大きなおじさんが子供に混じって大真面目にうさぎを撫でている姿が余りにもシュールで、神楽は吹き出した。
滅多にスマートフォンで写真なんか撮らないが、この時ばかりは撮っておこうと、神楽はシャッターを押した。
江戸川は頬杖をつき、昨日のことを思い返す。
動物園なんて久しぶりに行ったけれど、凄く楽しかった。
人混みは、誰かと行くのは今でも少し緊張する。
神楽と分かれてしまった時、ヒヤッとした。
だが神楽は、先生、といつものように呼んでくれて、すぐに駆け寄ってきてくれた。
それから、少し人混みになると、さり気なく袖を掴んでくれた。
お陰でリラックスして動物園を見て周ることが出来た。
神楽が居ると、気が楽だ。
動物たちがどんな色かも沢山教えてくれた。
帰りの道は、神楽が案内してくれた。
鰻重を食べて、湖の外縁を少し散歩してから帰った。
その時見た夕陽がとても綺麗だった。
神楽も沢山笑ってくれて、楽しそうで、自分も凄く楽しかった。
夕陽に重なる神楽の影が、とても綺麗だった。
人生に正解なんて無いけれど、自分にとって神楽はまるで…
「答えに導いてくれる、イコールのようだ」
その時、生徒たちがぞろぞろと集まって来た。
神妙な顔をして、何を言うのかと思いきや、みんなが声を合わせて言った。
「先生を応援します!」
「…なんの応援だ?」
「先生の幸せです!また困った事があったら、何でも相談して下さい!」
「ふふ、分かった。君達は頼りになる。俺は百人力だよ」
一月も終わり頃、カフェに展示していた絵を回収するために、神楽は再びトラウマの地であるルマサンドに赴いた。
行くときに江戸川がハグして応援してくれた。
そういえば江戸川は外国で研究をしていたと言っていたから、癖になっているのかもしれない。
初めは妙だと思っていたけれど、江戸川のハグは元気と勇気が湧いてくるので不思議だった。ちょっと外国人になった気分だ。
カフェの二階に上がり、各々飾っていた絵を自分で取り、回収する。
その後、初めに絵をプレゼンテーションした審査員三人から、受賞の話があった。
驚いたことに、お客さんの得票数ではなく、三つの賞は審査員によって決められるのだという。
だったら初めからこんな形式要らなかったじゃないか、という言葉は呑み込む。
審査員は言う。
「非常に良い作品ばかりでした。この中から、グランプリ、準グランプリ、優秀賞を発表します」
発表があり、その後表彰が行われ、盾と賞状が授与される。
終わりかと思いきや、カフェのオーナーが出てきて言った。
「今回は私自身が、このカフェに飾る絵はどんなものがふさわしいか、参考にするために開いたものでもありました。なので、私からはルマサンドカフェ特別賞という形で、受賞を発表したいと思います。最もお客さんの票が多かったのは、神楽湊さん「あなたの街」です」
てきとうに拍手しようとして、神楽は目を瞬かせる。
今自分の名前を呼ばれたような。
周囲の人間が自分を見た。自分のことか?と神楽は疑って周りを見るが、自分らしい。
現実感のないまま、賞状を受け取り、あっという間に解散になった。
グランプリをとった人間達はとても嬉しそうだ。
ふと神楽は思う。ルマサンドカフェ賞よりも、彼等はグランプリを狙っていたのだろう。
実際、有名大学の審査員の選んだ「グランプリ」と素人の選んだ「ルマサンドカフェ賞」じゃ、価値が違う。
「だけど」
神楽は賞状を見る。
凄く嬉しい。
お客さんにとって、自分の絵が良く見えたのは証明されたのだ。
感動に浸っていると、トントンと靴を鳴らして、畑山がやって来た。
神楽の前に向き合い、畑山は腕を組み、仏頂面で言った。
「馬鹿にしてすみませんでした。今回の絵、神楽さんから多くの学びを得ることが出来ました。また仕事でもよろしくお願いします」
「え!」
罵られるかと思っていたので、本当に驚いた。
畑山は一言、言う。
「良い絵でした。すごく」
