第18話 身分証明書
う、動けねえ。
真っ暗な闇の中で、俺は縄でぐるぐる巻きにされて床に転がされていた。
何だ、此処は何処なんだ。訳が判らない。
すると、何処からかお母さんの声が聞こえてきた。
「ローズマリー、判りますね、母の言う通りですなのですよ、あなたはその様に襲われてしまったのですよ、これで判ってくれますね、母の言うことは間違いが無いのですよ、判りませんか、それではもう一度言いましょうね、ローズマリーは……』
お母さん判りました、もうそれ以上言うのはやめて下さい。お願いします助けて下さい。と俺は必死に謝る。だけどお母さんの声は止まらない。もうやめてくれぇ!
叫び声を上げた途端、目が覚めた。が、動けない、まさか本当に縄でぐるぐる巻きにされているのかと、と不安に思ったが、左側にはドアップのお姉ちゃんの顔があった、その向こうにはお母さん。
何のことはない、俺はお姉ちゃんの抱き枕となっていただけだった。お母さんに抱き枕にされていなかったのは幸いである、もしかしたら今頃は息をしていなかったかも知れないからね。
あんな夢を見てしまったのは、お姉ちゃんの所為だったのか、そんなに強く抱きつかなくても何処にも行かないのに。
いや、夢を見たのは、お姉ちゃんの所為だけじゃ無いよな。お母さんは昨夜似たような事を延々と俺に言っていたんだ。きっと、それも原因のひとつだろう。
昨夜は色々と衝撃的な夜だった。時間が経つにつれ嫌悪感が増してくる気がする。溜息が出そうだ、多分憂鬱ってこんな気分なんだろうな、初めてだよこんな気分は。
だが兎に角、起きて、いつもの様に修練…迄はいかないが、体をほぐさなくちゃ、習慣だからね。
俺はお姉ちゃんが目を覚まさないように、俺にしがみついている手と足をゆっくりと外した。体をずらすようにして抜け出そうとしたら、頭にちくんと痛みが走る。髪がお姉ちゃんの下敷きになってしまっていて、引っ張られていた。全く面倒だなあ。
仕方がないのでゆっくりと髪を引き抜いて、ふうっ、っと人心地。全く、今夜からは寝るときに髪を纏めて貰おう。そうでないと落ち着いて寝れないな。多分髪を切ると言えばお姉ちゃんとかに絶対に反対されそうだから、それは無理だろうしなあ。
窓から光が少し差し込んできているから、日は昇っているのだろう、何時かな?
時計を探すが、この部屋には置いてないみたいだ。この部屋でストレッチは出来ないから、とりあえず部屋のから廊下に出る。
昨日はここに帰ってくる途中でへばってしまったり、ストレッチで少し無理したかなと思ったけど、以外と体が軽く感じる、全然問題はなさそうだ、もっといけるかも知れない。子供の体は回復も早いのだろう、こればかりは有難い。俺が8歳の頃は修練がきつかったけれど、もっと回復が早かったかなと思う。
さて、何処に行こうか、行けるのは、お姉ちゃんの部屋と、ミランダさんの部屋と、ローズマリーの部屋ぐらいか。とは言うものの、お姉ちゃんの部屋しかないよね。
えっと、此処を曲がって、こっちを曲がって、そして此処を曲がれば……あれぇ?変だな、あ、そうか、あそこを曲がれば良いんだ……変だ、おかしい、此処何処だ?待て待て待て、慌てるな、一度戻ってみよう……あれ、お母さんの部屋は何処にいった?
