熱い甲と冷たい手
あらためて言うまでもないが、外見上は通常の書籍と変わらないだけあって、リベルにはページがある。それらは本来の姿ではなく、擬装だ。手に取った者がそのように認識するよう、脳がたばかられている。おそらくこれもリベル、延いてはアンブリストが生き延びるための知恵なのだろう。
ページには文字が記されていることも、それら文字が意味を成すこともある。しかしそこにリベルとしての価値はない。著者であるアンブリストの気まぐれであり、その手の好事家を喜ばせるだけに過ぎない。
リベルがリベルとして機能するときそこにページはない。紙の頁と頁の間に指先を挟めるように、リベル本体はどこからでも読者の指を受け入れる。もちろんある程度、読者としての能力は必要となるが。
「では始めさせていただきます」
日和田はリーダー本体の外殻をシャッターのようにスライドさせて開き、露出した背皮の上に両手で持ち上げた鑑定対象をそっと載せた。対象物が重すぎる場合は、接触面を下にしたスキャナーの方を上に載せる場合もあるが、今回そこまでではない。
準備が整ったところで、日和田は肩を上下させて力を抜く。一応目を向けると、ヒソクは小さく頷く。
日和田も目顔で応えると、電源をオンにしてゴーグルを装着した。
もともとはヘッドホン型のインターフェース対応だったので、ゴーグル着用後はダイアル調整を手探りでしなくてはならないのは、面倒だし少々不恰好だが、音と光では通信量が段違いなので、いまさらヘッドホン型インターフェースに戻るなど考えられない。
日和田の指先がスキャナーの表面を数秒間彷ってからメインダイアルに辿り着く。古書商の憎まれ口が聞こえるかと思ったが、周囲は静まり返っている。売買が成立したのだから揶揄する必要もなくなったということか。
日和田は雑念を払い除けて指先に集中し、ゆっくりとダイアルを右へ回し、出力を上げていく。それとともに眉間の反対側、盆の窪辺りがむずむずと落ち着かなくなる。何かを思い出そうとして、喉まで出かかっている、あるいは薄膜の向こうに答えの輪郭が透けて見えそうだという気持ち悪さを、外圧によって感じ始めるのだ。
身体的ではなく精神的にむず痒い感覚、とでもいおうか。そしてここから先、自分の意思力のようなものを強めていくやり方もあるが、今回日和田はそうせずに、ダイアルをさらに回していく方法を選択した。
誰かの顔を思い描くときと同じ、想像のキャンバスに霧がかかったと思いきや、徐々に形を成していく。
しかしながらそれも明確な形をとる前に、逆再生のように輪郭が崩れ始めてしまう。
日和田は右のダイアルに手を伸ばすと、今度は迷うことなく掴み、実際動いているのかわからないくらい微細な調整を施す。
このダイアルは強度ではなく位相を調整するもので、日和田とリーダー内の背布の感性を擦り合わせるものだ。
本来はすべて自らの意思によって接続、調整する。それがつまり同期ーーリベルを読むということだ。
はじめに光ありき。真っ白なキャンバスが視界全体に広がっている。そのうち白地はチラチラと瞬き始める。
日和田は眼を開けながらにして、視界を失っていることに気づく。正確には肉体が持つ視界を。視覚はむしろ陰影を捉えつつある。だがそれは彼の目の前にあるものの像ではない。情報に刺激された日和田の意識ーーそれを構成しているエネルギー循環の複合体ーーが生じさせている、いわば幻覚である。
視覚として認識されるのは、白いシーツを被せられた人間がゆっくりと動いているような光景。匂いはなく、音もない。
その裏側、隙間か?そこから滲み出すのは、よく知っている匂いだ。それは後鼻漏のように喉奥から口腔、そして舌先に苦味が……
突然腹部に熱を感じる。日和田は狼狽するが、これらの感覚はすべて背皮の残留思念のようなものだとわかっている。なぜならそれらとともに、知っている感覚が全身に広がって……いや、全身が一点に収縮していくのだ……そして呪いの文句が頭蓋の真ん中で醸成される。常に用意されている呪詛は、万一こんな死を迎えるはめになった場合に、術者の背中に刻まれるもの……死に際の強烈な光が背中に焼き付ける記憶……あるいは……遺すためのものを遺すわけにはいかなくなった想い……
もう十分だ。
日和田はダイアルを左に回しそうとする。が、自分の右手の感覚を見つけられない。恐怖が下腹部を撫でる。
反射的に意識は自分の背中に助けを求めて想像の手を伸ばす……
と、その手が熱を帯びる。
それでわかる。ここがオレの手だ。
日和田は取り戻した手指でダイアルを、逸る気持ちをなんとか押さえつけ、ゆっくりと弱へ、そしてゼロにまで回す。
脱力感とともに現実への帰還を知る。ダイアルに置いた手の甲にあった熱は失われ、ひんやりとした肉の触感に変わっていた。
ヒソクの手だな……持つべきは優秀な助手ってわけか。




