第一夢
第一夢
エースの牧瀬威一郎がフットサルで点が取れなくなってから七試合目の試合中、ベンチに悲しげな視線を送ってきた。九月末とはいえまだうだる暑さの残る気候に空気のこもった体育館。白いユニホームは汗だくである。
「もうダメだ。疲れた。代えてくれ」
誰が見てもそんな風に読みとれる顔をしている。僕と同い年の四十代後半のはずだが、元気も溌剌さも全く見られない。
キーパーを兼任しているキャプテン・徳本元さんの判断は早かった。五十半ばに相応しいグレーの髪だが、今日の牧瀬より若く見えてしまう。
その徳本さんがベンチに視線を向けると両手をくるくるさせ交代の指示を出す。指示される相手はベンチにいる僕ではないことは分かっている。案の定、一時的にベンチへ退いていた牧瀬と同じポジションであるピヴォ(サッカーでいうフォワードのことだ)を主に担当する、四十になったばかりの比較的若い蓮田謙二郎が準備を急ピッチで終えた。
ボールがサイドラインを割った。プレーが切れる。交代。
視線を大きな肩とともに落としていた牧瀬が蓮田の背中を力弱く叩き、ベンチにフラフラと戻ってきたのが少し気になったが、一点差で負けている緊迫した試合展開である。僕と同じベンチの控えや二階席のスタンドで応援する人の熱視線はピッチに送られた。両チームのコーチングの声と声援が体育館の高い天井に反響する。体育館は平成の後半に建て替えられたまだまだ新しい施設で、更衣室はもちろん、シャワーつきの大浴場、二階席スタンドに空調完備となかなか豪華な設備である。
蓮田にはその後一度もシュートチャンスは訪れず、試合はそのままのスコアでタイムアップとなった。牧瀬が出ている間、牧瀬に三回はゴールの決定機があったと思う。牧瀬は三回とも外した。人一倍真面目な牧瀬は一人で責任を背負いこみ、まるで敗戦のA級戦犯はこの俺一人だとばかりに落ち込んでいる。
「牧瀬、下を向くなよ。おまえさん、去年も一昨年も普通にゴールを決めてたじゃないか」
そう話しかけたのは徳本さんだった。
「…すいません。本当に仲間に申し訳が…」
いいんだ、いいんだそんなこと。徳本さんが話を途中で遮った。
「たかだか地域のアマチュアチーム対抗フットサル大会じゃないか。そんなことで落ち込みなさんな」
「…」
人一倍涙もろい激情家の牧瀬は泣いているらしく、肩を震わせている。フットサル大会の会場となっている賑やかな体育館がまるで国葬が行われている武道館のような雰囲気である。
「ヒトマロ頼む、特訓してくれ」
涙声で牧瀬がいった。
この試合が終わり、お昼を跨ぐフットサル大会はランチ休憩に入っている。
僕は柿本というが誰もそんな名字で僕を呼ばない。柿本人麻呂に因んでいつどこで誰がいいだしたのかヒトマロと呼ばれている。初めて会う人には大体「柿本人麻呂の柿本ですか」と返されいちいち面倒くさい。
ヒトマロ。あまり好きなあだ名ではないが、断るのもこれまた面倒くさい。そのまま僕は、和歌を詠むことのないヒトマロとみんなに呼ばれてここまで生きている。
「いいけど…メシ食わなくていいのか?」
「メシより俺には練習が必要だ。努力は決して裏切らない」
横で水筒のお茶を飲みながら黙って聞いていた徳本さんが俺も手伝うよ、といった。
小一時間のお昼休みの間コートは開放され、誰が自由に使ってもいいことになっていた。
徳本さんと僕がゴールマウスを挟んで左右に分かれ、真ん中のペナルティエリアギリギリに立っている牧瀬に向かってパスを送る。なぜか僕も徳本さんも同じスピードで地を這うリニアモーターカーのごとく速いグラウンダーのパスを、左右こそ違えど入れ替わりにゴール前の牧瀬を目掛けてボールを次々と蹴り出した。牧瀬はさっきの試合では、フリーでいながらこんなスピードのパスを一回は空振り、一回はゴールマウスの外、一回はゴールマウスの遥かに上、俗にいう宇宙開発といったバラエティに富むシュートの外しっぷりだったのだ。
低いパスなのだからそのままゴールに蹴りこめばいいところを、牧瀬といえばわざわざ弾道に合わせてダイビングして頭に当てている。牧瀬は百八十七センチの身長を誇る巨人だが、背の高さに関係ないヘディングシュートは全てゴールに入っていた。頭に当たると同時に牧瀬はボールの行方には目もくれず、驚異的なスピードで立ち上がって元いた位置へ戻り、次のパスを待つのを繰り返す。
