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ビブリオテイカ/零葉の錬金術師  作者: 浦早那岐
日和田潤
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意思の強化

 背皮を成長させたり、その能力を使っても取り込まれないようにするため、アスワドは意思を強化する訓練を日和田に課した。

 その過程で日和田は禁煙とダイエットに成功した。課題が自己抑制だったからだが、これらメリットのある我慢は副産物に過ぎない。損得のような意思の外の力に強制されるのではなく、自らの思考のみで欲望や衝動を制御するのが本来の目的だからだ。

 意識するより先に脳が行動を開始していたという点で、人間の自由意思を否定する結果になったといわれる実験を行ったリベット博士は、そんな状況下でも抑制が自由意思であると言った。

 それは苦し紛れでもなんでもなく、抑制こそ、その発露たる意思の在りかをはっきりと自己の意識に示すことができる。それに、そもそも自己認識である意識は肉体(主に脳)を観察しているに過ぎないのだから、肉体に遅れるのは当然なのだ。

 思考すると、それが深ければ深いほど、意思というものが露になる。思考は言葉ーー数式なども含むーーを必要とする。意思が強化されるほど、言葉による思考と意識とのタイムラグは無に近づく。そしておそらくその思考は多くの円環が複雑に絡まった構造をしている。

 意思というものを考えたとき、社会に出てから役に立たないといわれたりもする高校までの勉強の必要性も理解できる。

 五教科あれば好き嫌いも出てくるだろう。興味のあることを学習することは容易い。興味のない事柄について優秀な成績を修めようとすれば、脳にそれ相応の負荷がかかる。筋肉と同じで、苦痛を伴わなければ鍛えられてはいないのだと日和田は思う。

 勉強による苦しさは脳の複雑さを増すだろう。そしてそれは初期設定である本能の制御はもとより、意思の強化のための基礎となる。あくまで基礎の基礎程度ーー決まった答えのある課題を解く思考過程にすぎないからだーーではあるが、そこを通らないわけにはいかない予熱過程である。

 意思を強化するもうひとつの方法は独特で、土日に競馬場へ連れ出された。そこでいわゆる裏読み派とかサイン派と呼ばれる方法論を実践させられた。ポスターの図柄やキャッチコピー、出馬表と馬や騎手の名前や年齢、誕生日その他の組み合わせ等から暗号を見つけ出し、出題者ーーいると仮定してーーの意図するところを探るのだ。

 ターゲットは日曜のメインレース。春秋ならGIだ。馬券は買わなくてもいいが、常に買うつもりで取り組む。買うなら千円まで。最大で十通りしか買えないが、ギャンブルは節度が大切だ。そもそも修行なのだし。

 修行中の最終的な収支は少しだけプラスというところ。大勝ちはできない。十通り内で高配当の馬単や三連単の正解を出すのは日和田には不可能だった。順位の読み方が最後まで構築できなかったからだ。3着内の2頭、いわゆるワイド数点がせいぜい、稀に三連複で正解を出した。それで十分なのだ。一攫千金を狙っているわけではない。


 これにはたまにヒソクも顔を出した。未成年だが、確かに考えるだけなら問題はない。何回か正解したときの喜びようが尋常じゃなかったのは引っかかるが……

 とにかく実践した彼の所感は、天才でもない限り、顕在意識で同時にそう多くのことは考えられないということだ。複数の情報から一つの答えを導き出すのであればそれほど困難ではない。答えが三つあるのだからタチが悪いのだ。また前走までの結果も考慮に入れるので、とにかく時間がない。出走直前に思考が出鱈目な方向に進んでいて気づかない。

 思うに、自分の間違いに気づくためには、より高度な思考が必要であり、それを得るには、自分ではなく対象物相互の関連妄想のような、答えのない中で答えらしきものをでっち上げる思考を繰り返すことが必要なのだろう。

 あまりに胡散臭い内容だが、それらが生む脳への負荷が、学業など比べものにならないくらい大きなものだったことだけは確かだ。

 答えのないこと、できないことをやろうとするから鍛えられる。同時に複数のことを考えることは無意識でこそ為されることで、それを意識的にやると、新たな回路、新たな脳細胞の繋がりが作られる。

 と、そんなふうに日和田は考えていたのだが、アスワドの答えは少し違っていた。

「脳の発達に寄与するという点は間違っちゃいないが、方法にも明確な意図はある。これは意味を知り、意味を捉えるための訓練。意味と干渉する感覚を掴むためのものだよ。例えば腹と言っても、それは腹という単一のものではない。様々な内臓器官があるし、それらも様々な要素が複雑また整然と繋がっているものだ。意味とはそれらすべての繋がりから発生する。可能な限り詳細にそれらを認識する。そのための訓練法だよ。わかっているとは思うが、ここでいう意味とは、生きる意味やある事を成す意味というときの意味ではなく、物質とともに存在を存在たらしめているものとしての意味だぞ」

「哲学的な話ですか」

「そうだな。いわゆる形相という概念に近い。意味はこの世の根本である理から生まれたものだ。ピタゴラスから続く神秘主義者が数字に真理を見出だそうとして積み上げた努力と同質のものだよ」

「なるほど、言ってることはわかりますが、実際こういう訓練でオレみたいなど素人が、その、意味ですか?それを掴めるようになるとは思えないんですがね」

「まあ、潤さんもまったくの素人ってわけでもない。無意識の領域ではね。つまり、その背皮が潤さんの背中に居座ってから今までの十年以上、何もしないでいたなんてことがあると思うのかってことだ」

 アスワドの台詞に日和田は文字通り背中に悪寒が走った。確かにこの皮膚は生きているが……コイツが意思のようなものをもって活動しているだって?

 そんな日和田の心中を察したのかアスワドはいつになく真面目な顔になった。「それからこれは肝に銘じておいてほしいんだが……」

 日和田は固唾を飲んで続きを待った。

 だが、アスワドが続けて言ったことは、背中の刺青とはまるで関係のないことだった。

「賭け事は余った金でするものだ。間違っても生活費や貯金から掛け金を出すもんじゃない。それにそんな金じゃ絶対に勝てやしない。もし大勝ちしたら、そこでやめるのが賢者ってものだよ」

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