まさか、迷った? そんな馬鹿な、方向感覚は悪くなかった筈なのに、もしかしてこれって体の所為なのだろうか。
ここに居ても仕様がないから、先に行くしかないよな。
どんどんと違う所に来ている気がする。この歳で迷子かよ俺は、これじゃあ見た目と変わらないじゃないか、泣けてくるな。
何処に行けば良いのかも判らずうろうろしていると、廊下の向こうから、詰め襟風な制服っぽい服を来た人がやって来る。げ、男か、20代と云った所だろうか、短い髪で、真面目そうな顔をしている。
「お嬢さん、こんな朝早くから、その様なお姿でどうされました、あ、私はこの城で紋章官と云う仕事をしていますエリックと申します。あの、出来ましたらそんなに怯えないで欲しいのですが」
エリックさんは苦笑いで両の掌を俺に向けて開き、落ち着くように仕草で促しながら、俺の前にしゃがみこむ。
俺は自分が後ずさりしていた事に気付き、現在の自分の格好を思い出した、透けた寝間着を着てたんだっけ、ガウンを着てくれば良かったか。まあ服装はどうでもいいが、いいか、勘違いするなよ、俺は決して昨夜お母さんの言ったことが怖くて後ずさりしたとか云う訳じゃないんだぞ、ただ知らない男に出会ってしまったからだけなんだからな、それだけなんだぞ。
この人は、城で働いている人なのか、所で何と答えよう、ローズマリーを知っている関係者ではなさそうな感じだから、とりあえずは名乗らずにいよう。そして子供っぽく、馬鹿っぽくだな、よしっ。
「あのね、わたしフローラルお姉ちゃんのお部屋にお泊まりをさせて貰っているの、それでね、おしっこに行ったら、お部屋が判らなくなっちゃたの、ねえ、どうしようエリックお兄ちゃん」
ええい、もじもじも追加だ、これなら大丈夫だろう。しかし、1人でトイレに行ったら本当にそうなるかも知れないな。
「そうですか、それは、困ってしましたね、所でフローラルお姉ちゃんとは、フローラル姫の事でしょうか」
俺はこくりと頷く、あくまで子供っぽくだ。
「私は陛下のご家族の方のお部屋は存じませんので、陛下の執務室で宜しければご案内致しましょうか、丁度私も陛下の元へ赴く所だったのです」
おー、渡りに船とはこの事だな。お父さんか、昨日の今日ではちょっと気まずいけれど、仕方がない。俺は再びこくりと頷いた。
「それでは、お嬢さん、お手をどうぞ」
お姉ちゃんと手を繋ぐのはいいけど、男と手を繋ぐのは、どうにも嫌なんだけどなあ。
子供扱いをされてはいるが、お嬢ちゃんとは呼ばなかったからそれは許してやろう。
そうして、お父さんの所に連れて行って貰った。考えてみれば、誰かの後に付いて行くだけだったから、迷子になるなんて思ってもいなかったよ。
「陛下、城内で迷子のお嬢さんを見つけたのですが、どうやらフローラル姫に縁のあるお嬢さんの様で、私ではどうしたら良いのか判りかねる為、一先ずお連れした次第なのですが」
部屋に着いたら、お父さんは机に向かって仕事をしていた、エリックさんが言っていたようにまだ朝早い時間なのだろう、なのにもう仕事をしているのか。
「ローズマリー、その様な姿でどうしたのだ、フローラルは一緒ではないのか、何故迷子になどなったのだ」
俺を見るやいなや、お父さんは立て続けに俺に質問をして来た。名指しだから普通に話していいんだよね。
「えーと、お姉ちゃんとお母さんはまだ寝ていたので、起こさないように1人で部屋から出て、お姉ちゃんの部屋に行こうと思ったら何故か迷ってしまって、すみません、お父さん」
俺は軽く頭を下げる。
「ええっ!こちらのお嬢さんが、ローズマリー姫だったのですか、私は病に臥せっているとお聞きしていたのですが……」
エリックさんは驚愕の表情で俺を見下ろした。この人は当事者ではないのか。
「うむ、まあ見ての通りだ、いろいろとあってな、君もローズマリーの神託については聞き及んでいるな、ゆえにローズマリーは臥せったままにして置かねばならない理由があるのだ。よってこの事は他言無用に願おう」
成る程、俺の事は話さないで、神託を理由に通すつもりなんだな。
「はい、陛下、畏まりました」
エリックさんは一礼をする。
「うむ、君にはローズマリーの身分証明書を作成して貰おうと思っていた所なのだ、ちょうど良い時にローズマリーを拾ってくれたものだと、感謝しているよ。だが、それはそれとして、君はローズマリーの手をいつまで握っているつもりなのかね、その手を離したまえ」
お父さん、エリックさんを睨まないであげてよ、知らなかったんだからさ。
「あっ、これは大変な失礼を致しました、申し訳ありません、ローズマリー姫」
エリックさんは慌てて手を離す。
「あ、別にいいですよ、気にしてませんから」
別に殺意や襲ってくる気配はしてないから、気にならないよ。
と、突然、前触れも無く伯爵夫妻が執務室に入ってきた、どうしたんだ?