不思議なことに僕と徳本さんには交互に蹴ると新たなボールがコロコロと後方から転がってきては丁度僕らの足元にセットされる。二回目にボールが僕の足元にオートマチックに転がってきた時さすがにどういうことか分からなかったので、僕はボールが転がってくる先を見た。すると体育館の下部から僕と徳本さんの二手に分かれて各々に向かって、ボウリング場のボールのように無尽蔵にボールがベルトコンベアに乗っているかのごとくゆるゆると自動的に転がってきていた。
僕も恐らく徳本さんも、そして牧瀬もこんな千本ノックならぬ千本ダイビングヘッドの特訓になるとは思ってもいなかっただろう。
しかし僕を含め誰一人として息一つ上がることなくボールを蹴り続けては、牧瀬がダイビングヘッドを繰り返していた。そして肝心なことだが、ダイビングヘッドのシュートは全て寸分違わずゴールに吸い込まれていた。
×
「そんな夢を見たのか」
牧瀬と試合前の簡単なストレッチをしながら僕の話を聞いていた。
試合を追うごとにゴールできない牧瀬はどんどんナーバスになっていった。自然と僕も周りも話しかけづらくなっていく。正直、僕は数試合あればさすがにどこかで決めるだろう、と甘く考えていた。
意を決し、ようやく牧瀬を捕まえ、こうして話ができたのはリーグ戦最後の試合前。体育館内のピッチでは別のチーム同士のゲームをやっている間だった。
ここんとこずーっとチャンスは来るのに俺は点取ってないんだよな…と牧瀬はゲームを見ながら、独り言のように呟く。
「でも夢のお告げはあった。次は取れるよ」
僕は牧瀬にしてみればまるで根拠のないエールを送った。
「俺が次から次へと向かってくるボールをダイビングヘッドしたって? 俺がヘディング苦手なのを知っているだろう。頭でなくてもいいんだろ?」
苦笑している牧瀬は背だけは高いがヘディングが苦手なのだ。仮に背が高いからといってみんながみんなヘディングが得意だとは限らない。逆もしかり。かつてチリ代表でヘリコプターといわれたサモラーノという選手は一七八センチと低くもないが決して高くもない身長ながら、滞空時間の長さと駆け引きの巧みさでヘディングでのゴールを量産した。要は背比べで勝つ類のヘディングはまれで、ポジショニングと事前の駆け引き…飛ぶ時間とスペースをビールに合わせて瞬時に判断する…が肝なのだ。
「だから、同じようなシーンが必ず来るから頭じゃなくてもいいからさ、身体ごと投げ出すようにゴールに突っ込んでみろよ。狙うんじゃなくてボールへ身体ごと投げ出してどこかに当てるんだ。そういう感覚でやってみなよ」
改めて僕はいった。
身体ごとねえ…牧瀬が反芻する。
そう。身体ごとでいいよ。
僕の言葉が牧瀬の背中に届いたかどうかは知らないが、一瞬だけ考えて深く頷いた牧瀬を信じることにした。チャンスは必ず来るはずだ。
この大会は老若男女が楽しくボールを蹴れることを考え、通常とは違い六分ハーフの前後半で行われる。アディショナルタイムもそこまで厳格には取らないし、第一、主審しかいない。その主審も各チームから一人ずつ出している運営委員が兼務していて、「そこそこに決まりのあるお遊び」がこの大会の難易度設定といってもいいのかもしれない。
しかし、主催者の思惑とは異なり、各チームともに本気と書いてガチなレベルで各試合は行われていた。パスをもらって数秒も考えられる余裕はない。一秒もすれば相手に体を寄せられボールを奪われてしまう。一つ一つのプレーに歓声と罵声が飛び、到底エンジョイなどできる空気ではない。相手チームはプレスをするための走りを緩めると速攻で名前を呼ばれ「サボってないで守れ!」といわれる。このノリの大会でそこまでいわれる必然性はあるのだろうか。
だが我がチーム、パルムドールは緩い。「怪我のなきよう」だけが合言葉。楽しむことが一番、というキャプテンの徳本さんの方針は、発足当時から代々このサークルに受け継がれていて、真剣にはやるが成績は二の次といういい意味で気楽な環境だった。楽しく汗をかければいいじゃないか、そういう温くはないが温かい考えが我がチームのベースにある。だから僕も入って十年以上にもなるが、ゴールは一度きり。それもついさっき、今日最初の予選リーグ戦でのことだった。こんな下手な部類の僕にもみんなは優しい。メンバー募集の貼り紙だけを頼りにここに入ったので最初は怖かったが、すんなりと徳本さんをはじめみんなに溶け込めた。だから長くここで続けてこられたのだと思う。
