意識の階層
アスワドは背皮についてさまざまなことを日和田に教えた。
彼はそれまで、突発的事故だったために皮膚移植に際してたまたま刺青の入った皮膚しかなかったのだと思っていた。
そんな可能性は宝くじの一等が当たるより低いと思うが、それまで深く考えようとしていなかったのだ。いや、可能性云々以前に、どんな皮膚であれ、移植可能なものが火災現場にあるわけがない。
おそらく施術者がそのとき死んだ仲間の皮膚を移植したのだろうとアスワドは言った。あるいは活きの良い背布を所持していたか。いずれにせよ相当能力の高い錬金術師に違いないと。
「錬金術師ってその名の通り金を作り出すヤツのことでしょう。これは医者の領分じゃないんですか」
彼はもっともな質問をした。アスワドは答えて言う。
「そもそも錬金術師という翻訳がおかしいんだよ、潤さん。アルケミスト、つまりアルケミーという言葉の由来はアラビア語、ギリシャ語の金属変容や金属鋳造かもしれないが、金属ではなく変容の方にこそその本質がある。自説だがね」
「変容ね」思い出すたび汗顔ものだが、このとき日和田は懐疑的な薄笑みを浮かべたものだ。
「まあ、それが一般的な反応だな。しかしこう言われたことはないか?まるで自前の皮膚のようだと」
その通りだった。
確かに初めは違った。移植しましたと主張するように、それは彼の肌よりも随分薄い色をしていた。しかし徐々に、というよりはあっという間に近い早さで、継ぎ目も色差もわからなくなった。少なくとも写真や鏡で見る限りは。
「術者は背皮の能力を残すことよりも、潤さんの身体そのものにすることを優先したのだろう」
「いやでも、どうやったら他人の皮膚が自分の皮膚そのものになる?遺伝子から書き換わっているっていうんですか?」
「そうなる」アスワドは事もなげに肯定した。
日和田があからさまに不審げな顔をしていたからか、アスワドは言葉を継いだ。「まあ、エピジェネティクス的に遺伝子の発現の仕方が変わる場合もあるだろう。しかし熟達した術師ならば、物事の根底、法則の発端とでもいうべき『理』に背かない限りのことは、何事であれ成せるのだよ。可能性の高低など関係ないんだ。そうでなくとも遺伝子など書き換えやすいものの代表だろう。まさかランダムな突然変異の適者生存だけで生物が進化してきたなんて本気で信じているわけではあるまい」
「それじゃあなんですか、こうあろうとしてそうなって、それが設計図に反映されたと?」
「大筋そういうことだとわたしは考えている。まあ、人間が牛になるのは無理だと思うがね」
移植された部分の皮膚と自前のものの遺伝子鑑定を、日和田がどこぞの機関に依頼すれば客観的な結論は出ただろう。しかし、もはや境界のなくなった、いや始めから境界などない肌を見ると、そんな確証を得るためだけに金を払うのが惜しくなった。そしてそれ以上に結果を知るのが怖くなったのだ。
その怖さがほとんど擦り減ってしまったいまとなっては、逆にアスワドの言葉への疑念も消えた。なぜなら、意思は肉体に影響を及ぼすことを、肌身をもって知ったからだ。考えてみれば、ストレスで病気になるのだから当たり前のことなのだが。自己暗示、プラシーボ効果だってそうだ。
とはいえ、それは結果であって、影響力そのものを認識できているわけではない。影響力そのものは、観察する対象が、少なくとも一段階高位になったときに実感できる。
人間は自分自身の身体活動を観察し、そこから生じる意味とでもいうべきものを感じている。それが自意識だ。
自意識には階層がある。単純化すると、本能、感情、理性となる。本能の層を感情の層が、感情の層を理性の層が、それぞれ観察して生じるものが意識だ。だから、それぞれの生は、一つ前の生を己だと感じているわけだ。
訓練によって自分自身の意識に階層があることがわかれば、ただ観察するだけでなく、一つ前の生に対し意図的に影響を及ぼすことができるようになる。正確には、及ぼしていることがわかるようになる。
そしてこれが肝心な点だが、それぞれの生の物質的側面である肉体、主に脳におけるエネルギー循環が、それぞれの生において閉じた円環をなしているからこそ独立し、階層化しているのである。
これはチリの生物学者マトゥラーナとヴァレラが提唱したオートポイエーシスの理論によって説明される。彼らの定義を非常に簡単に言うなら、オートポイエーシス・システムとは、自らを自らの手で作り続ける閉じたネットワークのことだ。彼らはそれを生命の定義ともしている。オートポイエーシス理論はドイツの社会学者ルーマンが社会システム理論に応用したことで広く知られるようになった。
ネットワークは閉じることによって具体的単位体となり、固有領域を形成して位相化、自らが存在する位相空間を獲得する。このときこの閉域ネットワーク、閉じた円環は観察対象となる。また観察主体ともなる。高次の円環に観察されることで自身を映し、低位のネットワークを観察して認識、つまり自身のこととして感じるのだ。
自意識はそれら円環が時に重なりながら複雑に関係し合った複合体であるが、その時点で最も高次な意識(を含む円環)が連鎖的に他のすべてを客観的に感じることができる。そうしたときに、その高次意識は他を制御することが可能であり、意識側から(神経系や内分泌系を通じて)肉体に変化を与えることができるようになるのだ。具体的な感覚を想起する必要はない。具体的に認識できるからだ。どう動かすのか、どう在るのか。
それはいい。日和田にも理解できた。しかし一つの疑問が生じた。最終的な観察主体、最も高次にある主体は何なのか、という問いだ。その答えは師であるアスワドからも聞けていない。
ただ、階層的な観察主体というものは、実はすべて観察機器でしかない可能性もある、とつぶやいたのを妙にはっきりと覚えている。




