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が、ある瞬間を境にその日々がピタリと終わる。それは鈴姉さんの孤児院に初めて足を踏み入れ、俺に出迎えられた瞬間だった。「自分でも笑っちゃうんだけど」と前置きし舞ちゃん自身が語ったところによると、俺に出迎えられるや二足の草鞋を履く日々は消し飛び、ただひたすら戦士を目指すようになったそうだ。そのことへ、疑問や後悔は一切抱いていない。戦士になった自分、及び戦士として子供達を導く保育士という職業の両方を、舞ちゃんはとても誇りに感じているからだ。したがってバイオリン奏者にならなかったことにも疑問や後悔はなく、それどころか思い出すことすら数十年間なかったのに、驚天動地では足りないレベルのことをある朝いきなり知った。バイオリン奏者になる目標を吹き飛ばした張本人の俺が、あろうことか非常に優れたバイオリン奏者になっていたのである。しかも、舞ちゃんに内緒でだ。前世を覚えている舞ちゃんは、弦楽器の上達には膨大な時間が必要なことを知っていた。またプロのバイオリン奏者だった舞ちゃんは、上達のコツや美しい音を奏でる秘訣も無数に知っていた。よって自分に相談してくれればそれらを幾らでも教えて、そうすることで俺への恩を幾ばくなりとも返すことが出来たのに、俺はそれをさせなかった。恩を返したいと何十年も願い続け、その最高の機会がやって来ていたにも拘わらず、俺はそれを微塵もさせなかったのだ。それは舞ちゃんにとって、裏切りに等しかった。そうそれは舞ちゃんにとって手ひどい裏切りに他ならず、然るに舞ちゃんは床に突っ伏し、号泣したのである。
ただ号泣したのは、昨夜11時のこと。母さんが夢にやって来たときのことだね。舞ちゃんもそれに気づき「少し先走っちゃった」と詫び、昨日の起床時に話を戻した。
昨日の起床時、俺がバイオリン奏者になった件が心の中にあることを、舞ちゃんは突如知った。普通なら混乱不可避でも、舞ちゃんは組織の一員。組織の一員としてその仕組みを推測できると共に、心の中にあったからといって鵜呑みにしてはならないと、組織の一員として自制を働かせることもできた。幸い、鵜呑みを避ける技術を舞ちゃんは獲得している。アカシックレコードを読むことが、それだね。よって今すぐ読みに行き、バイオリン奏者の件をつまびらかにしたかったが、舞ちゃんは子供達の未来を託された保育士でもある。つまびらかにしたせいで怒りが制御不可能になったら、子供達への責任を果たせなくなるだろう。然るに夜まで待ち、子供達が寝たらアカシックレコードを読みに行こう。そう自分に言い聞かせ、舞ちゃんはその日の仕事をこなしたそうだ。
そして待ちに待った夜、舞ちゃんはアカシックレコードを読みに行った。そしてそこで、四人に分身した俺の弦楽四重奏を聴くことになる。舞ちゃんはその瞬間、記憶にある限り最も怒り狂った。優れたバイオリン奏者になっていただけでなく、四役を一人でこなし重厚な音楽を造り上げるという、前世の自分にも不可能だったことを俺が成し遂げていたからだ。という説明をするにつれ、その時の怒りが蘇って来たのだろう。比喩ではなく、自分を中心とする怒りの竜巻を出現させた舞ちゃんに、俺はただただ平伏し続けるしかなかったのである。いやホント準四次元って、想像即創造なんだなあ。
などとまるで他人事のように構えていることには、正当な理由がある。舞ちゃんが怒り狂おうと俺がそれに悪影響を受けなければ、舞ちゃんが悪果を背負うことも無い。これが、正当な理由だね。舞ちゃんもそれを承知しているから怒りの竜巻をあえて具現化し、心に生じた怒りを消滅させようとしている。心の奥底に押し込めて無かったことにするより、その方が比較にならないほど良いからだ。かくなる次第で舞ちゃんは思う存分怒り、そして俺はその悪影響を回避する一環として、前世の舞ちゃんが弾いていた弦楽器と地球の弦楽器の興味深い関係を思い出していた。
地球を卒業していない地球人は原則として、再び地球に生まれ変わる。しかし戦争や大災害等によって死亡者数が出生者数を大きく上回った場合、心の成長度が同等もしくは近い他の星へ一時的に転生することがある。それは逆も真なりで、遥か遠方にある星の住人が、同じ成長段階の地球に生まれ変わることもしばしばあるのだ。それに該当する人が、前世の星で造っていた楽器を地球でも造り始めた。それこそが、バイオリン。「バイオリンは16世紀半ば、最初から完全な形で突如出現した」と言われる所以は、そこにあるんだね。もっとも地球人は、認めたがらないだろうけどさ。
そしてそれと同じことが、舞ちゃんの前世の星でも起きていた。その星のバイオリンと地球のバイオリンは、起源を等しくするのである。ただ使う木によってバイオリンは音色が大きく変化し、この星と地球の生物はあり得ないほど似ているため地球と同じ木を用意できたが、舞ちゃんの星は違った。よって音色がほんの僅か異なり、それに伴い形状も若干違い、プロのバイオリニストだった舞ちゃんはその差に少なからず戸惑ったという。けどそこは、さすが元プロ。練習するにつれその差を埋められるようになり、つまり舞ちゃんはこの星とは微妙に異なる音を意図的に奏でることができ、しかし美しく心地よい音なのは変わりないため、そこもAⅠに絶賛された理由だったそうだ。
という舞ちゃんに深く関わる話を俺がなぜ知っているかというと、
「ドワッ! 舞ちゃんのバイオリン神がかってるじゃん!!」
怒りの竜巻を収めた舞ちゃんが、目の前でバイオリンを弾いてくれたんだね。




