なにかの間違い
目を覚ますとずいぶん馴染んできた部屋の雰囲気がそこにあって、エトは少しホッとする。
けれども昨日の余韻は十分すぎるほど残っている。すごく嫌な夢を見た気分や朝食後まで引きずる憂鬱とは似て非なるもの。
なぜならあれは実体験なのだから。その上、主義に合わない言動を取っていた。他人の体験なのだから仕方ないが、アイデンティティーが揺らいでしまう。
ただ、背皮はリベルと違い、感情が湧き上がったりしなかったので、精神的負荷は少ない。だから起き抜けの気分はそんなに悪くない。
起き上がったベッドの上で胡座をかき、しばらくじっとしている。目覚ましの音に我に返るが、スヌーズの始めの三分間同じ姿勢で微動だにしない。音量が我慢の限界を越えてようやくベッドから脚を下ろした。どうにも働かない頭を抱えて、離れた場所にあるーーそうしないと確実に二度寝してしまうーー携帯端末のアラームを止める。
そういう状態でもずっと気になっていることはすぐさま頭に浮かぶ。
エトが気になっていることは二つ。奇しくもレッティアーノの懸念の数と一緒だと彼女は思う。
一つは知らないはずの名前が聞き取れたこと。これは生きた人間と共生している背皮ならではなのか、何か別の理由なのかわからない。士郎神父は知っているかもしれないが、聞いていない。なぜならエトは答えをはぐらかしたから。彼の問いからは危険な匂いがしたからだ。
彼は言った。「参考までに君の意見を聞きたいのだが、彼は本当にプルディエール・デルフトの子供だと思うかね。あの、ダーなんとかいう」
「ああ、あの司書ですか」そこまで言ってからエトは不安を感じた。だからごく自然に見えるよう努力しながら続けた。「本当なんじゃないですか?でもダーじゃなくてデって聞こえましたけど。ダーサンジじゃなくってデサンジ。外国語だからかもしれませんけど」
このときの士郎神父の目付きは怖かった。エトはいまでも思い出すと震えがくる。
「え、子どもっていうのが本当だとまずい感じですか」エトは少々怯えた様子で言った。ずいぶん頑張って平静を保ったのでその程度で済んだ。彼は計りかねているようだった。
「いや、感想を聞きたかっただけだよ」と神父は言った。
とりあえずごまかせたようだ。完璧じゃないにしても。
そしてもう一つの方が、エトとしてはより気がかりだった。ネズギンのことである。
彼の様子は、彼が言葉にした通り、エトのことが心配すぎて心臓が止まりそうだったように見えた。
「もうしばらくはこういうことはやめにしてくれるか?こっちの身がもたんわ」
「なに、そんなにあたしが心配だったわけ、へえー」
エトは茶化すように言ったが、ギンはまっすぐにエトを見つめ、「真面目な話や」と言って目を逸らした。少し照れたように。
それを見たエトの方が、その後なんだか普通でいられなくなった。ていうか、フツーって何?という状態だった。まともに顔も見られなかった。
まあ、つまり何が問題かというと、エト自身がドキドキしてしまったこと。ネズギンが心配してくれていることに、すごく喜んでいる自分がいることだ。
「なにかの間違いだあああ!」
エトは両手で顔を覆い、ベッドの上で悶絶する。そうして不意に起き上がると独りなのに、独りだからこそか、声を張って、「そうだ、これはアレだ、ラグランティーヌと再会したディケルのドキドキだ」
『おまえはおっさんだったがな』Pの突っ込みが入る。
独りじゃなかった。「うるさいな。あれは副作用なんだよ、絶対」
『そんなことはどっちでもよかろう。それよりもこれからどうするつもりだ?』
「どうするって……そりゃ、いままで通りふざけたりできれば……」
『そんなことは訊いとらん。わたしの身に何が起こったのか、その片鱗は見えたのだな?しかし何も確実なものになっておらんのだろ。そろそろ記憶野を共有しなければならんのではないか?もっとわたしを有効活用すべきだろう』
Pの言う通りかもしれない。エトは長い髪をかきあげる。どうするにしても、いまは考えがまとまらない。それにそろそろ髪をなんとかしなきゃ朝礼に間に合わない。




