第20話:約束の暖簾と、現世の名探偵(最終話)
――カン、カン、カン、カン。
踏切の小気味よい遮断機のエコーが、夏の少し生温かい夜風に乗って響いていた。
現世、日本のどこかに位置する、高層ビルと古い家屋が奇妙に混ざり合った、とある大都市の路地裏。
その薄暗い一角に、赤地に黒い文字で『名探偵』と染め抜かれた暖簾が、ひっそりと揺れている。
天国のシステムを完全に上書きし、記憶を持ったまま現世にダイレクトに転生した俺――岩田めぐるは、今、木造のカウンターの奥で、豪快に麺の湯切りを行っていた。
「大将! こっち、味濃いめの家系チャーシュー麺、麺硬めで一杯!」
「あいよ、ちょっと待ちなどう」
威勢のいい声で応じながら、俺は黄金色の鶏油が浮かぶ極上スープに、茹で上がったばかりの太麺を滑らせる。
天国の特区で楽しんでいたあの『究極の味』を、俺はこの現世の路地裏で、自分自身の手で完璧に再現し、一軒のラーメン屋を開いていた。
生前、八十年間過ごした穏やかな島も悪くはなかった。だが、夜遅くまで電飾がギラギラと輝き、数え切れないほどの人間たちの欲望と興味が渦巻くこの都会の空気は、一度『名探偵』として覚醒してしまった俺の魂にとって、たまらなく心地よかった。
「お待たせ。特製家系チャーシュー、お待ち」
丼をカウンターに置くと、会社帰りのサラリーマンが「うおお、美味そう!」と顔をほころばせ、一心不乱に麺を啜り始める。
俺はその姿を眺めながら、フッと不敵な笑みを浮かべた。
今の俺の目は、ただのラーメン屋の親父のそれじゃない。胸元のエプロンの裏側には、天国の全システムと直結した、あの虹色の『システム総括神』のバッジが、静かに息づいている。
俺のルール変更によって、現世には今、俺がスカウトしたあの『スペシャリストの神様たち』が、人間の姿として同時期に生まれ落ちている。
ゲームのバグを暴く天才弁護士、ネットの闇を優しく包むスナックのママ、炎上を裏でコントロールする謎のネットフィクサー……。彼らが現世の最前線で活動しているおかげで、今のネット社会は、巨大なバグ(崩壊)を起こす前に、内側から絶妙なバランスで面白いエンターテインメントとして回り続けていた。
だが、それでも人間は新しい流行を求め、いつかまた、誰も予想できない新しい現代の闇を生み出すだろう。
その時は――。
「め、めぐる先輩ぃぃぃーーー!! 助けてください、また大変な依頼が入ったんですぅぅ!!」
――バシャァァン!!
勢いよく引き戸が開け放たれ、真っ赤な暖簾を引っ剥がさんばかりの勢いで店に飛び込んできたのは、お馴染みのポンコツ天使……いや、今や現世で俺の『住み込みのバイト店員』として一緒に転生してきた、エルの姿だった。
案の定、エルの足元はもつれており、カウンターの手前で見事なスライディングを披露する。その衝撃で、彼女が抱えていた注文票や、現世の最新型スマホが床へと派手にぶちまけられた。
「……おい、エル。せっかくの豚骨の香りに、埃が混ざるだろ。少しは静かに暖簾をくぐれと、天国の頃から何度も言ってるはずだぞ」
「そんなこと言ってる場合じゃないんですぅ! 見てくださいこれ!」
エルは涙目で起き上がると、少しズレた眼鏡を直しながら、画面が激しく明滅しているスマホを俺の目の前に突き出してきた。そこには、現世の若者たちの間で今まさに秒単位で拡散され始めている、全く新しい『未知のトレンドのプロトタイプ』のデータが映し出されていた。
「これです! 現世の人間たちが、また天国の想定外の新しい遊びを始めちゃって、流行管理サーバーに小さなバグの予兆が出ています! 早く次のスペシャリスト(迷子)を探しに行かないと、また天国から絶対神様の怒声が飛んできますぅぅ!」
画面に流れる複雑な数字の羅列を見た瞬間、俺の脳内に眠る『名探偵の領域』が、カチリ、と心地よい音を立ててフル回転を始めた。
ポリポリと頭を掻きながら、俺は厨房の火を止め、エプロンを脱ぎ捨てる。その下に着込んでいるのは、いつだって謎を解き明かしてきた、あの漆黒のトレンチコートだ。
「やれやれ。ラーメンの仕込みが終わったと思ったら、すぐにこれか。本当に、現世の人間ってやつは、退屈してる暇がないな」
「めぐる先輩、行くんですか!?」
エルがパッと顔を輝かせ、現世の人間には見えない純白の翼を、嬉しそうにパタパタと羽ばたかせた。
「当たり前だろ。どんなに新しいテクノロジーだろうが、動かしているのは人間の泥臭い心だ。俺のロジックで暴けないバグ(謎)なんて、この世に一つもねえよ」
俺は『名探偵』の暖簾を力強く跳ね上げ、ネオンが煌々と輝く都会の夜の雑踏へと、不敵に笑いながら一歩を踏み出した。
「おい、エル。遅れるなよ。次の事件をサクッと解決して、帰りに美味い家系ラーメンのハシゴをするぞ」
「はいっ! どこまでも付いていきます、めぐる先輩!」
ポンコツ天使の賑やかな足音を背中で聞きながら、現世に降り立った名探偵の、新時代を巡る最高の謎解きの日々は、ここから永遠に続いていく。




