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死にかけのダンジョンコアに拾われたので、清い水から生活インフラ迷宮を始めます  作者: 乾燥しいたけ


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第65話 湯気の奥で、冷たい霧を見た



 第6層を作ってから、数日。


 第1層は、いつも通り動いていた。


 清水の音。


 酒場の声。


 洗い場の水音。


 仮受付でのやり取り。


 救護席に座る冒険者。


 誰も、湯溜まりの奥に冷たい霧が生まれたことを知らない。


 それでいい。


 俺は黒い水膜の前で、第5層の奥を見ていた。


 湯気のさらに向こう。


 ほんの少しだけ流れる冷たい白。


 あれは、湯気ではない。


 霧だ。


『今日は来るわね』


 ヴェルティアが言った。


「分かるのか?」


『第5層を知っている足音が来ているもの』


「足音で分かるの、迷宮っぽいな」


『迷宮よ』


 水膜に映ったのは、見慣れた面々だった。


 クレス。


 カティア。


 ティア。


 カイル。


 ラハル。


 新しい護衛依頼ではない。


 湯溜まり目的の貴族同行でもない。


 侯爵家の問い合わせが来た後、第5層の状態を改めて確認するための上位組だった。


 第1層で、グラントが確認している。


「目的は、第5層湯溜まりまでの状態確認。門番戦を含む。貴族同行なし。報酬取得は各自の判断。帰還後、確認内容を仮受付へ報告」


「分かった」


 クレスが頷く。


 カティアは腰の短剣を確かめながら、湯溜まり側の通路を見た。


「湯目当てが増えそうだからな。慣れてる連中がもう一度見とくのは悪くねえ」


 ティアが静かに言う。


「慣れている時ほど、判断が遅れるわ」


「だな」


 カイルは剣をいつでも抜ける位置に置いていた。


 顔は明るい。


 だが、目は第5層の方を見ている。


「クレスさん、今日は確認優先でいいんですよね?」


「ああ。門番は倒す。ただし、無理に早く倒す必要はない」


「分かりました。見落とし探しですね」


 そう言って、カイルは笑った。


 退屈を嫌う顔ではない。


 新しい何かを期待している顔だ。


 ラハルが大きく頷いた。


「ふはは! 確認とはいえ、第5層の門番相手よ。気を緩めるには早すぎるわい」


 カティアが横目で見る。


「爺さんも今日は受けすぎんなよ。確認の日だ」


「分かっておる。受けるだけが盾ではないと、前に教わったからの」


「忘れてなきゃいいけどな」


 軽口はある。


 だが、油断はない。


 クレスが先頭を見て、短く言った。


「行くぞ」


「はい」


 カイルだけが、短くそう返した。


 5人は第5層へ進んだ。


 熱。


 湿った床。


 濃い湯気。


 慣れたはずの第5層でも、歩調は崩れない。


 門番が現れた。


 ホットスプリングガーディアン。


 白い鉱物の殻。


 青白い核。


 肩と背から噴き上がる湯気。


 初めて見た者なら、息を止める相手だ。


 だが、この5人は知っている。


 知っているから、雑には動かなかった。


「核を急ぐな。湯気を見る」


「了解です」


 クレスの声に、カイルが短く返す。


 カイルは速い。


 門番の腕の外側へ走り、誘って、深く入りすぎる前に戻る。


 ティアが床の乱れを見て、魔力を通す。


 カティアは湯気の下を読んで、門番の肩の遅れを拾う。


 ラハルは盾で受け切らず、重さを斜めに流す。


 クレスはその全部の間を通して、必要な場所だけを斬った。


 戦いは短かった。


 楽だったわけではない。


 ただ、彼らは第5層を知っていた。


 核を急がない。


 湯気に焦らない。


 足場を捨てない。


 後衛を置き去りにしない。


 ホットスプリングガーディアンの核が砕け、湯気が大きく揺れた。


 クレスは剣を下ろさない。


「確認」


 ティアが全員を見た。


「負傷なし。魔力消耗軽度。ラハル、右腕に衝撃残り」


