現状考察
ふらふらとユニットバスに向かう。エトは寮生活なのだが、個室なのでずいぶん心が安まる。起き抜けの、無防備な顔を他の寮生に見られずに済むし、休日は部屋の中だけで完結させられる。
歯磨きの最中にやっと意識のピースが噛み合わさり、エトの思考が動き出す。
ダーシアンという名前、それはあのサド神父の罠、とまでいかなくとも何らかの計略だったに違いない。エルメリについてアンメルルという本名を教えてくれていたのに、デサンジについては忘れるなんて考えにくい。
たぶん、あたしの背皮、Pの休眠とかと関係があるに違いないとエトは考える。うっかりダーシアンですよねとか口を滑らせていたら今頃どうなっていたことやら。Pが休眠状態ではないぞ、とか言って、最悪生皮剥がされていたかもしれない。なにせ重度のサディストだから。
その加虐性癖のヒゲ神父から交換条件として提示されたリベル探し、それがまさにリベル・ラグランティーヌだったというのは、レッティアーノの記憶を読んでしまった今は、ごく当然のことのように思える。しかし神父はレッティアーノ本人ではない。レッティアーノに侵されているのだろうか。なぜそれを求めるのか、理由を聞いておくべきだったかとエトは悔やむ。まあ、どうしてもというなら今からでも訊くことはできるわけで、一旦置くとする。
おそらくヒゲの変態神父は何度もビブリオテイカに依頼し、実際に検索してもらったのだろうとエトは推測する。それで見つからなかったからこそ、エトに、いわんやリベル・ディケルに一縷の望みを託したに違いない。
ビブリオテイカで見つからなかったのなら、かなり望み薄と言わざるを得ないけど……
エトとしては、レッティアーノの背皮のエピソードを受け、リベル・ディケルにおいてもっと先の話を読むことができそうな点においては一応得るものがあったといえる。ただ、両手の怪我は少々高くついた。エトが思っていたほど重症ではなく、指の動きに支障がないのは幸いだったが。気を失っている間に誰かが治療してくれたのだろうかとも考えた。プルディエールみたいにアンブリストの技を使って?ギンは無理だと言ってたから、あの赤毛のラカという子だろうか。サド神父はそんなことをしてくれそうにないし。
そしてその赤毛のラカがまさにエトの心残りだった。彼女の態度を見るに初対面じゃないのは間違いないのだ。記憶を失う前のエトについていろいろと知っていそうだし、失われた記憶の回復とまではいわなくとも、その手がかりくらいは得られそうではないか。それに話しているうち、何かの拍子に過去を思い出すかもしれない。
あるいは記憶喪失の原因、思い出せない理由について、ラカに思い当たる節があるかもしれない。と、これは希望的観測が過ぎるだろうか。
目が覚めて意識がはっきりしてきたとき、エトが一番に考えたのはそのようなことだったのだが、残念なことに、エトの意識が現実に戻ってきたときにはもう姿がなかった。
そのうえギンが変なことを言い出すから……いやいや、それはもういい。
いずれにせよラカに関して、エトは楽観的だ。近いうちに話を聞くことができると確信している。通っている学校はわかっているのだし、最悪あのエセ神父からでも連絡先は入手可能だろう。どんな対価を要求されるか、そこはエトも不安だが。
現実での情報収集とは逆に、リベル・ディケルをさらに読み進めることについて、エトは疑念を抱きつつある。『リベル/ディケル』の世界はいまから三、四百年ほど前である。プルディエールには関係あっても、エトには何ら関わりのない物語だろう。エトに関する記述がリベル・Dにあるはずもなく、もっぱらPの欲求を満たすため、もっと言えば、エトにとっては、前に進んでいるという幻想に逃げるための読書に過ぎないのではないだろうか。
もしPについての欠損が原因で、エトの記憶に蓋がされているのであれば、欠損の原因と詳細を知る必要がある。それでもその瑕疵は何百年も前についたものとは思われず、リベル・D続読の意義は薄い。
エトを診察している医師にしても、Pあるいは背皮と記憶喪失を関連付けて考えてはいないようだ。ただし、とエトは思う。医者があたしにすべてを話しているわけでも、真実のみを話しているわけでもないかもしれない。
ただ、それら諸々の目的を抜きにしても、エトはこれから先のディケルの物語に興味がある。
レッティアーノの背皮の記憶から得た新事実も幾つかある。
ラグランティーヌにプルディエールの背皮を移植することが領主の依頼を受けた自分の計画だったという告白。あの後ディケルとの間でひと悶着あったに違いない。
それにプルディエールとラグランティーヌの同期ーーそれとも同化?ーーとリベル・ラグランティーヌの存在。
ああ、それからプルディエールの息子ダーシアンの存在。
これら新たな情報が鍵となって、リベル・ディケルの新章が開かれることを、単純に一読者として期待している。そんな自分がいることをエトは自覚している。
『どのように我々の過去へと繋がるのか、それはわからん……が』Pは満足げに言う。『とにかく変化があったのはいいことだ』
「変化って言ってもねえ。ラグランティーヌと合体とかややこしくなっただけじゃない?」
『乙女心の話だ』
「あああああああ、聞こえない、聞こえないぃ!」
エトは両手で耳を塞ぐ。しかしPの声は内なるものなので、容赦なく心を刺す。
『そうはしゃぐな、ウブなヤツだな。しかしまあ、喜ばしいのは確かだ。何か思い出しつつあるのは間違いないのだからな』
「思い出しつつって言ってしまったら、そういうことになっちゃうじゃん!そうじゃないでしょ、これはつまり……そう、気の迷いってやつだよ。大変な目に遭った後だしさ。そう、そうに違いない」
うんうんとエトは頷き、そして小さい声で付け足す。少々唇を尖らせて。「知らんけど」
『ところで』と、Pが横合いから声をかける。『あれこれ頭を働かせるのは良いことだが、始業には間に合いそうかのう』
「え」エトは壁掛け時計を見やり、しばし動きが止まる。「うん。今日は休もう」
「そうだな。恋煩いも病には違いない」
「あーあーあーっ、聞こえない!てか、違うから!」




