『悪魔』
松明の火がゆらめく薄暗い部屋の中に、気づけばそれはいた。いつからいたのか、いつの間に現れたのかもわからない。
本当にいつの間にか、祭壇の後ろ――祭壇を挟む形でセシリアたちと対峙するように、それは立っていた。
『屍など案じたところでどうにもならないだろうに』
響く声は、耳で聞いているようにも、頭の中に直接木霊しているようにも聞こえる。
それが人ではないことはすぐにわかった。
形こそ人と同じだが、黒曜石をはめこんだかのような真っ黒な目に、血の気を感じられない青白い肌。
そして闇に溶け込みそうな黒い髪から飛び出た一対の角。
――悪魔?
とうてい人には思えないそれに、セシリアの唇が声にならない声を形作る。
すると、人ではないそれは肌と同じく青白い唇を歪めた。
『悪魔、か。そうだな、そう呼ばれることもある』
まるでセシリアの心を読んだかのような返答に、アベルが腰に携えていた剣に手をかけた。
それに気づいたセシリアは、慌ててアベルの腕を掴む。
目の前にいるのが悪魔ならば――いや、たとえそうでなくとも、敵う相手ではないかもしれないと思ったからだ。
アベル――だけではない。騎士は人や、場合によっては獣と戦う術を学んではいるが、悪魔などの未知の存在と戦う術を学んだりはしない。
たとえ神話に精通している神父でも、悪魔を打倒する術を知りはしないだろう。
幸い、悪魔はこちらに対して敵意を見せているわけではない。ならば言葉の通じる間は、何もしないのが一番だとセシリアは判断した。
「……どうして、セシリア様にこのような仕打ちを」
アベルもそれをわかっているからか、あるいはセシリアに腕を掴まれたからかは定かではないが、即座に切り込むことはせずに悪魔に問いかけた。
だが敵意を隠す気はないようで、睨み続けている。そんなアベルに対して、悪魔はゆっくりと首を傾げた。
『さて、なんのことやら』
「とぼけるな。お前が悪魔だというのなら、セシリア様がこのような状態になったのはお前のせいだろう」
『人は我が同胞たちをみな悪魔と呼ぶ。そこの屍は、我が同胞によるものだろう』
細い枯れ木のような指がセシリアを指し、セシリアはぐっと唇を噛みしめた。
すでに死んでいる体であると、セシリア自身何度も思っていた。
だがこうして明確に――しかも悪魔に屍と呼ばれるのはこたえるものがあった。
自分は本当にただ動いているだけの死体なのだと、もう二度と未来を夢見ることはできないのだと、突きつけられたからだ。
「ならば……ならば、彼女を生き返らせろ! お前も悪魔ならば、彼女に呪いをかけたように、お前にもどうにかできるのではないか!?」
そんなセシリアの様子に何か気づいたのか、アベルは一瞬沈痛そうな面もちでセシリアを見下ろした後、悪魔に向けて声を張り上げた。
悪魔であるならば、人の理を越えた存在ならば、どうにかできるのではないか。そんなアベルの訴えに、セシリアの胸にわずかな期待が生まれる。
セシリアがこうして動く死体となっているのは、ウェンディ――アマリリスが悪魔に望んだからだ。
人知を超えた現象がセシリアの体には起きている。ならば、止まった心臓を動かし、吐くことのできない息を取り戻すこともできるのではないか――
『屍を元に戻すなどできるはずがないだろう。その屍が動いているのは、魂を縫い留めているからにすぎない。屍となったのが我が同胞の手によるものならばまた違ったかもしれないが、それが死んだのは人の手によるものだろう?』
だが、そんなセシリアの期待はすぐに崩された。
どこか笑いをこらえるように言う悪魔に、セシリアは顔を歪める。
ウェンディは悪魔に望み、セシリアを死に誘い、動く死体にした。
だが、悪魔と契約していたのならセシリアを殺すことなどたやすかっただろう。それなのにどうしてあんな、周囲に嫌われるようにするなどといった回りくどいことをしていたのか。
セシリアに対する嫌がらせ、というのはもちろんあっただろう。だがもしかしたら、悪魔によるものは他の悪魔が対処できてしまうかも、と知っていたからなのかもしれない。
セシリアに一縷の希望すら持たせないようにと、動いていたのかもしれない。
――死んでいるんだって、自分でも何度も思っていたじゃない。
わかりきっていたことだ。首を落とされたあの瞬間から、自分は死んだのだと思っていた。
それなのに、自身に向けられていた深い憎悪や、一瞬でも抱いてしまった期待に泣きたくなるほどの衝動に駆られる。
だが、涙などあの日から一滴たりとも流れはしない。
――ならもう、いっそのこと。
諦めて城に帰れば、また謝罪の毎日が待っている。他の地に行ったとしても、血を流すことなく、成長すらしない体ではいずれおかしいと思われてしまう。
セシリアを知る者が生きている間であれば、なんとかなるだろう。だが何年、何十年、何百年も経てば、どうなるのかわからない。
動く死体――神の御業から外れた存在として、世界中から追われるようになるかもしれない。
そんな自らの境遇を改めて思い知らされ、セシリアが抱いた思いは一つだけだった。
「ならば……彼女を静かに眠らせることはできないのか」
そして、セシリアの思いをくみ取ったかのようにアベルが言う。
『我が同胞の呪いをなくせと?』
「ああ、そうだ」
『それはできないな』
だがそんな、最後の期待すら呆気なく潰え、セシリアは地面に視線を落とした。
『望みを叶えるのなら代償が必要だ。そこの屍に対する代償はすでに支払われている。だからそうだな、どうしてもという話ならば同じように、代償を支払ってもらう必要がある』
「代償、とは……?」
問うアベルにセシリアは嫌な予感を抱いて視線をあげ、愉快そうに笑っている悪魔と剣呑な表情をしているアベルを交互に見る。
悪魔はセシリアを屍と呼んでいる。すでに死んでいるものに、代償が支払えるのだろうか――そんな疑問と共に。
『簡単なことだ。我が同胞の力を消すことはできないが、移すことはできる。だからそうだな……屍の完全なる終息を望むのなら、別の屍になるものが必要だ』
だが、と悪魔は続ける。
『長く待つほど暇ではないのでな。別のものを用意する時間も、悩み迷う時間も与えはしない――さあ、どうする?』
セシリアの代わりになれる者など一人しかいない。
それを知りながら問う悪魔に、アベルの足が一歩、前に進み出た。
――そこまでする必要はないわ。お願いだから、そんなことはやめて。
アベルはセシリアの護衛騎士に任命された。だが、だからといって呪いの身代わりになる義理も道理もないはずだ。
だから必死に、駄目だとアベルの腕に文字を綴る。
声を出せない代わりに指先で、涙を流せない代わりに首を振って。
「セシリア様。ご安心ください」
だがアベルは振り返り、そう言って微笑むだけだった。