「…」
賞をもらったのと同じくらいの衝撃を受け、神楽は上手く言葉を返せなかった。
畑山は前髪を弄り、言う。
「…お節介ですけど」
「うん?」
「神楽さんは、江戸川さんがゲイだってこと、知っていますか?」
腰を抜かしそうになった。
「ど、ど、どういう事?」
「あの時、あたし江戸川さんに告白したんですよ。真面目に」
「う、うん。聞いた」
「あたし、告白して断られた事ないんですけど」
「…うん」
「自信があったんですけど、普通断らないじゃないですか」
「…うん、まあ」
「ゲイだからって断られたんですよ」
「本当?」
「はい」
いや、これもどうせ嘘なんじゃないか。
神楽の心を読んだように、畑山は腕を組んで言う。
「本当ですよ。別に、あたしは関係ないし、神楽さんが信じなくても良いんですけどね」
「…」
畑山は眉を上げて言う。
「あたしが言いたいのは、絵を飾った後から、しばらく神楽さん顔色悪かったけど、急に吹っ切れた感じになってたじゃないですか?江戸川さんは落ち着いているし、包容力もある感じしますよね。神楽さんと江戸川さんはお似合いだと思いますよ。あたし、絵描きとして、自分の絵や、自分の技術を貶されるくやしさとか、悲しさは分かってます。馬鹿にしたこと、反省してるんですよ」
「それで、伝えに来たの?」
「江戸川さんが居た方が、神楽さんも元気そうだし、ライバルとして張り合いがあるじゃないですか。バイトも神楽さんが辞めたら困るし。あたしじゃ分かんない事たくさんあるし」
「そう思うならちょっとは頑張りなよ」
「とにかく、そういう事です」
畑山は踵を返し、凛と背を伸ばして帰って行った。
色々な事がありすぎて、ちょっと理解が追い付かない。
神楽は整理する。
賞を取れたということ。とても嬉しかった。
自分の絵を畑山は評価してくれていたことも、思いもしなかったので驚いた。絵の技術を貶したことをわざわざ謝罪しに来たので、何だか憎めない人だと思ってしまった。
そして、浮上した、江戸川が実はゲイかもしれない疑惑。
外国人テイストだと解釈していたけれど、まさかそういう事なのか?
…いつかタイミングを計らって、ちゃんと聞いてみよう。
江戸川に受賞したことを話すと、自分のことのように喜んでくれた。
そして江戸川は言った。
「今日は俺が夕飯を作る」
そうしてご飯を作ってくれた。
小豆ご飯と、焼き肉と、型崩れした不格好の豆腐と油揚げの味噌汁は、本当に美味しくて、江戸川がゲイでも別に良いか、と神楽は思った。
画材屋のバイトはいつも通りだった。
畑山は仕事をさぼり、その間に神楽は丁寧に接客をする。
けれど、畑山と躱す会話は、今までよりも棘が少ない。
お互いに、真剣に絵を描いているからだと知ることが出来たのは、大きな出来事だった。
神楽が品出しをしていると、常連の男性がやって来た。
カフェのコンペティションに参加させてくれた男性だ。今日は沢山和紙だけを買いに来たようだ。
男性はレジのところまで来て、神楽は品物を袋に入れてから、男性に差し出す。
男性が受けとったのと同時に、神楽は深く頭を下げて言った。
「カフェの展覧会のお話、紹介して下さったおかげで、賞をとることが出来ました。本当に、ありがとうございました」
男性は微笑んで言った。
「そうか。おめでとう」
「ありがとうございます。グランプリとかでは無いんですが、お客さんからの票が一番多いと貰える賞でした。基本的にコンペティションやコンクールって、審査員の評価だけで決まるので、今回のようなものは本当に珍しくて、貴重な経験をさせて貰えました。本当に感謝しています」
男性は二度、ゆっくりと頷く。そして言った。
「君は綺麗な絵を描くと思ったんだ」
男性は店の台に鞄を置き、ゆっくりと言う。
「この職業に就いてから、もう四十年近く経つ。言葉を交わし、相手の目を見れば、おのずとその人の描く絵というのが見えてくる」
「はい」
この職業?
