新たな一歩
3
中学三年生。中学校生活最後の年であり、私立のエスカレーター組以外は全員が受験を控えたその年。
東京にある普通の市立校では受験のことなど露知らず、クラス替えの興奮で学校中が平時の三割増しで騒がしかった。
そして、三年三組のクラスは他のクラスよりも一際騒々しく盛り上がっていた。
「聞いた? 転校生の話!」
「聞いた聞いた! 男の子でしょ? かっこいいといいなぁ」
「ちぇ、転校生は普通女だろ」
「美少女転校生なんて夢見るだけ無駄だって」
表向きに公表されなくても子供の情報網は俊敏で、既に転校生の情報を掴んでいた。
「なぁ、蒼空はどう思うよ?」
「そうだなぁ、ヤンキーとかだったら困るな」
「ヤンキーて!」
クラス替え初日、しかもまだホームルームすら行われていないクラスで、一人の少年、弘瀬蒼空は既にクラスの全てを掌握しつつあった。
「それにしても蒼空って変わったよねぇー」
過去を思い返すように女子生徒がしみじみと言った。
「そう?」
「そうだよー、なんていうかもっと暗かったじゃん!」
「そうかな? 自分だとよくわかんないけど」
「まあいいけどさー、今の蒼空の方が好きだし」
そんな特に実のない談笑をしていると担任の広田里美先生が出席簿片手にやってきた。
「はーい、席について! 私が三組の担任の広田里美です。三年生っていう受験がある大変な年だけど、一年間よろしくね!」
クラスが少しざわめく。広田先生は生徒に甘いということで評判の若手教師だ。生徒たちはみな一様に喜びの笑顔を見せる。
「はい静かに! 実はこのクラスにこのクラスに転校生が来ます!」
先生のこの発言により、教室は先ほどよりも一段階高く盛り上がりを見せる。
「――なんだけどね……」
先生は苦笑しながら頬を掻く。
「まだ来てないのよね……、迷ってるのかしら?」
どこからともなく、『不良じゃねえのー?』と言った声が飛び、他の生徒たちもそれに追従するように『こわー』『蒼空の言った通りじゃん!』とさらに教室の騒々しさに拍車がかかる。
(これは不味いな……)
蒼空はその状態に顔をしかめる。この状況では転校生が意図せずして不良のレッテルを貼られかねない。それをネタにできるような生徒だったらいいが、そうでなく内向的な生徒だった場合それは心理的に圧迫感を与える可能性がある。
先生はその様子を窘めているが、一度エンジンのかかった中学生はそう簡単に止まらない。
(この辺で止めないと……)
蒼空が口を開こうとしたその瞬間、ガラッ、と前のドアが開けられ、一人の男子生徒が入ってきた。髪を染めているわけでもなければ制服を着崩しているわけでもない。むしろ学校のポスターの見本のような出で立ちだ。
「遅れました」
謝罪の意思も、恥じる気持ちも籠っていない無の言葉。
クラスの全員の視線を一点に受けるが、その生徒は気にする様子なくドアを閉め、教室を見渡す。彼以外には欠席者も遅刻者もいないため空いている席は一つ、廊下側から二列目の一番前だ。
彼は何事もないかのようにその席にスクールバッグを掛けて、席に座る。
「ちょ、ちょっと桐谷君! その……、前で自己紹介を……」
その様子に呆気に取られていた先生が一テンポ遅れて、その生徒を黒板の前に立たせた。その男子は促されるまま黒板に自分の名を書いた。
「桐谷零です」
軽く頭を下げたお辞儀、他の生徒達は『それだけ?』と言った顔でキョトンとしている。その中で、一人だけ、思わず息を呑んだ生徒が一人。
(――どうして……‼)
蒼空は目を見開き、思わずまばたきを繰り返す。だがその光景は幻覚でもなければ蜃気楼でもない。
桐谷零と名乗ったその少年はたった一言の挨拶で教壇を降りて、席に戻った。先生もそれ以上は何も言えず、微妙な雰囲気の中、伝達事項を伝え、ホームルームは終わった。その後は体育館で開会式。
一番後ろの席に座っていた蒼空はホームルームが終わると同時に立ち上がり、零の下へ向かおうとする。
(これから開会式だけど体育館ってわかる? 一緒に行こ?)
