仮説と懸念
「いや、殺してしまう方がデメリットが大きいって気がするからな」私は言った。
「そうかい。で、あれは何なんだい」ブランペルラは顎で示す。
「我が弟子のリベルを製作中」
「あの娘がかい?単独でリベルを創れるほどじゃなかったろう?」
「プルディエール嬢の力は借りてるさ」
「一緒に影になったってことかい?」ブランペルラは私に並んだ。じっと影を見つめ、つぶやく。「なるほどね」
そうしてため息をつきつつ首を振る。
何が、なるほどなのか。私はその意味を問わない。もう私にも見当はついている。
ディケルに騎士、私とそしてブランペルラが見守るなか、プルディエール嬢の手が触れている場所にうっすらと背皮の刺青が浮かび上がってきた。
「彼女にはすでに条件付けを済ましてある。他でもない彼女自身の意思でな。後は誘導するだけでいい」
彼女自身の意思、か。
ラグランティーヌがリベルを創れるというのなら、プルディエールと混ざる必要などなかった。プルディエールが解毒剤を飲み、ラグランティーヌはリベルになって猶予を作ればよかった。
しかしラグランティーヌには単独でのリベル創作が不可能だから、彼女の背皮をプルディエールに移すために影化のよる背皮の委譲が必要なのだと私は思っていた。
実際はそうではなく、ラグランティーヌは独力でのリベル創作ができないから、すべてではないにしろ、プルディエールの持つ能力を彼女に委譲することでリベル創作を可能ならしめようという計画だったわけだ。
ラグランティーヌではなくプルディエールが復元されたときには、私はこう考えていた。
しかしプルディエール嬢の様子が、私に疑念を起こさせ、それは時間の経過とともに大きくなっていった。
ラグランティーヌとプルディエールは、少々の能力と背中の皮を入れ替えただけなのだろうか?
そもそも能力の委譲は欠損部分を埋めることとは違う。
追加する部分に自分という個の意味を上書きするわけではないのだ。
その部分の持つ意味を保ったままの入れ替えであり、それはいわば赤と黒のタイルで作ったモザイク模様のように、二つの自己が入り混じることだ。それらがどのような自我を構成することになるのかはわからないが、元となった二人のどちらか一方に、以前と寸分変わらず復元されることはないといえる。
自我とは一つの塊ではなく、さまざまな要素の寄せ集めを一つのものとして認識しているものだからだ。肉体のすべての部分が自我を構成する要素なのだ。意味を扱い、変容させるアンブリストとしての経験がそう告げている。
自我と魂は同じものではない。自我は変化する。
では、プルディエールには少しのラグランティーヌが、ラグランティーヌには少しのプルディエールが混ざったのか。
私の考えでは、二人は対になる比率で混ざり合っている。
物事には起こりやすい割合というものがある。二つのものを混ぜて新しい何かを作るとき、二つのものの正しい割合というものがある。世界が、教会的にいうなら、神が決め給うた割合とでもいうべきものが。
故郷の村を考えるとわかる。同じ年生まれの男のうち、半数は出て行き、半数は残る。この割合はほとんど変動しない。何がそれを決めているというのか。
二人が交わったとき、おそらくそれぞれが自己というものの境界をしっかりと捉え、必要以上の交換を避けようとしただろう。人間二人の混合に適用される割合、その神の摂理に引っ張られ、望む以上に混合してしまわないように。(意思だけが、割合を認識し、その変更を可能にすると私は考えている)
ディケルが復元を手伝ったのも、二人がより自己保存に集中できるようにと考えたからに違いない。
復元されたのはプルディエール嬢だった。しかし私が瞳や肌に違和感を覚えたように、完全に以前のままというわけではないようだ。外見でそうなら、内面は?
おそらくラグランティーヌのかなりの部分が混ざり込んでいる。価値観と志向性、そして記憶までも。
彼女の仕草、不意に口にする言葉、口調。思えば面影ではなく、ラグランティーヌ自身がそこにいた。
混ざり込んだラグランティーヌの占める割合にもよるが、プルディエール嬢は彼女の真に迫った真似事ができるだろう。それも自分ではそうと気づかずに。
いや、待て。
プルディエール嬢は以前にも同じことをした可能性が高い。
彼女のデサンジ、あるいはダーシアンに向けた言葉。わたしだけれど違う、という意味の通らない台詞。
彼女が助かるために今回と同じようなことをやったのは間違いないが、『わたしだけれど違う』という言葉が意味するのは、果たして無意識下の混合についてなのか?そうではなく、顕在意識で元の二人双方の自我を認識できているというのか?自我というものを意図的に分割、再統合できるのか?それとも自我そのものではなく、双方の記憶を部分的に入れ替えたのか?
プルディエール嬢とラグランティーヌにも、同様のことが起きているのか。
プルディエール嬢は知っていて、ラグランティーヌは知らないまま混ざり合ったのか。
ああ、そうか。
おそらく彼女たちは取引していたのだ。ずいぶん前に。
二人は神の決めた割合、その摂理を避け得なかった分だけ、意図せず混ざったのではない。
意図して混ざったのだ。
二人ともがここにいて、二人ともがリベルになろうとしている。
どちらにもそれぞれの自我を残したままなのだ。
自我は混ざり合い、新しい自我が生まれたが、それは双方の過去を反映しているのだ。どちらでもあり、どちらでもないのだ。
いまの私には、これ以上うまく言い表せない。
しかし動機は?
ラグランティーヌについては理解できる。二人の外見を取り替えることで彼女は恩恵を得る。バルディリ候の支配下から逃れうるという、彼女が半身の自由と同じく希求して止まなかったもの。
しかしプルディエールもラグランティーヌと同様に自ら望んで意思を働かせなければ不可能な話だ。
ならば、彼女の動機はなんだ?
命か。
なるほど、考えてみれば、それももっともな動機だ。
解毒のことではない。人としての寿命を延ばすという意味での延命。
しかし代償はあるはずだ。寿命を平均化すれば、一方は命を削ることになるだろう。この場合はラグランティーヌだ。
そうか。それをリベルになる方に負担させたわけか。
私の仮説が正しいとして、そこには懸念もある。
私の懸念は二つ。
一つは、彼女たち二人がそれぞれ納得し、お互いに合意していたとしても、果たして自分自身と折り合いがついていたのかということだ。
彼女たちは自身を分解し再構築した。アンブリストらしく、意味を剥奪して再度付与したと言ってもいいが、意味にしろ構成要素にしろ、彼女たちそれぞれが影化以前と変わっていないわけではない。部分的に入れ替わっている。そうすると、すべてが以前と同じように統制されることはない。
人の意思は単一のものではない。それはすべての存在にいえることだが、構成要素が同じものでも、違うものだとしても、それらの関係性が全体を作っているのであり、関係性は複雑で単一ではない。だからこそ意思というものを持てる。水晶や水とは違う。確かに私は水や水晶ではないが、そう思っている。
彼女たちははその複雑な関係性を変化させた。ならば抑制されていた意思の一片が変化した関係性によって表出してもおかしくない。少なくとも以前とは違う見解に達する可能性はあるのではないか。
つまり、リベルになることを望まなくなることもあるのではないか?
そしてもう一つ。
それは私の信仰心の根本に関わることだ。
だからこそ私は肝心なことに目をつぶろうとしている。アンブリストではなく一教徒として、それは考えてはならないことだ。アンブリストの私が答えを出しているにもかかわらず、神父としての私はそれを見ないようにしている。
しかしいつまでそうできるだろうか。死ぬまで?
果たして……




