背皮/背布/リベル
エトが扱っていた大判本はリベルと呼ばれるアンブリストの遺産だ。大きさは様々だが、すべて書物の外見をしている。巻物もあるかもしれないが、この図書室にはない。
リベルの情報はアンブリストの記憶である。記録ではない。ビデオカメラで撮った映像とは根本的に違っている。加えて相性のようなものがあり、誰もが同様に情報を読み出せるわけではないし、同じように認識するわけでもない。対話と同じく人によって受け取り方に若干の、時には大きな違いが生じるという。
リベルの元となるのは主に背中の皮膚である。エトが聞いた話では、刺青を施したアンブリストの背中の皮を皮下組織ごと剥いで特殊な方法で鞣し、本のように成型したものらしい。
剥ぎ取った背中の皮膚を生きたまま、あるいは鞣し革のようにして保存しているものは背布と呼ばれ、他の人間に移植した背布のことは背皮という。背布は特に変化しないが、背皮はその宿主との相互作用により変化し、基本的には情報や機能が追加される。
また、背布や背皮の刺青には大きく二つの種別がある。
一つは理性的で明晰な思考を行う演算回路、そしてもう一つが記憶を保存する記録媒体である。前者をフォルマ、後者をメモリアと呼ぶ。ただ、どちらにも感情を司る部分はない。脳と同等なものを背中の皮膚に形成するのは土台無理な話だし、必要性もない。
演算回路と記憶装置、自分の背中にどちらを形成するかは各々が決定する。
通常は比重に個人差はあれ、それらを組み合わせて形成するが、多くのアンブリストは前者に重きを置く。
技術を究めることこそがアンブリストの本懐だからだろう。
アンブリストとしては、己の世の理に対する認識と理解を移植先の人間に継承できれば問題ないのだ。演算回路は能力の技術的な継承、記録媒体は能力獲得に至る方法論と経験値の継承が目的といえよう。
個人の欲求や感情などは伝える意味などなく、無駄にストレージを食うだけなので放棄されるのだろう。
しかし背布や背皮と違い、リベルには状態に多少の差異はあれど、経験した事柄や会得した技術の他にその時々の感情や考えたことまで、その人物の人生すべてが保存されている。言うなれば、臨場感が桁違いの夢なのだ。
そしてその理由はリベルの中にはアンブリストの遺体が沈められているからだと、まことしやかに囁かれている……物理的にあり得ないとエトは考えているのだが、外見からは想像がつかないほどのリベルの重さは、もしかしたらその辺りと関係しているのかもしれない。
それは一部のメモリアが単なる情報ではなく、体験を他者に伝えられることとも、関連があるかもしれない。ただし背布ではなく背皮であること、つまりリクトルの背中に貼りついていることが条件になる。
またリクトルと背皮との相性や、その者の技量によって体験の質に差が出てくる。なぜなら他者が背皮を読むことは、背皮の記録と繋がっているリクトルと同期するということだからだ。
そう考えるとリベルを読むという行為にも、読み手が同期する相手、リベルが保持する記録と直接繋がっている何ものかが介在する可能性が高い。
筆者本人がリベルに沈められているという噂はそういう推論から生まれたのではないだろうか。
VR技術がいまよりずっと進歩すればさもあらんという現実感なのだから、同期率が最高値であろう著者本人以外に仲介者はないと考えるのは自然だろう。
リベルを読む行為は、そのリベルの元になった人間の経験を追体験することに等しい。読み手の能力やリベルの状態にもよるが、リベルは真に迫った体験を読む者に与える。
そして自分自身が経験したかのような生々しさゆえ、読み手はその記憶が真実だと信じる傾向にある。しかしながらそれは間違いだ。この特殊な読書にありがちな弊害である。
なぜならそれは主観によるものだからだ。当人の主観的な認識だから、いかに実体験のようであっても完全に事実と一致するわけではない。客観的な事実ではなく主観的な思い込みが、そこには記されている。
リベルで読んだことが事実ではないという可能性に、読み手は常に留意する必要がある。
逆にリベルの情報が主観的記憶であるがゆえの利点もある。英語だろうとイタラグ語だろうと、すべては読み手が通常使用している、つまり思考に使っている言語に変換されて認識される。吹き替えの映画を観ているようなものだ。言葉ではなく、それが持つ意味が共有されるからだと考えられている。
ただ、固有名詞の場合、そう簡単にはいかない。特に人の名前は意味があっても基本的に音であるため、聴き取れないことが多く、事前に調べておく必要がある。
