14. 分水嶺
開店準備を終えたばかりの午前。薬屋の扉が激しく叩かれた。
現れたのは、青い制服に身を包んだファミル族の男性だった。その胸元には、ゲリス最大の医療機関である「サーベンス医局」の紋章が刻まれている。
マーヤは以前、街の噂でガーベラとサーベンス医局の仲が極めて悪いことを耳にしていた。
「ガーベラさんはいるか! 応援を頼みたい!」
男の悲痛な叫びに、奥の作業部屋からガーベラが姿を現した。彼女の表情は氷のように冷淡だったが、男の言葉を聞くや否や、その瞳に鋭い光が宿った。
「港に氷狼が出没した。すでに憲兵隊が応戦しているが、負傷者が多すぎる。医局の人間だけでは手が足りないんだ!」
氷狼――。本来はこの付近には生息していないはずの、強力な魔物である。ガーベラは一瞬の迷いも見せず、マーヤに指示を飛ばした。
「マーヤ、あなたは彼について行って先に向かってください。そこで負傷者の応急処置を。私は薬を多めに調合してから、後で合流します。」
「はい、師匠!」
マーヤは救急鞄を掴み、サーベンス医局の職員の後に続いた。背後でガーベラが膨大な量の薬草を取り出す気配を感じながら、マーヤは全力で港へと駆け出した。
港に到着したマーヤの目に飛び込んできたのは、凄惨な光景だった。潮の香りは血の匂いにかき消され、至る所に氷の礫が突き刺さっている。巨大な帆船が並ぶ穏やかだった港は、今や阿鼻叫喚の戦場と化していた。
「こちらです! 早く!」
案内された仮設テントの中には、すでに大勢の負傷者が横たわっていた。憲兵たちの多くは、氷狼が放つ氷の魔法によって深く鋭い切り傷を負っている。マーヤは震える手を押さえ、必死に母から教わった治癒魔法をかけ始めた。
しかしマーヤは港で働いている友人のことが気が気でならなかった。
ユウト……ユウトは無事なの!?
この港には、ユウトが働く沖仲仕組織トロムソの杉の拠点がある。彼は魔法を使えないキンミ族だ。もし氷狼に遭遇すれば、ひとたまりもない。不安が胸を締め付けるが、目の前の命を救うことが今の自分の仕事だと割り切るしかなかった。
一方その頃、ユウトはトロムソの杉の仲間と共に、古びた宿舎に避難していた。数時間前、氷狼出現の知らせが届いた際、リーダーのゴリウが迅速に避難命令を出したのだ。
「おの、ゴリウさん。氷狼ってそんなにやばいんですか?」
ユウトの問いに、ゴリウは苦い顔で頷いた。
「ああ。奴らはこの辺りの魔物とは格が違う。本来は東の山脈にいるはずのバケモノだ。おそらく、荷物に紛れ込んで来ちまったんだろう。」
避難所の窓から外を伺うと、憲兵隊が盾を並べて防衛線を築いているのが見えた。
しかし、戦況は最悪だった。氷狼は三匹。彼らが操る水系の氷魔法に対し、同じく水系魔法を操るホルミ族の憲兵たちは相性が悪かった。どちらも水属性のため、魔法の決定打を与えられずにいたのだ。憲兵たちの盾が、氷狼の突進によって次々と砕かれていく。
俺ならもしかしたら、あのバケモノに敵うかもしれない。
ユウトはそう思った。そう確信できるだけの理由が、穏やかな日常の裏側にこびりついていた。
「ユウト! どこへ行く!」
ゴリウの制止を振り切り、ユウトは宿舎を飛び出した。
戦場の中心へと走り出るユウトの姿は、憲兵たちの目には狂気の沙汰と映った。
「キンミ族は危ないから下がってろ!」
との指揮官の叫びを無視し、ユウトは三匹の氷狼の前に立ち塞がった。
ユウトは手を前にかざし、イメージを固める。
「水よ、出てよ! ウォーターボール!」
ユウトの手から放たれた三つの水の玉が、正確に氷狼たちに着弾した。
憲兵たちは目を見開いた。魔法を発動する前に呪文を唱えたことに驚愕したのだ。通常、魔術師は杖を使って魔法を放つ。そしてさらに驚愕したのはキンミ族が魔法を使ったことだ。
しかし、同属性の攻撃は氷狼にほとんどダメージを与えなかった。氷狼の一匹がユウトへ飛びかかる。ユウトはそれを軽いステップでかわした。
もっと強く……全てを巻き込むような奔流を!
