第1話 瀬戸内の異変
潮騒が、ざわめきを止めた。
下限の月がやんわりと海を照らす厳島神社。朱の大鳥居は潮に浸かり、まるでこの世とあの世の境界を示す門のように、黒く揺れる海面に浮かんでいる。波は穏やかなはずなのに、どこか呼吸をしているかのように、不規則にうねっていた。参道には、誰の気配もない。風すら、遠慮するように止んでいる。白く、重く、音もなく。海霧だけが濃く、鳥居の向こう側から、ゆっくりと、確実に“何か”がこちらへ忍び寄っていた。
「やはり、月の輝きがいつもと違う。海からは奇妙な気配。念のため、皆に集まってもらっておいて良かった。月龍も備えを。」
結城綾の声は小さかったが、夜の底に落ちるように響いた。次の瞬間、彼女の背後に、音もなく“それ”は現れた。月光を受けて輪郭を結ぶ、巨大な影。細く鋭い瞳が開き、海を見下ろす。月龍。その瞳が、わずかに細められた。
「来る!」
綾が叫ぶと同時に、
ドンッ
海面が、爆ぜた。静寂を引き裂くように、黒い水柱が夜空へと噴き上がる。水だけではない。濁った“何か”が、意思を持つようにうねりながら立ち上がる。
そして、その内側から、
ギィ…ガチャガチャ…
甲冑が擦れるような、錆びついたような音がし始めた。しばらくして、音とともに、水柱の中からゆっくりと、腕が突き出される。腐りかけた指が、空を掴む。続いて、頭部。割れた兜の奥、闇に沈んだ顔。その目だけが、じわりと光を帯びる。
<亡者>
かつて海に沈んだ兵たちの成れの果て。濡れた布が身体に貼りつき、滴る水が海に落ちるたび、ぴちゃり、ぴちゃりと不気味な音を立てる。一体、また一体と水柱の奥から、這い出してくる。そのたびに、空気が重くなる。潮の匂いに混じって、腐臭が漂い始めた。大鳥居を通りすぎ、神社の桟橋に迫ってくる。
綾が一歩、前へ出た。その足元で、波がわずかに揺れ、月龍が、低く唸る。夜の海が、穏やかな眠りから覚めつつある瞬間だった。
「相も変わらず、続々と湧いて出るもんだ。」
御影悠幻が札を構えつつ冷静に反応する。
「ま、夜の宴にはちょっとした見世物だな。」
「悠長なこと言ってる場合かよ!」
神田剛志が大きな体で巨大な金剛槌を肩に担ぎ、前に出た。隣で大狼が牙をむく。
「まとめてぶっ飛ばしてやる!」
「待って!」
白峰咲紀が扇を広げる。白鴉が背後に現れ、炎の輪を描く。
「剛志、突っ込みすぎないで。まずは結界で動きを止めるわ。」
「賛成。いつも突っ込んで怪我するのに、相変わらず何も学んでないではないか。いつまでも脳筋じゃ身体が持たんぞ。」
氷川静の低い声が響く。白蛇が彼女の肩から右手に絡みつき、鎌首をもたげた。
「ここは綾を中心に。無駄な力は使わない方がいいわ。剛志さん、少し下がって。」
「決まりだな。」
「おっ、おう。皆から言われりゃ仕方ねぇ。」
綾は仲間を見回した。皆の目つきが変わったのがわかると、少し安心と頼もしさを覚えつつ、右手を前に差し出して、厳かに言った。
「月に輝け、神器、蒼嶺。」
そう言うと、右手の上にどこからともなく無数の光の粒が現れる。やがて収束すると、青白い光を放つ刃渡り3尺はあろう細長い刀が姿を現した。
「私が先陣を切る。合わせて!」
仲間たちは頷き、自然と布陣を取る。剛志が前衛、悠幻と静が左右、美咲が後衛で結界を維持。綾は中央に立つ。次の瞬間。
「月龍!力を!」
綾の剣が淡い蒼光を放ち、海へ振り下ろされた。月龍の咆哮が空を裂き、蒼い奔流が波を薙ぐ。妖の群れは一瞬で吹き飛び、潮が轟音と共に弾ける。
「よっしゃあ!一撃だ!」
剛志が豪快に笑う。
「調子に乗らないの。」
咲紀が少し諭すように言い、白鴉が上空を舞いながら結界を強化する。
「まだ来るわよ、気を抜かないで。気配が消えてない。」
静が目を細め、白蛇の舌が不気味に揺れる。
「俺の札がざわついてやがる。嫌な感じだ。」
悠幻が札を握る手を見下ろし、顔をしかめた。その時、大鳥居の向こう、海霧の奥から低い振動が響いた。海面がうねり、潮が逆巻き、巨大な影が大量の海水とゆっくり立ち上がる。
「なんだ、あれは。」
剛志の笑みが消えた。