「この程度、傷にも入らぬわ!」


「残り、と言ったのよ」


「むう。記録としては正しいのう」


 カティアが湯溜まりの方を見る。


「奥、行ける」


「湯溜まりまで確認する」


 クレスが言った。


「はい」


 カイルが返す。


 5人は進んだ。


 そして、湯溜まりへ着いた。


 温かい湯気。


 静かな水面。


 第5層の奥にある報酬。


 戦いの後の張り詰めた体が、そこだけで少し緩みそうになる。


 誰もすぐには喋らなかった。


 湯気が上がる。


 水面が揺れる。


 門番戦の音が、遠くへ沈んでいく。


 温かい。


 安全ではないのに、そう錯覚しそうな温かさだった。


 カイルが小さく息を吐いた。


「ここ、やっぱり変だな」


 ティアが視線だけを向ける。


「変?」


「気が抜ける。戦った後だから余計に」


「だから危ないわ」


「分かってる」


 カイルは湯溜まりではなく、その奥を見た。


 湯気のさらに先。


 白いものが流れている。


 目が細くなる。


「クレスさん」


 カイルの声が変わった。


「あそこ、前から白かったですか?」


 全員の空気が止まった。


 温かい湯気の中で、その一言だけが冷えた。


 ティアがすぐに湯溜まりの奥を見る。


「動かないで。湯気じゃないわ」


 カティアがしゃがんだ。


 床に指を近づける。


 触れない。


 ただ、空気を読む。


「湯気じゃねえ。床が冷えてる」


 ラハルの眉が動く。


「冷えている、だと? この湯の奥でか」


 クレスが一歩前に出た。


 ただし、踏み込まない。


 見るだけだ。


「全員、湯から離れろ。奥を見る。入るとは言ってない」


 カイルはもう一歩行ける位置にいた。


 だが、足を止めた。


「了解です。見るだけですね」


 その声に、不満はある。


 けれど、逆らう色はない。


 クレスの判断を信じている声だった。


 カティアが低く言った。


「黙れ。音が変だ」


 その一言で、全員が黙った。


 湯溜まりの音がある。


 温かい水の音。


 その奥に、別の音が混じっている。


 水ではない。


 風でもない。


 霧が石に触れるような、細い音。


 ラハルが少し前へ出ようとした。


 カティアが手を出して止める。


「爺さん、足音が返ってねえ。そこで止まれ」


「む」


 ラハルが足を止める。


「わしの足音がか」


「違う。返ってくる場所がズレてる。湯気の奥じゃなくて、横から返ってきてる」


 ティアが霧の方へ魔力を伸ばした。


 冷たい白が、わずかに割れる。


 だが、すぐ戻る。


「開くけれど、戻るわ。霧が閉じるのが早い」


 クレスが判断した。


「入口だけ確認する。入るのは数歩だ。条件を決める」


 カイルの目が光った。


 進みたい。


 それは隠していない。


 だが、口に出したのは別の言葉だった。


「条件、聞きます」


 クレスは全員を見る。


「視界が切れたら戻る」


「はい」


「音の位置が大きくずれたら戻る」


 カティアが頷く。


「もうずれてる。悪化したら即だな」


「誰かが寒さで動きにくいと感じたら戻る」


 ラハルが少し笑う。


「わしが寒いと言うとは思えぬが」


 ティアが冷たく返した。


「言えない人から遅れるわ」


「むう。ならば、違和感があれば言う」


 クレスは最後に言った。


「進むためじゃない。戻るために見る」


「分かりました」


 5人は湯溜まりの奥へ進んだ。


 一歩。


 温かい床の終わり。


 二歩。


 足裏から、熱が薄く抜ける。


 三歩。


 湯気の匂いが消えた。


 代わりに、冷えた石と水の匂いがした。


 霧が膝の高さで流れている。


 白い。


 だが、湯気とはまるで違う。


 肌に触れる白が、温めない。


 むしろ締める。


 カイルが短く息を吐く。


「冷えるな」


 軽い感想ではない。


 戦闘中の報告だった。


 ティアがすぐに返す。


「足は動く?」


「動く。けど、長くいたら鈍る」


