『アベル』
アベルはとある国の第一王子として生まれた。王である父と王妃である母。そして弟が一人といった、いたって普通の王家の子として育った――はずだった。
第二王子を担ぎ上げようとした勢力がいたわけではない。弟のほうを後継者にと王が任命したわけでもない。
だがアベルは国を出て、遠く離れた地で騎士になった。
アベルは幼少の頃より――正確にいえば、王族のたしなみとして剣術を学ぶようになった頃からずっと、自身は王にふさわしくないと思っていたからだ。
書類の山を前にして執務をこなすよりも、剣を振るっているほうが性に合っていた。
違法な集団が出たと聞けばこっそりと城を抜け出して討伐する。そんな生活を送っていた彼は、自らを王になってはいけない人間だと思っていた。もしも王になれば、近隣諸国を侵略し、戦争を起こそうとするとわかっていたからだ。
「王位は弟に。俺は騎士になります」
成人すれば王太子に任命され、王の補佐として政に携わらなければいけなくなる。そしてゆくゆくは王になってしまう。だからそうなる前にと、アベルは父に――王にそう進言した。
より荒事の多い傭兵のほうが性に合っていると思っていたのだが、さすがにそれは通らないだろうことはわかっていた。だから騎士になると言ったのだが、それすらもアベルには許されなかった。
何かしらの落ち度があるわけではないのだから、王位継承権を放棄させる道理はない。
だが王位継承権を保持したまま臣下に降れば、第一王子なのだからとアベルを担ぎ上げる勢力が現れ、国が割れるかもしれない。
たとえアベル自身が望んでいなくとも、国のあり方として彼の主張は認められなかった。
だからこそアベルは王と話し合い、遠い国で騎士になる道を選んだ。国を去り、もう二度と戻らなければ王位継承権があろうとなかろうと関係ないからと。
そうして流れ着いたのがエリュシアンだ。そしてそこでアベルは騎士になった。
だが第一王子でありながら国を出たアベルに向けられたのは、好奇と侮蔑の眼差しであった。
王にふさわしい器ではなかったからだと、アベル自身が説明したこともそれに拍車をかけた。
王位争いに負けて亡命してきた王族――それが、エリュシアンでアベルが得た立ち位置だった。
とはいえ、アベルは自ら望んだことだと弁明する気はなかった。ただ政に干渉することなく剣を振るえればそれでよかったからだ。
だがアベルの出生国もそうだったが、エリュシアンも平和そのもの。稀に違法な行いをする集団は出るがその程度。
戦争の兆しはなく、王子であった時のようにこっそりと抜け出すわけにもいかず、鍛錬に明け暮れる日々を送っていた。
そんなある日、セシリア・オールディンが投獄された。
セシリアに対して、アベルはこれといった感情を抱いてはいなかった。
城に何度か訪れていたので顔は知っているが、それ以上でも以下でもない。王太子の婚約者だから、将来的には仕えることになるのだろうと思っていただけだ。
だが、元は王族、そして今は国に仕える騎士だからセシリアの処遇について口を挟まずにはいられなかった。
一介の令嬢を虐げた。それが事実なのだとしても、ろくに取り調べもせず地位をはく奪し一般牢に送るほどのことだとは思えなかったからだ。
しかしアベルの進言が聞き入られることはなく、彼もまた一般牢に送られた。
そこにセシリアがいることはわかっていた。だが聞こえてくるのは衣擦れの音と、鞭の振るわれる音だけ。
呻き声一つ聞こえてこないことに、アベルはセシリアに興味を抱いた。
公爵家の一人娘で王太子の婚約者。恵まれた環境にいる彼女はいつだって朗らかに笑っていた。まるで、この世に不幸などないかのように。
そんな愛されて育った令嬢が不当な扱いを受けているのだ。泣きわめいていてもおかしくないのに耐え忍んでいることに気づき、アベルは彼女に対する認識を改めた。
セシリアが城を抜け出し、アベルは自ら彼女の捜索を買って出た。
どうしても連れ戻す――と思っていたわけではない。牢での暮らしを耐えていた彼女が逃げ出すほどに今の生活が耐えられないのなら、それにつき従うつもりだった。
もしも追手がかけられたとしても、気にすることはない。
剣を振るい、他者の命を奪うことこそが自らの本領であると――人を切ることに喜びを見出す自らは王にはふさわしくないと思っていたアベルにとって、それこそ望むところだった。
森の中の屋敷において不健康そうな男と対峙した時も、アベルはためらうことはなかった。
生かしておいても得にはならないだろうと、セシリアが地下にいるという情報を引きだしてすぐ、剣を振るった。
だがセシリアは貴族ではあるが、か弱い令嬢でもある。すぐ近くで人が一人死んだとなれば、気分を悪くするかもしれない。
そう考えて、アベルは「男は逃げた」とセシリアに話した。
悪魔について聞きだしてからにすればよかったと申し訳なく思ったのは、セシリアの綴る文字を感じ取ってからだった。
