第16話ー⑤
昨夜――眠れずに、失望と向き合った。
縄手先生の優しさが、
偽りだった――その残骸だけが残って。
昨夜――一晩中、欲望とぶつかった。
抱きしめられた温もり、
あれが嘘でもいい。
それでも――最後に、触れていたかった。
こんなに苦しくて、悲しくて、まるで無間地獄の旅人のような人生にさせてしまう、
その根源を、消してしまえたなら――
みんなと同じように笑って、
同じように泣いて、
同じように生きられるのかもしれない。
――どれだけ、楽になるだろう。
縄手先生には斎部さんがいて、そして斎部さんのお腹には、二人の命を受け継いだ新しい命がいる。
もう、自分の居場所はない。
もう、自分は必要とされていない。
もうーー生きている意味なんて、ない。
同性愛者であることが不幸にさせるなら、その指向を治療すれば、また縄手先生と笑顔で会えるかも知れない。
だから俺はーー
もう、俺でなくていい。
いつの間にか、甘く濃い桃の香りで満ちた全面ガラス張りの廊下を、久米香月は一歩一歩引きずる脚を進めていた。
両側の竹林が南風に揺れ、光と影を作り出す。
視界まで、それに合わせるように揺れていた。
不意に先導していた義玄が立ち止まり、久米はぶつかりそうになる。
気付けば天井まで届く黒漆喰で塗られた観音開きの扉が、目の前に立ちはだかっていた。
義玄はその扉を大きく引き開け、先の空間へと手を差し出した。
覚悟を確かめるように、小さく息を吐いた香月は、先に踏み出した母の香織に続き、その空間へと入って行った。
―――――――――――
瞬間移動したかのように、飛びかかってくる義覚が右腕を振り下ろす。
曲川は「うわ!」と叫び、反射的に腕を上げた――が、胸のど真ん中が「避けろ!」と叫び声をあげた。
反射的に、体が勝手に翻った。
理解が追いつかない。
――皮一枚。
見えない何かが、顔面のすぐ前を叩き裂いた。
「なにすんねん!」
義覚を睨みつけるも、間髪入れずに義覚が横一文字に右腕を大きく切り裂く。
見えない。
だけど――「何か」がある。
曲川は、弾かれるように後方へ飛んだ。
義覚は振り切った反動のまま、体を回転させながら宙に舞い、曲川の頭上へ何かを叩き下ろす。
胸のど真ん中に響く指示に振り回されるように、今度は横へ転がる。
石塚に突っ込んでしまった曲川の手のひらから血が滲みだす。
「!!痛ッ!」
「ヤバいって!」
絶対に背中を向けたらいけない直感に、選択肢は思い浮かばず、石塚の石を掴み義覚へ投げつけるが、倒れた姿勢では、さすがに球威は出ない。
簡単に避けられてしまう。
倒れた曲川に詰め寄った義覚は、無表情で「残念です。」つぶやき、右腕を振り下ろした。
握りしめた両手を差し出し、咄嗟に防御した。
覚悟を決めた曲川は目を強く閉じた。
鮮血が一筋、拳から滴った。
次の瞬間、鉄のぶつかる音が大きく響いたのと同時に、曲川の両手に衝撃が走った。
押し込まれる力を跳ね返すように、両腕を勢いよく突き出す。
目を開けた曲川に、義覚は後方へ飛び退いた。
ほんの数分の出来事に息を荒くした曲川は、立ち上がりながら、拳の中に昨日と同じ感覚が蘇る。
――握っている。
確かに、「何か」を。
視線を持ち上げた右手に移してみる。
「!!!」
「イメージや!自分の魂で表現するんや!」
【新沢千塚古墳群公園】の駐車場で、叫ぶ北越智の姿が蘇る。
「そうか・・・・。わかったで。」
「人の魂って、こーやって連なっていくんや。」
昨日の無我夢中で描いたイメージじゃなく、魂の共鳴で無意識に理解しているイメージ。
時空が歪む。
風景が、切り替わる。
気付けばーー
橿原宮で、父である磐余彦【いわれびこ】の命【みこと】から宝剣を受け取っていた。
曲川は、迷いなく鞘を抜いた。
――一気に時空が戻る。
退いたままの義覚はこちらを凝視している。
その右手には、真っ赤に染まり揺れる斧が、握られていた。
その凶器を前に、呼吸を静めた曲川は両手にしっかりと天羽々斬【アメノハバキリ】を握りしめ、力強く構えた。
「―――お帰りなさい。」
曲川の覚醒を待っていたような義覚は、少し微笑んだ後、再び一気に間合いを詰めた。
頭上に振り下ろされる斧が見える。
その軌道を外す。
躊躇なく剣を突き刺しかえす。
義覚はヒラリとかわしながら、降ろした斧を切り返し振り上げる。
ギリギリで避ける。
曲川の顎先を、風圧がかすめた。
体を反転させ再び斧が振り下ろされるタイミングに合わせて、剣を義覚の肩めがけて叩きつけた。
・・・・・・・
「え・・・・。」
不意に、死球のような衝撃が腹部に突き刺さる。
息が、できない。
声が、出ない。
曲川は視線を落とした。
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