よく分からないが、神楽は頷く。
「私の仕事はね、作家を発掘することでもある。昔からそうだが、君は人に対して一生懸命で、私の無理難題にも勉強をして誠実に応えてくれた。とても嬉しかったよ。そういう人はね、絵に対しての向き合い方も、凄く真面目だから、良い絵を描くんだ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
「君自身も絵を描くことを知って、興味を引かれた。その時、ちょうどあの話があったから、君に話してみたんだ」
「そうだったんですね」
「ああ。君の絵を、実際に見て来たよ。私の想像以上に、素敵な絵だった。君の絵は、ただ見る人に喜んで貰いたい、という想いだけがあった。そのために沢山の工夫が凝らされていたね」
「ありがとうございます…でも、僕の絵は表面的で、浅いと言われてしまいました」
「誰に?」
「画商さんです」
「画商によっても、売る絵が違うんだよ。あと、芸術はただ芸術のみを考え、描いたもの。人に何かを感じてもらいたい、なんて考えは全く存在しないんだ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。全く別のものだから、比較する必要なんてどこにも無い。私が考えるのは、その絵に感情が存在するかどうかだ。君の絵はそれがある。価値観が違うんだ」
「そう…でしょうか」
「そうだよ。私は作家を育て、絵画の世界を広げたいとも思っている。だから単体で高額なものを個人に売るものではなく、どこか小さな店に飾るような絵や、病院、学校、施設、そういう場所に飾る絵を取り扱っている。地域のマーケットにも売ったりしているよ。ちょっとリーズナブルな画商なんだ」
「え、画商さんだったんですか!」
神楽が驚いて目を見開くと、画商は笑って言った。
「君の絵は私が求めていた条件に、ピッタリだった。そしてそれは、今回の展覧会で、このような形で証明された。私は自信を持って、君の絵を売ることが出来る。何が言いたいのかというと、君の絵を取り扱わせて欲しいという事だ」
信じられない話だった。
「…あの…でも、あの絵が良かったのは、まぐれかもしれません。人に褒められた事はあまりないですし、期待に応えられるかは分かりません」
画商は笑う。
「私の仕事は作家を育てることも含む。初めから絵を売る訳じゃないよ」
神楽は恥ずかしくなって頷く。
「そうですよね、すみません」
「君は自信がないようだけど、あの絵は本当にすごく良かった。私はここの生まれだけどね、何だか昔の事を思い出して、ずっと見てしまった。私は君の絵が欲しいと本気で思った」
「ありがとうございます」
神楽は嬉しくて頭を下げた。
ゆっくり顔を上げて画商を見ると、画商は言った。
「これは仕事じゃないよ?個人としてお願いがある、君のあの絵を売ってくれないだろうか」
「え?」
「二十万でどうだい?」
言葉が出てこなかった。
もう一度、神楽は深く身体を折って頭を下げる。
江戸川の言葉を思い出す。
初めて金銭が発生した。
自分は今この瞬間、画家になることが出来たのだ。
生徒はあれから、神楽について色々と質問を重ねて来た。
だから江戸川は、事の顛末を生徒に話した。
「…という事で、神楽は初めて絵を売ることに成功したんだ」
「凄い!良かったですね!」
「ああ。良い絵だったから、俺も嬉しい」
「へー!どんな絵なのか、ちょっと気になるなぁ」
生徒が言う。
江戸川は閃き、立ち上がって言った。
「そうだ!君達、俺の家に遊びに来れば良い。家に沢山絵があるし、イコールも君達に会いたいとよく言っている」
「え!先生の家?!」
「行きたい!」
「俺も!」
「めっちゃ楽しみ!」
という事で、江戸川は神楽に話をした。
「……先生の言う生徒たちって、何人ですか?」
「たったの十人だ。そんなに多くないだろう?」
「いや、この家に呼ぶんですよね?周りを見てください、無理です」
江戸川は盛り上がってしまっているのか、沢山喋る。
「あのな、神楽の作る手料理を食べたいと生徒たちが言っている」
「えぇ」
「嫌か?」
「嫌じゃないですけど緊張しますよ。それに十人だったら大分作らなきゃいけないですよ。男の子も居るんでしょう?」
「七人だ」
「じゃあ大変なことになりますよ。まず部屋を片付けないといけないし」
「みんな凄く良い子だ」
「分かりましたから、人の話を聞いて下さい。勝手に企画した先生にも手伝ってもらいますからね!」
金曜日の夜、江戸川と生徒たちがやって来た。
神楽は前日から下準備をしていて、バイトを終えてから急いで帰って料理を作った。
まったく手料理が食べたいなんて、十人でやって来てちょっと図々しいな、なんて苦笑した時、ふと、江戸川は自分のことをちゃんと説明しているだろうかと思った。
まあ先生のことだから、べらべら自分の事を包み隠さず喋っているに違いない。たぶん一緒に住んでることとか、絵のことも言っているんじゃないだろうか。
ちょっと恥ずかしく思いながら、インターフォンが鳴り、江戸川と生徒たちを出迎えた。
神楽は笑顔で挨拶する。
「こんにちは、初めまして。今日はゆっくりしてってね」
「ありがとうございます!」
「お世話になります!」
生徒たちは玄関に入ってすぐ、わあ!と声を揃えて言った。
「すごい!絵めっちゃ綺麗!」
「猫かわいい!」
「うさぎもいる!超かわいい」
「風景リアル!すっご!」
「ありがとう」
神楽は思わず微笑んだ。
確かに江戸川の言う通り、良い子たちだ。
何故か江戸川は自慢げに言う。
「そうだろう」
「はい!先生お招きしてくれてありがとうございます!」
「先生の言った通りでした!」
「ふふ、そうだろう」
みんなにおだてられて上機嫌な江戸川は見ていて面白かった。
生徒達が純粋に江戸川を可愛がっているのが分かった。
愛されキャラというのは江戸川の事を言うのかもしれない。
料理をつけている間にも、生徒たちはよく喋る。耳を澄ますと、色々聞こえてくる。
「やばいカッコいい」
「お似合いじゃん」
「これは勘違いしてもしょうがないよ。料理も凄いし、部屋も綺麗だし。男の人とは思えないくらい、気を遣える人じゃん」
お似合い?勘違い?
