第11話:名探偵の休息と、約束の一杯(最終話)
天国のシステム総括神となった俺の初仕事は、天国の最上層に、誰も立ち入ることのできないプライベートエリアを丸ごと一つ建設することだった。
大理石の神殿や、無機質なデジタルモニターが並ぶ空間を抜け、エルに案内されて辿り着いたその場所は、天国の喧騒が嘘のように静かな、どこかノスタルジックな空気が流れる路地裏だった。
その路地の一角に、ぽつんと一軒、見覚えのある木造の店構えが佇んでいる。
赤地に黒い文字で『名探偵』と染め抜かれた暖簾が、天国の心地よい微風に揺れていた。そして暖簾の隙間からは、鶏ガラと豚骨、そして芳醇な醤油が極限まで調和した、脳の芯まで痺れるような美味い香りが、白い湯気となって溢れ出てきている。
「……ほう。やるじゃないか、神様も」
俺――岩田めぐるは、その香りを嗅いだ瞬間、生前の八十年間、そして天国に来てからのすべての疲れが一気に吹き飛んでいくのを感じた。
「すごいです、めぐる先輩! ここ、絶対神様が料理の神様たちを総動員して作った、先輩専用の『特区』なんですよ! 現世の過去から未来に至るまでのすべての名店の味、そして人類の歴史上最も美味い幻のラーメンが、ボタン一つでいつでも完璧に再現されて無限に食べられるんです!」
エルが背中の白い翼をパタパタと嬉しそうに羽ばたかせながら、目を輝かせて説明してくれる。
「現世に転生しちまったら、せっかくのこの天才の頭脳も、天国でのお前のポンコツっぷりの記憶も全部消えちまうからな。ここで記憶を保ったまま、永遠に美味いラーメンを楽しめるなら、お巡りさんの引退生活としては悪くない」
俺はフッ、と苦笑いしながら、ガラガラと引き戸を開けて暖簾をくぐった。
清潔に磨き上げられた木目のカウンター席に腰掛けると、奥の厨房では、天国の職人の神様たちが、職人技の流れるような手つきで麺を豪快に湯切りしている。
「お待ちどうさま」という声と共に目の前に置かれたのは、透き通った極上の醤油スープに、美しく折り畳まれた細麺、そして大ぶりのチャーシューと青ネギが添えられた、まさに芸術品のような一杯だった。
俺の脳内の名探偵レーダーが、スープの表面に浮かぶ脂のきらめきを見ただけで、「現世のどの行列店をも遥かに凌駕する究極の味」であることを瞬時に証明してみせる。
「いただきます」
レンゲでスープをひと口、静かに啜る。
その瞬間、ガツンとした旨味と深いコクが口いっぱいに広がり、思わず息を漏らした。
「……美味い。美味すぎるな、これは。島じゃ絶対に食えなかった味だ」
「いいなぁ、いいなぁ……! めぐる先輩、すっごく美味しそうですぅ!」
隣の丸椅子に座ったエルが、カウンターに顎を乗せて、羨ましそうにヨダレを垂らしながら俺の丼を覗き込んできた。
「おい、泣き虫。そんなに食いたそうにこっちを見るな。スープに涙が落ちるだろ」
「だって、だって! 私は神様選別課の激務で、もう何百年もまともなご飯を食べてないんですぅ! 先輩のお手伝いを頑張ったご褒美に、ひと口だけでも、チャーシューの端っこだけでもいいので、恵んでくださいぃ!」
両手を合わせて必死に拝んでくるポンコツ天使を見て、俺はフッと笑い、厨房の職人に向かって声をかけた。
「大将、この泣き虫の天使にも、特製のチャーシュー麺を一杯。ツケは絶対神の口座(徳データ)に回しておいてくれ」
「ひゃあああ! 本当ですか!? めぐる先輩、一生付いていきます!」
エルは飛び上がって喜び、天国の天井に頭をぶつけそうになりながら大はしゃぎした。
やがてエルの前にも特大のラーメンが運ばれ、二つの湯気がカウンターの上で優しく混ざり合う。エルは「ふーふー」と不器用に行儀悪く麺を啜り、「しあわせですぅ……」と顔をほころばせた。
「なぁ、エル。バグは全部直ったが、現世の人間はこれからもどんどん新しい娯楽や流行を生み出すはずだ。そうなれば、また新しい神様が必要になって、システムがおかしなエラーを吐き出すかもしれない」
俺は麺を啜り上げ、チャーシューを噛み締めながら、隣の相方を見つめた。
「その時は、またお前がここに依頼を持ってくるんだろ?」
エルは口いっぱいに麺を頬張ったまま、力強く何度も首を縦に振った。
「はいっ! もちろんです! どんな難しいバグ(迷子)が起きても、めぐる先輩のロジックがあれば百人力ですから! 私は美味しいラーメンの出前と一緒に、いつでも次の事件を持って走ってきます!」
「やれやれ、最高捜査顧問なんて格好いい肩書きを貰ったが、要するに俺はこれからも、お前の尻拭いをさせられるわけだ」
俺はポリポリと頭を掻きながら、最後の一滴まで極上のスープを飲み干した。
天国のシステムが定めたルールの歪み、天国の矛盾。
そのバグによって一度は眠らされた天才探偵の頭脳は、今、この天国の最上層で、最高の相棒と究極のラーメンという、何よりも贅沢な報酬を手に入れた。
「さあ、次の謎がやってくるまでは、この店が俺の特等席だ」
赤地に『名探偵』と書かれた暖簾の向こうには、バグの消え去った天国の、どこまでも澄み切った美しい青空が、静かに広がっていた。
(『天国で名探偵始めてみました』第一部・完)




