その1 ひとりぼっち
夜の丘を走っていた。
足がもつれそうになりながら、それでも必死に前へ前へと進み続けた。身体が麻痺してしまったように、疲れすら感じない。ここまで来たら、もう追ってくる人もいないだろう。分かっているのに、それでも足を止められない。
中央国を出て、どれくらいの時間が経っているのだろう。汽車に乗り、貨物船に潜り込み、無我夢中で遠くを目指した。行く先なんて分からない、ただ遠くに行ければそれでよかった。
さっきまで夕焼け空が見えていたはずなのに、いつの間にかすっかり辺りは闇に落ちている。冷たい風に翻る、黒いサテンのリボン。薄手の黒いワンピースの裾が、走る度にふくらはぎに絡みつく。
立ち止まったら、もうどこにも進めないような気がした。誰もいない丘の上を、ただやみくもに走り続けた。自分の乱れた呼吸の音すら、どこか遠くに聞こえる。
厚い雲が垂れこめた真っ暗な夜空には、星なんて一つも見えなかった。
***
どれだけ走っただろう。周囲が明るくなり、ふと足を止めた。
いつの間にか足元の道は乾いた土と雑草ではなく、石畳に変わっていた。ぽつりぽつりと道の端に街灯が見える。酒場とみられる店の窓からは、時折人の話し声と笑い声が賑やかに流れてきた。
(少し休もう。ここまで来れば、もう大丈夫)
走り過ぎて、膝ががくがくする。近くの石壁にもたれかかり、ゆっくりと呼吸を整えた。
先ほど船から降りた港近くは、大きく開けた街並みが広がっていて、とても落ち着ける気がしなかった。でも、そこから更にひた走って、ようやくこの小さな町へたどり着くことができた。きっとここまで誰かが探しに来ることはない。
(どこだろう、ここ。多分西国のどこかだよね)
何かに追われるようにして進み続け、こんな遠くまで来てしまった。知り合いがいる訳でもない見知らぬ土地に、たった一人。心細い気持ちに、思わずぎゅっと自分の細い体を抱きしめる。
彼女の名はアリア・コーダ、年は十歳。長い黒髪は、サイドだけ細い三つ編みにして、下を黒いリボンで結んでいた。服は黒いワンピース、足元は黒いショートブーツ。可愛らしくも見えたが、それはまさに葬儀から抜け出てきたばかりの服装であった。落ち着いたたたずまいが、彼女を年齢よりも大人びて見せている。
上から下までカラスのような黒づくめにも関わらず、彼女は周囲から浮き上がって見えた。少しきつめの大きな黒い瞳と、透明感のある白い肌は、まるでビスクの人形のようにも見える。それだけでも存在感のある美少女だったが、先端の尖った耳が更に不思議な魅力を与えていた。尖った耳は、このオズの国では魔術師の証だ。ただし、幼い彼女はまだ能力が覚醒していないため、ほとんど魔法は使えない。今のところは、ただの弱い子どもに過ぎない。
アリアはぼんやりと、目の前を通り過ぎる人々を眺めた。中央国を出たのは初めてだったが、オズの公用語は中央国もそれ以外の国も統一されているので、言葉が通じないという心配はない。それでも、通り過ぎる人々の話し言葉からはこの土地特有と思われるなまりのようなものが感じられ、やや聞き取りづらい。町工場からの仕事帰りだろうか、柄の悪そうな男たちが大声で話しながら道幅いっぱいに歩いてきて、アリアは思わず身を竦めてポストの影に隠れた。
(お金、あとどれくらい残ってるかな)
こっそりと、ワンピースのポケットから小さな財布を取り出した。そもそもそれほど大した金額が入っていたわけでもなく、ここへ来るまでにもそれなりに使ってしまった。紙幣が一枚、あとは小銭ばかり。一枚だけ大きな金貨があるが、これは本当に困った時のために取っておきたい。
ため息をつきながらポケットに財布を戻そうとした、その時。
横からパッと、細い腕が伸びた。一瞬の出来事だった。
「えっ?」
瞬きをした次の瞬間には、手の中から財布が消えていた。
アリアは昔、中央国で手品というものを見たことがある。最初はてっきり魔法だと思ったが、そうではないと聞いて二度驚いた。ちょうど、その手品というものによく似ている。
ハッと顔を上げると、粗末な身なりをした二人の少年が声を立てて笑いながら走り去ろうとするところだった。赤髪の少年の手にアリアの財布が握られているのを見て、ふと背筋が冷えるのを覚えた。あれがないと、生きていけない。