次の試合の相手はべかこ組といって毎回大会の表彰台に登る常連の強豪だ。べかこというのはチームのキャプテンが落語家の桂南光にあまりにもそっくりで、南光の昔の高座名に由来しているからである。
お気楽極楽気分の我が軍は格上のべかこ組相手にほとんどボールを触ることができなかった。当然のように僕は控えでベンチにいたが、作戦司令官も兼ねる徳本さんのアイデアでマンツーマンに近いマークが効いて前半と後半の大半を乗り切り、試合終了間際までスコアレスで持ち堪えていた。
この試合、引き分けにはできそうだ、相手を考えると上出来だ。
やや他人事に考えていたら、最後の最後にいきなり出番がきた。突然足の違和感を覚えた同じポジションのレギュラーである葉月太郎さんが交代を要請したのだ。いつものように朝寝坊して現れたからか準備運動が不足していたのかもしれない。あるいは徳本さんと同い年で疲れが出たか。ともかく少し足を引きずり加減で牧瀬とは少し違う岩のようなガタイの葉月さんと交代。肩で息をしている。相当マンマークで消耗したのだろう。
正確な時間は分からなかったが残り一分もないだろう。少々アディショナルタイムがあるかどうか。
「ヒトマロ、プレスね! 前から行こう!」
ピッチに入ったら徳本さんの声がした。プレスとは平たくいえばボールを持った相手のできるだけ近くでディフェンスをし、圧力をかけることだ。
レギュラーの葉月さんと控えの僕の担当するフィクソというポジションは後ろ、サッカーでいうディフェンダーが定位置だが今は状況が違う。僕は我がチームの一番フレッシュな状態で試合に入る。強豪に今更点を取られ負けだけはしないようになりふり構わず向かっていけ、ということだろう。ここは出し惜しみせず走りまくってボールを持った相手に圧をかけよう。
そう思いかけた矢先である。
相手はいわゆるスッポンのような我が軍の密着マンマークに業を煮やし、左サイドの中盤までプレッシャーをかけ降りてきた牧瀬に対峙することなく緩いドリブルだけはさせているのでシュートゾーンまで行き、足を使うスポーツだが手詰まりになり焦って仕方なく弱いシュートを打つ。
ふと見ると右サイドにスペースがポッカリ空いた。瞬間何かが匂った僕は、徳本さんの指示とは逆にゴール前から体力を使い切るつもりでマークを外した。全力で駆け上がった。作戦にとらわれず臨機応変。ここは一発を狙ってもいいだろう。
余裕で処理した徳本さんはしっかり僕を見ていてくれていた。まるでハンドボールのゴール前かというような鋭い球を敵陣右サイドに一瞬フリーで走っていた僕に素早くライナーで投げてきた。さっきまでマークしていた相手は一瞬僕を離したが、あっという間に僕に距離を詰めてくる。僕は普通の体格でテクニックもないので相手を交わせる自信がない。慌てて振り向き胸トラップでボールを足元に落とす。もう一瞬たりとも余裕がない。僕は咄嗟に再度身体の向きを変え一歩ドリブルで前進し、刹那のそれで思い切り相手ゴールに目掛けてシュートだか右クロスだかすら意図せず右足を振り抜いた。ここでボールを取られるくらいなら相手キーパーにくれてやる方がまだ自軍の守備の態勢は整うだろう。
すると、背後から徳本さんの意外な声が響いた。
「いいボールだ!」
見ると左サイドから赤いマントを目掛けて突っ込んでくる闘牛のごとく、牧瀬が猛烈な勢いで切りこんでゴール前へ迫っている。
牧瀬は見事に自分のいったことを忘れていた。咄嗟に出てしまったのだろう。頭から身体ごと投げ出し角度を変える感じで、僕のやけっぱちで往年の中田英寿のパスとは違う意味な思いやりの欠片も特に大きな意図もないスピードのあるシュート、もとい右クロスに合わせるべく足ではなく頭を目一杯伸ばしていた。
ボールはワンバウンドして丁度牧瀬の頭をかすめるように当たり、クロスボールはシュートとなって敵キーパーが反応できなかった肩越しにゴールへ突き刺さっていた。
足を出す、といったのに結局頭かい!
