その24☆揺れる居場所
扉が開き、外に出るとすれ違いに背広を着た二人のおっさんが乗り込んで来た。
一人は三十代後半くらいの大柄なおっさんで、百七十三センチの俺より、たっぷり十センチは背が高い。肩幅も広く、がっしりしていてどこかプロスポーツ選手を思わせるそんな雰囲気だ。
もう一人の方は五十代半ばくらいのおっさんで、隣のデカイおっさんとは対照的にこちらは小柄だ。薄くなりかけた髪をオールバックに撫でつけていて、その為額の深い皺がやけに目立つ。二人とも眼つきが鋭く、背広を着用しているがサラリーマンではないなと感じた。一体何者だ?
俺の懐疑の眼差しとともにおっさん達は扉の奥へと静かに消えて行く。少し気になったが二人の姿が消えるのと同時にその思いも消えて行き、目は505号室の部屋番号を探していた。
廊下は薄暗く、不気味なほど静かだ。通路の所々に大きめの窓はあるが、東向きなのかこの時間帯に陽が入り込む事はなくて天井の蛍光灯も節電なのかスイッチが切られていてとにかく薄暗い。
一番手前の病室の番号が501と書かれている事を確認して、その四つ先の病室へ歩みを進める。
505号室の前まで来たところで立ち止まり、ネームプレートを見たがそこには何も書かれていなくて小さく肩を竦めた。白い引き戸はきっちりと閉まっていて中の様子は窺えない。
話し声や物音さえも聴こえなくて、おっちゃんが指定した場所は本当にここなのかと少し不安になった。
暫く逡巡したあと、俺はL字型の取っ手を掴み、ゆっくりと引き戸をスライドさせた。静かな病院にカラカラと乾いた音が響く。病室はベッドが六台置いてある大部屋で思いのほか広く、西側にある窓はカーテンが開け放たれていて大量の西日が病室内に入り込んでいた。
それぞれのベッドには小さな山が、計四つある。四人が寝ていた。病室には病院独特の、消毒液のようなツンとくる匂いがしたがそれほど気にならなかった。濃い蜜色の夕陽がそれを中和しているのかも知れない。俺の気配に気づいたのか、中央にあるベッドの小さな山が動いて掠れた声を出した。
「……ギン……か?」
驚いてそのベッドを見つめた。ジョーの声に聞こえ、急いで駆け寄る。包帯やガーゼで顔の半分以上が隠れていたが、その顔は紛れもなくジョーだった。
「どうしたんだよ!? 大丈夫かよジョー!?」
「あんまり……大丈……夫……じゃねーな……」
そう言うと、ジョーはやっとという感じで身体を起こす。
「何で!? 何があったんだよ!?」
「……メチャクチャだ……。アイツら……」
ジョーは小さく呟くと口を閉じた。口元の生傷が痛々しく、赤く濡れている。俺は目の前の現実がまだ信じられないでいた。ジョーは自他共に認める格闘の鬼で、今まで一度も敗北を喫した事など無かったはずだ。そのジョーがこんなにもボロボロになるなんて、俺は悪い夢でも見ているのだろうか?
俺達二人の話し声で他のベッドの山が次々動き出した。見ると奥の窓際からショウちゃん、クボッチ(久保田直道)、ニイだった。みんな一様にボロボロにやられている。俺は茫然と立ち尽くしたまま、それぞれの顔を見ていた。不意にショウちゃんと目が合ったがすぐに視線を外されてしまった。ショウちゃんのその目に微量の猜疑心が浮かんだような気がして胸の鼓動が速くなる。
誰かが舌打ちをした。病室に疑いと怒りと息苦しさを混ぜこぜにした空気が流れ、淀んだ。ジョーに視線を戻すとジョーは俯いたまま、指先で口元の傷を押さえている。相当痛むのだろう、時折苦しそうに声を漏らす。
「……フクちゃんが、ヤベーんだ」
クボッチが力無く、そう呟いた。静かな声だった。クボッチの顔を見つめたが、クボッチは軽く舌打ちを鳴らし、嫌そうに視線を俺から逸らした。
「ヤベーって……何だよ」
俺の声は震えていた。その先を訊くのが怖い。みんなの向こう側、窓の外にある欅の枝が風に揺れている。飛ばされまいと枝にしがみついている枯れ葉が何枚か空へ飛んだ。黙り込んだクボッチの代わりにジョーが続けた。
「意識が戻らねーんだ……。医者が覚悟してくれって……」
ジョーはそう言うと、左手で顔を覆う。隣のベッドにいるニイが、
「クソッ!」
と叫び、無事な右腕で枕を掴み、壁に投げつける。そのままの姿勢で俺を睨んだ。
「なあギン、俺達襲った奴ら誰だか知ってんじゃねーのか? そいつら去り際に言ってたぞ、恨むんなら米倉を恨めってよ」
「馬鹿ッ、やめろ! そんなのデタラメに決まってんだろ!」
ニイとジョーが短い時間睨み合い、病室内が一気に緊迫した空気を孕んで互いの熱が膨張する。
俺の佇立している場所がグラグラと揺れている。心の拠りどころ、唯一の居場所がグラグラと揺れている。
「……どんな奴らだったんだ?」
俺のその声は酷く弱い声だった。
本当はそんな事訊かなくても分かっている。ブラックだ。でも俺は知らない振りをしてしまった。みんなの視線が身体を射抜いて、その場に立っていられないほど痛い。俺は卑怯者なのだろうか?
「……さっき刑事が来たんだ。犯人の顔は覚えているか? 何か知っている事はないかって……スゲーしつこく訊かれたぜ、こっちは被害者なのによ。だけど俺達、ギンの事は黙ってたよ……仲間だもんな」
そう言い終えたジョーの双眸に涙が浮いて、それはすぐに表面張力の限界を超えて頬に流れ落ちた。
みんなが息を飲み、ジョーを見つめている。恐らく初めて見せたジョーの涙。その時俺はもうあの頃には戻れないと強く感じた。
俺は――俺は馬鹿だ。
「みんなワリー、本当ゴメン。全部俺のせいだ……」
みんなの顔を見るのが怖くて、誰とも目を合わさず病室をあとにした。白い引き戸を後ろ手で閉める時、もしかしたら誰かが引きとめてくれるかも知れないと淡い期待が頭の隅を掠めたが、結局誰の声もしなくて、白い戸を閉めた瞬間、俺達の絆や意識は完全に途切れた。小さく溜息を吐いて歩き出す。
『どこに行くんだ?』
そう、誰かが呟いた気がして俺は後ろを振り返った。だけどそこには誰もいなかった。来た時と同じ、薄暗い廊下が奥へと続いているだけだ。
俺は一人だった。
そう気づかされた時、不意に視線が歪んだ。
涙だった。
大切なモノを傷つけ、居場所を失くし、愚かな自分への後悔の涙だった。感情の涙だった。
俺は母さんが死んで以来、初めて声を出して泣いた。