「私を――俺を、彼女の代わりに」
だからセシリアの代わりになることも、アベルにとってはなんてことのないことだ。
むしろ、望むところなのかもしれない。
アベルは命のやり取りを望んでいるわけではない。ただ剣を振るい、他者の命を奪いたいだけだ。
セシリアと同じ――傷がつくことも血を流すこともない体になれば、アベルはいつまでも戦い続けていられるだろう。
嫌だというように首を振り、背中を叩くセシリアに微笑みかける。
自分は望んで屍になり、セシリアの魂は解放される。誰もが喜ぶ結末が待っているのだから、悪魔の提案を断る理由はどこにもない。
「――来世では幸せに」
今世では呪われてしまったが、呪いを行使した本人は代償を支払ったと悪魔は言っていた。
ならば、来世までセシリアに呪いがつきまとうことはないだろう。
今世では得られなかった幸せをどうか来世で――そうアベルが願うのと同時に、腕を掴んでいた力が抜ける。
糸の切れた操り人形のように床に横たわるセシリアに、アベルは一瞬視線を落としてから悪魔に向き直った。
「代償は、なんだ」
呪いを移すことはアベルの望みだ。それ自体が代償だということはないだろう。
そう思い問いかけると、悪魔は愉快そうに笑った。
『今は使命感に溢れているから気にならなくとも、それが何百年、何千年と続けばどうなるか。それを見るのはとても楽しそうだとは思わないか?』
「……思わないな」
『そうか、それは残念だ。ああ、そうそう……その体はまだ生きている。呪いが動きだすのは体が死んでからだ。いつ屍になるのか――自ら選ぶといい』
そう笑い声を置き去りにして悪魔は消え、物言わぬ――動かない体になったセシリアと、まだ生きているアベル。二人だけが地下に残された。
「ただいま戻りました」
「セシリアは……! セシリアはどこに……!?」
帰り着いた城で、王太子アシュトンと対峙する。
ろくに眠れていないのだろう。くまのできている目元がそれを物語っていた。
「……森に屋敷を見つけましたが、そこはも抜けの空でした。人が生活していた痕跡こそありましたが……見つけられず……」
不健康そうな男は屋敷の庭に埋められている。屋敷を探されれば見つかってしまうだろうが、それはどこの誰で、いつ殺されたのかまではわからないだろう。
そしてセシリアは、同じ敷地内で眠りたくはないだろうと屋敷から離れた地に埋めた。
城に留まりたくなくて逃げ出した彼女のことだ。動かない体になったからといって、戻りたくはないかもしれないと思って。
「そう、か……」
うなだれるアシュトンをアベルはちらりと見る。
きっと彼は、セシリアを探し続けるのだろう。後悔と自責の念が続く限り。
そしてアシュトンの傍らにいる護衛騎士と、セシリアの兄もまた彼女を探し続けることになるのだろう。
それをわかっていながら、アベルは口を閉ざし続けた。
あれから何百年経ったのだろうか。
陽光を受けてきらめく噴水を前にしながらアベルは空を見上げる。
あの後、セシリアが見つからないまま一年が過ぎた頃、アベルは彼女の体を森からオールディン家の者が眠る地に移した。
そしてそれからすぐ、持っていた剣で自らの胸を貫き、動くだけの死体となった。若く健康な体であるほうが都合がいいだろうと考えたからだ。
そうしてからはずっと、戦のある国を転々とし続けた。
だが時代は流れ、剣は廃れ、代わりに重火器が使われるようになり――戦のあり方は変わっていった。
そして次第に、争い自体も減っていった。
元はエリュシアンだった場所は今ではいくつかの国がまとまった別の国になり、その名も変わっている。
かつての広場であり、処刑場でもあった場所は広々とした公園になり、青々と茂る芝生や、大きな噴水があるだけになった。
「平和だな」
行き交う人々の顔には健やかな笑みが広がっている。空から芝生に、そして人々へと視線を移したアベルはそれをなんの気なく眺めていた。
「あ、ごめんなさいー!」
その中から一人、ボールで遊んでいた女の子がアベルのもとにやってくる。転がったボールがアベルの前で止まり、それを追ってきたのだということがわかった。
「はい、どうぞ」
アベルはそれを拾い、女の子に――どこかで見たような赤い髪をした女の子に差し出した。
「――君は今、幸せ?」
きょとんとした顔の女の子が「え、あ、はい。多分……?」と首を傾げるのを見て、アベルは苦笑を浮かべる。
いったい何を聞いているのか、と。
かつて彼女に抱いていたのが忠誠だったのか、恋情だったのか、愛情だったのかは覚えていない。
覚えているのは、自ら望んで死なない体になったことと、それが彼女のためにもなることだったからというだけ。
だからアベルは幸せそうな光景には背を向け、歩き出す。
争いのある国に向けて――それが、自ら望んだことのはずだから。