「全てを巻き上げろ! ウォーターブリザード!」
ユウトの両手から巨大な水の竜巻が立ち昇り、三匹の氷狼を飲み込んだ。
その巨大な水柱を、憲兵も周囲を囲んでいた野次馬も呆然と眺めていた。こんな大きな魔法は、誰も見たことがなかった。
竜巻が消え、叩きつけられた氷狼たちは怪我を負っていたが、まだ致命傷には至っていなかった。
「火を放て!」
憲兵のリーダーが叫び、一斉に松明が投げ込まれる。氷狼は火に怯え、後ずさった。
「そうか。火が効くのか。」
ユウトは確信した。自分の中には、一種類ではない、あらゆる属性を操る力が眠っていることを。彼は再度右手を前に向け、叫んだ。
「全てを燃やし尽くせ! ファイヤートルネード!!」
直後、港を巨大な火柱が焼き尽くした。渦巻く炎は氷狼たちを包み込み、一瞬にして黒焦げに変えていく。その圧倒的な火力を見た人々の目は、尊敬から恐怖へと変わった。
魔法が止むと、完全に動かなくなった氷狼が三匹、地面に転がった。
「やった! 勝った!」
とユウトは喜んだ。しかし、周囲の憲兵たちはこの世ならざるものを見る目で彼を見ていた。野次馬たちはさっきよりも遠くへ逃げ出していた。
そこへ、人混みを突っ切るように二人の男が現れた。
「なんだ〜、もう倒されちまったのかよ。俺の出番がねぇじゃねえか。」
一人の男が傲岸不遜に言い放った。
「ジェクト様。民の被害が最小限に抑えられただけ良かったということです。」
もう一人の男がそうつぶやく。
「ジ、ジェクト様!お助け下さい!」
憲兵のリーダーが一人の男に向かって懇願した。
「なんだ?氷狼は丸焦げになったじゃねぇか。何からお前を助けるんだ?そういやさっきの火柱は凄かったな!あの魔法を使ったドーラ族はどこに行ったんだ?」
ジェクトは辺りを見回しながら聞く。
「ジェクト様、あの魔法を使ったのはあそこにいるキンミ族でございます。」
と憲兵のリーダーはユウトを指さしながら言った。
「キンミ族だと……」
「しかもあのキンミ族、水魔法も使っておりました。」
「は!?それは本当か!?」
「はい、ここにいる憲兵たちや周りで見ていた民たちも見ております。」
「ということは、あいつは……」
「はい、混血かと…」
報告を受けたジェクトは、殺気を含んだ足取りでユウトに近づいた。ユウトはその気迫に怯え、身を竦めた。
その時、人混みをかき分けてピンク髪の少女が駆け込んできた。
「ユウト! さっき大きな火柱が立っていたけど大丈夫?」
仮設テントでの仕事を終えたマーヤが駆け込んできたのだ。彼女は周囲の異様な空気も構わず、ユウトの前に座り込んだ。
「ファミル族の嬢ちゃん、ちょっといいかな。そこにいるキンミ族と話したいんだ。」
ジェクトは優しく、しかし有無を言わさぬ口調でマーヤに話しかける。
「何の用ですか。あなたは誰ですか。」
マーヤはジェクトを警戒していた。それに対しジェクトはこう言った。
「俺はベルモンド家の一番槍、ジェクトだ。」
マーヤはベルモンド家の一番槍という言葉に聞き覚えがあった。この街の領主であるベルモンド家直属の精鋭部隊で、護衛としてだけでなく、暗殺も行っているという黒い噂を聞いたことがあった。
そしてジェクトは告げた。
「火柱の魔法を使ったのは、そこにいるキンミ族だよ。」
「えっ……そうなの? ユウト。」
マーヤは驚いてユウトを見た。ユウトは下を向きながら、こくりと頷いた。 マーヤの全身に戦慄が走った。さらにジェクトは追い討ちをかける。
「彼は水の魔法も使っていた。それが何を意味するか分かるだろう?」
マーヤの脳裏に、幼い頃から聞かされてきた教えが響く。異なる属性を混ぜることは神から頂いた血を薄める行為であり、忌み嫌われるべきことなのだと。
ユウトはマーヤが震えていることに気づき、優しく肩に手を置こうとした。しかし、マーヤはその手を反射的に振り払った。
「……っ!」
マーヤは震えながら、後ずさりをした。まるで未知の恐怖から逃げるように。
その隙を逃さず、憲兵の盾部隊がユウトを幾重にも取り囲んだ。マーヤは憲兵の一人によって包囲網の外へと出された。
捕まる……!
ユウトは本能的に察知した。彼は盾と盾の間に一瞬だけできた隙間を狙い、風のように駆け出した。ユウトは包囲網を突破し人混みへと消えていった。
「おい! 逃げたぞ! 追え!」
憲兵たちがユウトを追って人混みへと消えていく。
「ベクター、ベルモンド様にこのことを伝えて増援を頼め。」
ジェクトは後ろに控える男にそういった。ベクターと呼ばれた男は「はっ」と返事をし、ユウトの逃げた方とは逆側に走り出した。
現場には、呆然と地面を見つめたまま魂が抜けたように座り込むマーヤとジェクトだけが残された。
ジェクトはマーヤにゆっくりと近づき、優しく話しかけた。
「君はあのキンミ族のことを知っているんだよね? 良かったら教えてくれるかな」
「え……あ、はい……」
マーヤは消え入るような声で答えた。