「迷子になったそうですねえ、ローズマリー姫、そんな姿で出歩いては襲われてしまいますよ、ねえメリッサ」
朝っぱらからニヤけてる、どうにも楽しそうだな伯爵。エリックさんは伯爵を見て一礼する、知り合いかな。
「はい、とても可愛らしいですね、どうぞ、上に着るようにガウンをお持ちしましたよ」
俺を笑う為か嫌みを言う為に態々夫婦そろって来たのだろうか、お、ガウンだ、態々持ってきてくれたのですか、済みません、助かります、流石に下着一枚と同等じゃあいけないか。
ガウンを受け取った俺はそそくさと着込む。
「さて、ローズマリーが迷子になったおかげで、ゼラニウム達は飛んで来た訳だ、丁度必要な人物が揃った訳だな、私はこの先もしなければならない事が多々あるのでな、早速だがエリック、まずはローズマリーの身分証明書を作成して貰おうか」
「はい、陛下、まずはこちらに署名をお願い致します」
お父さんは渡された紙、いや、皮か、羊皮紙とか云うものだろうか、それに名前を書き込んで行く。
「次はローズマリー姫、こちらにお名前をお書き下さい、あ、こちらです、はい、そうですね、ええ、そこです」
やはり、子供扱いされている……よね。示された場所に名前を書き込んで行く、ええと、くにえ……違う、ローズマリー・フィリアリア・ラーブフェルトっと、まだ名前を捨てきれないかな。
「はい結構です、有難う御座います。それではローズマリー姫、両手を上に向けて開いて頂けますか」
ん?つまりは頂戴のポーズかな?はい頂戴。
「はい結構です、今、紋章を刻印致しますので、そのままで動かないで頂けますか」
エリックさんが俺の開いた両の掌の上に、書き込んだ用紙をひらりと置き、そこに自分の手を添える、紙に触れてはいない。
動かないで待つと、エリックさんの足下に魔法陣が描かれた、あ、見ちゃった。
そして、魔法陣が頭の中で描かれ、呪文が浮かび、それを頭の中で追うと、発動キーが浮かび上がる、昨日と同じ一連の手順だ。ああ、覚えちゃったよ、弱ったなあ、エリックさんに左目が光っているのがバレてないだろうか。
「我、正しき証たる紋章を刻印せし者なり」
「『紋章刻印』」
うん、浮かび上がった呪文と発動キーだった。けれど、今発動キーを口にする迄に少しの間があったのは何故だろう。
そっと、お父さんを伺うと、目を細めて俺を見ていた、あ、やっぱり左目が光ったかも。伯爵は俺を見てニヤけていた、これはいつもか。
エリックさんが手を退け、俺の手の上の紙に目をやると賞状の枠と似たような綺麗な紋様が書き込まれていた。
枠の上部の中央にはさっき見たのと同じ魔法陣が小さく描かれ、その両側には魔法陣に向かって伏せをしている、聖獣グリフィスとやらの横から見たであろうシルエットが描かれていた。折りたたんだ様な翼も見えるな。
そしてその中にさっきお父さんと俺が署名した文字が書かれているだけだった。
そう『フランキンセンス・ライバッハ・ラーブフェルト』と『ローズマリー・フィリアリア・ラーブフェルト』これだけである。
綺麗な枠と署名した名前だけなんで、身分証明書としての役には立たないと思うのだが。
「やはり不思議そうな顔をされていらっしゃいますね、それでは此処の魔法陣を指で触って頂けますか」
エリックさんは笑みを浮かべている、なんか楽しそうだね。俺は小さく描かれた魔法陣に指で触れた。すると、新たな文字と紋章が浮かび上がる。
『カラドゥス王国フランキンセンス・ライバッハ・ラーブフェルト この証を持つ者を、我が娘ローズマリー・フィリアリア・ラーブフェルト第二王女と認めるものである』
となった。そして紋章は背後に剣が2本交差し、正面を向いた聖獣グリフィスが翼を広げお座りをしている感じで、他にも細かい飾りが付いた紋章だった。言っておくが雄々しい姿だからな、猫科だからって『たま』とか思い浮かべちゃ駄目だぞ。
「陛下、ご確認を、お願い致します」
俺から紙を受け取って、お父さんに渡す。お父さんは紋章に手を当て、目を閉じる。
「うむ、確認した」
お父さんは紙をエリックさんに返す。
「ローズマリー姫、ご確認下さい」
今度は俺が紙を手渡され、紋章に触れてみた。
『カラドゥス王国紋章官エリック・エストリード記す』
と頭の中に言葉が響いた。成る程、こうなっているのか、流石は魔法だな、こう云う所は便利だね。ただ魔法自体は発動キーまで判ったとしても、多分使い方をエリックさんに聞かないと使えないと思う。
「はい、エリックさん、確認しました」
「では、次にその証明書をこれに封印して貰おう」