 カティアが床を見る。


「同感だ。足から来る」


 その時、羽音がした。


 右上。


 全員が右を見る。


 だが、影は左の壁際をかすめた。


 白い羽。


 冷たい風。


 ほんの一瞬だけ、カイルの髪が揺れる。


 カイルは追わなかった。


 剣の柄へ指はかかった。


 だが、足は出さない。


「音が逆だ」


「音を信じるな」


 カティアが言った。


「目だけでも足りねえ」


 クレスは剣を抜きかけたが、振らなかった。


「追うな」


「追いません」


 カイルの返事は早かった。


 ただ我慢しているのではない。


 追ったら何を失うかを理解している返事だった。


 ティアが霧へ細く魔力を通す。


「上に小型。羽音は反射している。位置がずれる」


 ラハルが盾を構える。


 その盾の音が、後ろから返ってきた。


「これは、気持ちが悪いのう」


 カティアが床を見る。


「足元、待て」


 カイルはもう止まっていた。


 止まった足の少し先。


 濡れた石に見えた場所が、ゆっくり盛り上がった。


 薄い氷膜のような体。


 床と区別しにくい。


 それが、足首の高さへ伸びる。


 カイルは踏み込まない。


 剣の先で床を軽く叩く。


 氷膜のようなものが、ぬるりと形を変えた。


「床じゃない」


 ティアが手を上げかけた。


 だが、撃たなかった。


 クレスが先に言う。


「戻る」


 カイルが霧の奥を見る。


 その目は、まだ行きたがっていた。


 見たい。


 進みたい。


 何があるのか知りたい。


 だが、クレスが言った。


「今日は入口確認までだ。敵を倒し始めたら、入口確認ではなくなる」


 カイルは一度だけ、霧の奥を見た。


 それから剣を下ろす。


「分かりました、クレスさん。まだ戻れるうちに戻ります」


 ラハルが頷く。


「良い判断よ」


 ティアも小さく頷いた。


「今の撤退なら、情報が残るわ」


 カイルが少し笑う。


「次に進むための戻り、ってやつだな」


 カティアが後ろを確認する。


「喋りながらでも足元見ろ。戻るまでが確認だ」


 5人は戻った。


 たった数歩。


 それだけなのに、湯溜まりの温かさへ戻った瞬間、全員の息が少し変わった。


 温かい。


 さっきまで当たり前だった湯気が、急に安全なものに感じられる。


 だが、それも間違いだ。


 第5層は安全ではない。


 ただ、その奥にもっと違う白があっただけだ。


 クレスが湯溜まりの前で振り返る。


 冷たい霧は、奥で静かに流れている。


 案内はない。


 看板もない。


 文字もない。


 ただ、そこにある。


「新しい層だな」


 クレスが言った。


「第5層の奥にある。だが、今は入るな」


「はい」


 カイルが短く返した。


 カティアが頷く。


「湯目当ての奴に見せる場所じゃねえ」


 ティアも霧を見た。


「第5層の直後で気が緩んだ体に、冷えと視界不良。かなり悪い配置ね」


 カイルが少し楽しそうに言う。


「でも、面白い配置だ」


 ティアが横目で見る。


「面白い、で進む場所ではないわ」


「分かってる。面白いから、ちゃんと準備する」


 それは、カイルらしい言葉だった。


 退屈を嫌う。


 新しいものを見れば目が輝く。


 けれど、Aランクとして、危険を面白さだけで踏み抜かない。


 ラハルが盾を下ろした。


「湯で緩み、霧で締めるか。なかなか性格が悪い」


 黒い水膜の前で、俺は少しだけ肩をすくめた。


「言われてるぞ、ヴェル」


『貴方も作ったでしょう』


「共同責任か」


『当然よ』


 5人は第1層へ戻った。


 湯には入らなかった。


 報酬にも長く触れなかった。


 確認して、戻った。


 それだけで、十分だった。


 第1層へ戻ると、仮受付の周りに人が集まった。


 グラントが顔を上げる。


「お戻りですか。状態確認を」


「負傷なし」


 クレスが答える。


「第5層門番は撃破。湯溜まり到達。その奥に、新しい霧を確認した」


 仮受付の空気が止まった。