シュミレーションした言葉を何度も反復し、少しだけ引きつった顔を浮かべる。
いつもならそんなシュミレーションをすることは滅多にないが、今回ばかりは別だ。
鉛のように重くなってしまった足を持ち上げ、一歩、一歩、と前に進む。
「そらー、体育館行こうぜー」
そんな時、急に肩を組まれ、蒼空の行動は制止した。
「え? ああ、そうだな……」
蒼空にしては歯切れの悪い対応をしている間に、零は教室から出て行ってしまった。
名前順で並ぶ開会式で蒼空と零が話す機会はなく、それ以降も蒼空が話しかける間もなく、先生の『じゃあまた明日ねー』という言葉で帰りの会は締められてしまった。
零に話しかけた生徒もいたらしいが、かなりの人見知りなのか、かなりの塩対応を取られたらしい。
学校が終わってから話しかけようか、そう考えていたが、カラオケだのボウリングだのと、クラスの親交を深めるためという名目での遊びを決められてしまい、動くに動けないでいる間に零はクラスから姿を消してしまった。
中学生なので、一度家に帰ってから再度集合という形がとられる。このクラスで蒼空の意見に反対する者はいない。蒼空はその強権を無理やりに行使し、お昼をワックで食べた後、ボウリング。
一二時にワック集合と決め、急いでクラスを出た。
超高速で決めたとはいえ、零が教室を出てから既に五分以上は経ってしまっている。蒼空は階段を駆け下り、校門を走り抜ける。左右を見渡すがそれらしき人物の姿は見当たらない。どちらも同じくらい可能性はあり得るだろう。
「賭けだ‼」
蒼空の帰り道は右。なのだが、蒼空は左に走った。何となく、零は自分の家の方角とは違う気がしたからだ。正直見つかるわけがない、そう思っていたのだが、二百メートル程走ったところで件の人物の背中が視界に入った。
「桐谷君!」
蒼空は息をきらしながら前を歩く零に向かって叫ぶ。零は足を止め、訝るような目を向けた。小走りで零の下まで向かった蒼空は膝に手を当てて息を整える。
「なにか?」
鋭い眼光を放つ零の目にはあの日と同じ黒い闇が渦巻いている。しかもあの日よりもさらに暗く、重い。普通の人なら零が放っている圧だけで圧倒され、電車の席くらいなら簡単に譲ってしまうだろう。
走ったせいで話そうとしていたことがすべて頭から抜け落ち、蒼空はただその圧をひしひしと受ける。
「あ、あの! あの日のことで!」
断片的に出てきた言葉は主語も動詞もなく、零は目を細めただけだった。
「……僕の事……覚えてない?」
「知らない」
おずおずと尋ねた蒼空の発言はばっさりと一刀両断された。だが蒼空は気落ちする気配を見せずに続けた。
「今日クラスで集まってボウリングとか行くんだけど桐谷君も――」
「行かない」
簡潔に答え、颯爽と身を翻した零は足を踏み出すが、蒼空はすぐにその肩を掴んだ。
「なに?」
ゴミを払うように蒼空の手を払った零は体はそのままで顔を少しだけ後ろに向け、かったるそうな視線を向ける。
「その――」
「転校してきて馴染めなかったらかわいそう、僕が友達になってあげなくちゃ、とか思ってるなら甚だ迷惑だ。偽善を振りかざしてんじゃねえぞ」
「そ、そんなんじゃ――」
「違う、と言い切れるのか?」
言葉を失った蒼空は立ち尽くし、零は失せろといった感じで鼻を鳴らす。零は前を歩いていき、蒼空の手は届かない。
「……違う……」
こぼすように呟いた蒼空は数歩前にいる零に小走りで追いつき、先ほどと同じように肩を掴んだ。
「邪魔だ」
低く、冷たい声。またも手は払わるが、蒼空は怯まずに続ける。
「桐谷君! いや、零でいいよね? 僕は――」
蒼空が次の言葉を発しようとした時、視界の端に零の足のかかとが見えた。人間は重力には逆らえない。立っている以上は二本の足は地面と接触していなければならない。だが一瞬なら片足立ちでもバランスを保てるだろう。
「くどい」
そんな呟きが聞こえた。その瞬間、
「がっ……」
足がめりこむ感覚、鳩尾が圧迫され、息が詰まる。何が起きたか、蒼空はそれを理解する前に、膝から崩れ落ちて、腹を抱えた。そうしてようやくわかった。零の回し蹴りによって腹を穿たれたのだと。
「金輪際話しかけるな」
眼下でうずくまる蒼空に冷たい視線を放ち、零はその場を立ち去った。蒼空にはすぐに立ち上がって後を追うようなことはできない。
「……諦めない」
痛みの中で悶えるように呟いたその言葉が零の耳に届くことはなかった。
第一幕はこれで完結になります。
最後までお付き合いいただいた方には心から感謝します。
第二幕は数年後、華蓮がいなくなった後の零の物語になります。
ある程度の構成は出来上がっているので、需要があるようでしたら投稿してきたいと思います。