お父さんが机から細い鎖が付いた楕円形の少し大きめなペンダントを取り出した。
「畏まりました」
エリックさんはそれを受け取り楕円形のペンダントヘッドを開いて、丁寧に折りたたんだ身分証明書を収めて、再び閉める。ああ、ロケットだったんだね。
左手で鎖を持ち、右手でロケットを握り、魔法陣を足下に描く、あ、また、見ちゃった。
「我、秘する物を此処に封印す 『封印』」
うん、頭に浮かんだ呪文と発動キーだ。
「ではローズマリー姫、これを握って、封印を解除する為の言葉を頭の中で念じて下さい。あ、他の人に知られるとその人も封印を解除出来てしまいますので、口には出さないで下さい」
エリックさんがチェーンを持って、ロケットを俺に手渡した。そうかパスワードの設定なんだね。
ロケットを握って、『くにえだいっき』と念じる。これで、お父さん達以外には絶対に解除出来ないだろうな、俺って頭良いね。
しかし、2つの魔法をまた覚えてしまった。しかもこの2つの魔法は使い方を知らないと、魔法陣、呪文、発動キーが判っても使えないね。
『封印[シール]』は今の遣り取りで使い方が判ったけど、『紋章刻印[クレスト・スタンプ]』は使い方を聞かないと、ちょっと無理だと思う。
頭の中にある魔法は、名前、魔法陣、呪文、発動キー、それと、簡単な説明だけ、例えば『明かり[ライト]』は『明かりを灯す』これだけだ。
『明かり[ライト]』を使ったときは、ミランダさんに教わって使い、消すときもミランダさんに聞いて消した。つまりは細かい所が判らない。
最初は魔法にちょっと興味があったから使ってみただけだが、今のこの体では魔法を使えるようにしておく事も必要だと思える。実際にマユリには使うことになってしまった訳だしね。
とりあえず後で魔導書を読んでみよう、ゴルディア隊長が使っていた速く走れる魔法も気になるし、あの魔法は俺の頭には無い魔法だった、あれが使えれば、いくらかはマシかも知れない。
その後、今度はアロマ・フレグランスとしての身分証明書を作ってもらった。これがあれば安心して外も出歩ける様になる訳だ。
文面は「ゼラニウム・グローリア・フレグランス伯爵並びにメリッサ・ローランド・フレグランス伯爵夫人 この証を持つ者を、伯爵家息女アロマ・ローランド・フレグランスと認めるものである」となっている。
枠と紋章はフレグランスの物が使われているそうだ。エリックさんは全部覚えているのだろうか。
こっちは封印はしないで伯爵が預かることになった。俺が持って歩くと落っことすからと云うのが理由だそうだ、必要な時には従者に預けてくれるとのことだが、それじゃあ1人では出歩けないか、余り世話を焼いて貰うのも気が引けるんだがなあ、まあ、とりあえず出歩けるだけでも良としよう。
お父さんや貴族がお城で書類を作る時には必ず立ち会いをしなければいけないそうで、伯爵夫妻が此処に泊まったのはその為だったみたいだな。
身分証明書にはアロマ・ローランド・フレグランスとなっているが、普段はアロマ・フレグランスでいいそうで、王族以外の貴族は真ん中を略しても良いんだそうだ。
ローランドって事は、ラドックさん孫になるんだよな、お葬式行かなくちゃな。それにしても、つながりがなんか複雑になってきたな。まあ、俺がどうこう言える問題ではないから、仕方が無い訳だけどね。
伯爵夫妻にお姉ちゃんの部屋に送って貰うことになり、お父さんの執務室を後にする。今度はメリッサさんとお手々を繋いでいます、にこにこと嬉しそうです。
その途中で俺は気になっていたことを聞いた。
「ねえ伯爵、お父さんが飛んできたって言っていたけど、もしかして、迷っていた俺を誰かがつけて来ていたのかな」
「陛下は余計な事を言いますねえ、そうですよ、ちゃんと後をつけさせていましたよ」
道理でガウンを持ってきてくれた訳だ。
しかし、気付かなかったよ、方向感覚と一緒にこれも取り戻さないといけないな。やっぱり体の所為だと思う、そうなると、俺が体で覚えた技も使えなくなっている可能性も高い、最初からやり直しかなあ、修練の仕方を覚えているだけでもマシか。
「なんで、そんな事をしたんですか、だったら迷った時に教えてくれれば良かったのに」
「それはですねえ、その方が楽しいからですよ、段々と泣きそうな顔になっていったそうですねえ」
ただでさえニヤけている顔が、更にニヤける。くっ、本当に俺は泣きそうな顔をしてたのか。畜生、俺で遊びやがって。
お姉ちゃんの部屋の扉を開けて中に入ると、そこには腰に両手の甲を当て、眦を吊り上げたお姉ちゃんが、俺を睥睨していた。