「新しい霧、ですか」


「ああ。第5層の湯溜まりの奥だ。入口らしきものがある。案内はない。文字もない」


 グラントが記録を取り始める。


「進入は」


「数歩だけ。冷え、視界不良、音の反射、床との見分けにくい魔物、小型の飛行魔物を確認。奥へは進んでいない」


 マイラがカイルを見る。


「冷えは残っていますか」


「少し。動きには問題ない」


「確認します」


 カイルは素直に救護席へ向かった。


 文句ではなく、記録のためだ。


 ティアが補足する。


「短時間でも足から冷えます。長時間の滞在は危険です。第5層の門番戦後にそのまま進むなら、消耗管理も必要になります」


 カティアが仮受付の机に片手を置いた。


「まだ依頼に混ぜるな。湯目当ての奴に見せる場所じゃねえ」


 グラントが頷く。


「第5層湯溜まり奥に、新規階層と思われる冷霧区域を確認。現時点では公開依頼に含めない。上位冒険者による再調査が必要、と記録します」


「それで頼む」


 クレスが言った。


 カイルは救護席に座ったまま、霧の方角を見る。


「行けそうには見える。でも、見えるだけだ。あれ、奥で音がもっとズレたら面倒になる」


 クレスが頷く。


「その通りだ」


 カティアは腕を組んだまま、少しだけ嫌そうな顔をしていた。


「第5層で終わりじゃなかったってわけだ」


 オルド村長が静かに頷く。


「迷宮ですからな」


 その言葉は、妙に重かった。


 便利だから人が来る。


 水があるから人が来る。


 湯があるから人が来る。


 報酬があるから人が来る。


 でも、ここは迷宮だ。


 人間が望んだ場所で終わるとは限らない。


 黒い水膜の前で、表示が浮かぶ。


【第6層入口発見を確認】


【第6層冷霧環境の初期確認を確認】


【第6層通常魔物との初遭遇を確認】


【第6層入口からの撤退判断を確認】


【帰還後、第6層を公開依頼に含めない判断を確認】


【獲得DP:420】


【現在DP:2396】


 見つかった。


 まだ入口だけ。


 まだ数歩だけ。


 それでも、もう人間側は第6層の冷たさを知った。


 戦って勝ったわけではない。


 報酬を得たわけでもない。


 けれど、戻った。


 戻って、報告した。


 それが一番大きい。


『悔しそうね』


 ヴェルティアが言った。


「誰が?」


『貴方が』


「そう見える?」


『見えるわ』


 俺は水膜を見る。


 湯溜まりの奥に、冷たい霧がある。


 作ったのは俺たちだ。


 なのに、人間がそこから戻ると、少しだけほっとしてしまう。


 進んでほしい。


 でも、戻ってほしい。


 迷宮の主としては、たぶん矛盾している。


 でも、俺はそう思ってしまう。


「戻る判断ができる奴らに最初に見つかって、よかったよ」


『ええ』


 温まった体で、その冷たさを見る。


 第5層を越えた者だけが知る、次の白。


 それはまだ、誰でも入れる道ではない。


 まだ、依頼に混ぜるものでもない。


 でも、もう知られてしまった。


 クレスたちは見た。


 カティアは音の違いを拾った。


 ティアは霧の閉じる速さを見た。


 カイルは、行けるかどうかを見て、戻る方を選んだ。


 ラハルは、長居したくない場所だと感じた。


 十分だ。


 清水の迷宮は、ようやく人間に第6層の影を見せた。


 湯気の奥の冷たい霧は、静かにそこにある。


 進む者が来るまで。


 戻れる者が、戻ると言えるまで。


後書き

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、第5層湯溜まりの奥にある第6層の入口を、クレスたちが初めて確認する回でした。

本格攻略ではなく、数歩だけ入り、冷えや音の反射、足元の危険を確認して戻る判断をしています。


続きを追っていただける方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

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