不思議な夢のお告げ通りではあった。とはいえ、どこか釈然としない。
まあ決まったからいいか。時間帯からいって勝ったようなもんだし。
この試合でアラ(中盤)に一時的に下がっていたチームでは若手の蓮田が駆け寄って牧瀬を起こすなりハイタッチしている。自軍ベンチは大歓声だ。信じられない。応援席でサッカーボールで遊んでいた子供も、応援に来てた徳本さんのお友達という両親とともに大はしゃぎ。退いてベンチに座りこんだはずの葉月さんまでもがスタンディングオベーションだ。
直後、主審の笛が鳴った。あれがラストプレーだったのか。ジャイアントキリング。大番狂わせである。
試合後の両チーム並んでの挨拶を終えると、ベンチにいた控えも含めたみんなが牧瀬に駆け寄っていった。
「少しは借りを返せたかな」
喜びの輪が一旦解かれ、ベンチで牧瀬は泣くかと思っていたのだが思いの外冷静で、締めが甘い蛇口から出る一滴の水のようにポツリと呟いた。
「大丈夫だよ、第一何も貸してねーし」
僕はそういって笑った。
「すごい右クロスだったな」徳本さんが肩を叩いてアシストした僕を褒める。
「いや、ホント、テキトーテキトー。高田純次なクロスですから」
コントロールできるプロなんかになると、右クロスでもシュートを打つつもりで右足を振り抜く感覚だというだろう。
「いやJ1とかそういうレベルじゃね?」
蓮田がいう。彼は人懐っこい。歳上でも平気で時折タメ口になるが全然ムカつかない。人徳だろう。
「すっげえピンポイントで高速クロスが右から入って、最後ダイビングヘッドだもんなー、これだけでビール三杯くらいいけますよ」
「俺はいい加減腹が減った」
そういえば牧瀬は昼休みの時間、一人でシュート練習をしていて、食事をしていなかった。
牧瀬の決勝ゴールでいいお酒が飲める。僕も打ち上げが待ち遠しかった。
「まあ最後の試合、いい形でスーパーゴールでの勝利で終われたし、閉会式が終わったら時間も早いし池袋にでも打ち上げへ行きますか」
徳本さんは二つのリーグ戦一位同士で争う決勝戦には残れなかったものの、最後の試合を勝利で終われて満面の笑顔だった。何より牧瀬が笑っている。我がチームは葉月さんが怪我になりかけてたが結局大事には至らなかったようだから、今日も怪我人なし。大成功である。
この大会は例年朝が早い。八時にはリーグ戦が始まる。だから葉月さんがちょいちょい遅れて来る。十一時半から小一時間昼休みを挟むが進行が早く、午後一時にはもう決勝戦だ。閉会式は全チームがピッチ上に一列に並び、クールダウンの体操をみんなで行う。その後毎年年長者の徳本さんが進行役となり、彼の独壇場となる。全体の講評といい各賞(優勝チームと最優秀選手賞) といい空気を絶妙に掴むギャグを繰り出し和ませる。それでも二時少し前には着替えてお開きになるのだ。
「それではベストゴール賞です。利き足は右ではなく頭でした。手前味噌ですが審判員と運営の満場一致です。我がチームパルムドールが対べかこ組で決めた牧瀬威一郎選手のダイビングヘッドのゴールですっ」
背の順でもないのにいつも列は最後尾にいる牧瀬が恥ずかしそうに立ち上がり前方へ歩いていく。満場の拍手の中、なんだか分からない記念品的なトロフィーを徳本さんから受け取っていた。
散会後シャワーを各自で浴びて、ロッカールームで着替え、僕はなんとなくロビーのようなところでみんなが来るのを待った。
待ち合わせ場所の体育館ロビーでも必然というか牧瀬の「あのゴール」の話は続いていた。あそこだけ切り取ればJ1どころかプレミアリーグやブンデスリーガといってもいいような難易度だからそうなるだろう。
牧瀬は試合前の表情とはあの一点をきっかけに一転していた。怪我をせず笑顔が見られれば我が軍はそれでいいのだ。