「そうだね、先生の言う通り、まんま素敵な人だったね」
「うん。まさかこんなもてなしてくれるとは思わなかった」
「先生すっごく料理が上手いって自慢してたから、あたし思わず食べてみたいなって言っちゃったんだけど、悪かったかな」
「先生に冗談はきかないからな」
「外食の予定だったけど、それはまた今度ね」
そういうことか、と神楽は苦笑した。
「てか、ほんと料理すご、手焼きのピザとか俺食べたことないんだけど」
「ハンバーグキター!」
「めっちゃ美味しそう。これは先生もピクニックに行く訳だ」
料理が揃って、みんなで頂きますと言う。
成人男性九人女性三人によってあっという間に平らげてしまった。
神楽は立ち上がり、お皿を片付けて問う。
「何か作ろうか?それともピザでも頼む?」
「いえ!大丈夫です!それに神楽さんのピザにはかないません!」
「ありがとう」
江戸川も心を許す訳だ。
江戸川がトイレで席を外した時、生徒がそっと話を振って来た。
「先生って、ちょっと変わってますよね」
神楽は笑って答える。
「ああ、うん。まあそうだね。初めはビックリしたよ。この腕に興味があるって言われて、測らせてって言われた所から仲良くなったんだ」
生徒がパチンと自身の額を叩く。
「そっちの腕か!」
「ん?どういうこと?」
「いえ、何でもないです。神楽さんって、先生のことどう思ってるんですか?」
「え?先生のこと?」
「はい」
生徒の前だし、江戸川の株を上げてあげよう、と考えながら、神楽は言う。
「感謝してるよ。色々なことを教えてくれて、変わってるかと思ったら、意外にちゃんとした考えを持っていて、僕が悩んだ時とかも、何度も助けられた。数学も出来るし、すごい人だよね」
生徒たちは頷き、顔を見合わせ、ニコニコと笑った。
江戸川はすごく生徒に慕われているようだ。
ふと、神楽は思いついた。
これだけ先生を好きなら、生徒たちは先生のセクシュアリティについて知っているかもしれない。
神楽は思い切って問う。
「あのさ、その…先生って、男の人も好きだったり…する?」
生徒たちは一斉に顔を見合わせた。
謎の間のあと、女子生徒が元気に言った。
「ゲイかは知らないんですけど、神楽さんのことは大好きだって言ってました!」
「え」
横から男子生徒が言う。
「愛してるって!」
「神楽さんが落ち込んでいた時、先生はずっと、どうしたら励ますことが出来るか、すっごく考えていました!」
「…」
ほかの生徒も言った。
「応援しています!頑張ってください」
「えーっと」
「先生をよろしくお願いします!」
生徒が帰ってから、思わず神楽はじっと江戸川を観察していた。
「…どうした?」
「いえ…」
たしかに、急に家に誘って来たのも何だか怪しいし、布団を横に敷いて一緒に寝始めたのも今考えると変だし、昔のことを思い出せば出す程、まるで答え合わせをしているかのようだ。
神楽は思い切って口を開いた。
「あの…生徒さんから聞いたんですが、先生が僕のことを好きって、本当ですか?」
江戸川は目を丸くし、笑って言う。
「そうだよ」
そして、ぎゅっとハグされた。
「恥ずかしいことを、聞くんじゃあ無いよ」
「…」
色々とビックリだが、こうして抱き締められていても、嫌な感じは全然しない。
むしろ心地よい。
ずっとこの広い胸に抱かれていても良い気がしてくる。
先生は自分が好きだと告白してくれた。
自分も応えなきゃいけない。
ええい、ままよ、と神楽は江戸川の背に腕を回した。
「俺も好きです」
これから起きる二人の恋は、神のみぞ知る。