先ほどエトが読んでいた『リベル/ディケル』についても、あらかじめ別媒体の記録を調べることで、幼馴染みのラグランティーヌ、フィレンツェのビブリオテイカ館長ティスコ=ダルディなどの名前が聞き取れるようになった。
彼らはディケルにとって特に関係の深い人物だから『リベル/ディケル』の附録に名前と略歴があるが、プルディエールの馴染みまでは附録にない。プルディエールというアンブリストの記録自体、ビブリオテイカから抹消されているかのように見つからない。エトは別の資料でブランペルラの名を発見したのだし、女剣士はいまだ女剣士のままだ。
図書室を出て気が緩むと、途端にPが現れた。
どうも日を経るほどに接続しやすくなっている気がして、エトは少し不安になる。
そんな彼女の気持ちなど知る由もなく推し量る術も持たず、Pは自分のことを言い募る。
『わたしには重大な欠損がある。それを回復しなくてはならない』
「はいはい、もう耳タコだよ。というか、欠損したのがディケルの生きていた時代だってさ、何か根拠あるの?」
プルディエールの背皮あるいは背布は複数、それもかなりの数があるという話だ。だからエトが背負っているプルディエールの背皮に記憶がない時点でどの時代のものかなんてわかるはずもない。
プルディエールのことだから、ブランペルラに背皮を剥がされても性懲りもなくまた刺青を入れたに違いなく、エトの背中のPがそもそもディケルと接点があった頃に作られたのかも怪しい。
それでもPは確信をもって答える。
『ここにリベル・ディケルがあることが理由だ。この欠損が意図されたものならば』
「なにそれ。じゃあ、欠損がただの事故だったら?」
『リベル・ディケルとの相性から考えても、何らかの関係が、それもかなり密接な関係があると考えるのが自然だ』
ごもっとも。それはエトもわかっていた。しかしこのままリベル・ディケルを読み込めば何とかなるのか?ならないだろう。だからこそ、同じ物語を違う視点から描いたリベルを見つけようとしているわけだが……問題はそれだけではない。
エトは改めて既知の質問をする。「でもさ、記憶ないんだから、それが目の前にあったとして、それだって気づけるの?」
『おそらくだが、われわれはそれを知っているのだ。しかし認識するための経路に何らかの問題があるため思い出せない。ゆえにそれを目にすることで問題を解消できると思うのだが……』
「どうも自信なさげだね。いつものことだけど。でもまあ、あたしもちょっとだけ興味あるしね。読書も好きだし、やれることはやるよ。あたし自身が取り戻すべき記憶と直接関係なくてもね」
『恩に着る』
「それを覚えていてくれさえしたらと思うよ」エトは自嘲気味に言う。
しかしそれは望むべくもない。Pは純然たる演算回路なのだから。その演算回路が記憶を取り戻そうとしている。どこか矛盾めいた論理に、エトはこんがらがった糸を解きほぐそうとしてできないときのようなストレスに曝される。ハア、まったく度しがたい。
ため息をついた弾みに視界の端で髪の房が揺れる。髪をいじられたことを思い出したエトは、近くの手洗いに入って鏡の中を確かめた。
長い前髪の一部を左寄りにピンで止め、残りを右に流して三編みにしている。器用なものだと思いながらエトはまたため息をつく。
「毎朝こんなんとか……無理でしょ」
『おっと、どうやら絡まれる側の気持ちを考えるべきときのようだ』
Pが言うのと同時に、エトも廊下の先にそれを見つけていた。「げ、ネズギン」
痩身長躯が、生え際で引っ詰めた黒髪を左右に揺らしながら足早に迫ってくる。
ちょっとした位置の違いが関係あるのか、亜生と違って可愛げが微塵もなく、まるで武器のようだ。
エトは本能的に逃げたくなるのをグッとこらえた。
「紫乃宮ジブン、授業フケてんちゃうで。捜す手間考えてんか」
「でけえっ」
両足を踏ん張ってエトは声を上げた。「んだからあんまり勢いよく近づいてくんじゃねえ!」
「急いでんねんから、しゃーないやろが」
言いつつ、杜松吟は二メートルほど手前でピタリと立ち止まった。「いーかげん慣れろや。オレがデカいんはいつものことやろ」
「いつもはどうとか知らないよ。この春からこっちしか。まだひと月も経ってない」
「おーおー、標準語ですか。イキッてますなあ。ここは東京ちゃうで、大阪弁で喋りゃあ」
「大阪でもないけどな。いっしょくたにすんな、地元民に謝れナニワの転校生」
吟の首もとにちらつく銀色の鎖がいかにも大阪らしさに拍車をかけている気がする、というのは大阪に失礼か。「てか、あんたこそ授業はどうした」
「ミドリさんが直々にお呼びなんや、地元民。例のもんがまた見つかったらしい」
たぶんあたしは違うし、この学校のほとんどが地元民じゃない、と思いつつ訊く。「本物なの」
「それをいまから鑑定しに行くんやろが、おまえがな」