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猫のいた朝

 冷蔵庫が閉まる音で目が覚めた。


 部屋はまだ暗い。カーテンの隙間が、わずかに青くなっていた。


 彼女が来たのかと思った。


 半分眠った頭がそう考えてから、昨日の喫茶店へ追いつく。胸の内側が縮み、そのあとで、冷蔵庫を閉めたのは誰だという疑問が来た。


 ベッドの上で体を起こす。


 リビングとの境にある引き戸は、指一本ぶん開いていた。昨日、猫の様子を聞けるように、閉め切らずにおいたのだ。


 細い隙間の向こうで、毛布が動いた。


 俺は足音を立てないように床へ降りた。


 戸を開ける。


 ソファに、人がいた。


 二十代くらいの女の人が、膝を胸へ引き寄せて眠っている。頬に、薄茶色の髪がかかっていた。白い、飾りのない服。その上から俺の毛布を肩までかぶっている。


 タオルが、足元へ押しやられていた。


 猫はいなかった。


 玄関を見る。鍵は掛かっている。チェーンも、そのままだった。


 窓も閉まっている。


 もう一度ソファを見る。


 人は、まだいる。


「……すみません」


 自分でも変な呼びかけだと思った。


 相手のまぶたが動く。顔が毛布へ埋まった。


「もう少し」


 寝言にしては、はっきりした返事だった。


「いや、もう少しじゃなくて。ここ、俺の部屋なんですが」


「知ってる」


「知ってるんですか」


 目が開いた。


 黄色がかった、明るい茶色だった。


 相手は俺の顔をしばらく見てから、ゆっくり上体を起こす。毛布を膝へ寄せ、足をそろえて床へ降ろした。


 素足だった。


 彼女の靴は、玄関にもなかった。俺のスニーカーと革靴。昨日帰ってきたときと、同じ並びだ。


 上着も鞄も見当たらない。


 どうやって、ここまで来たのだろう。


 俺は少し下がり、食卓を間に挟んだ。


「けがとか、具合の悪いところは」


 まず何を聞けばいいのか分からず、昨日と同じことを確認した。


「寒くない」


「それは、よかったです」


 よくはない。部屋に知らない人がいる。


 スマートフォンを取りに戻り、手に持つ。相手はその間もソファに座っていた。出入口をふさぐ位置には立たず、距離を保ったまま聞いた。


「どこから入ったんですか」


「玄関」


「鍵は?」


「あなたが開けた」


「昨日?」


 うなずく。


 昨日は酒を飲んでいない。猫を連れて帰り、服を洗い、ご飯を食べた。大人を一人入れた記憶はなかった。


「俺を、誰かと間違えてませんか」


「傘を持ってた人」


 相手は左肩を指さした。


「そこが、濡れた」


 コートは洗面所に干してある。濡れた場所まで知っている理由が、分からなかった。


 視線を落とすと、食卓にプリンが一つ置かれていた。


 ふたは開いていない。袋に入ったままのスプーンが、隣にある。


「これ、冷蔵庫から?」


「うん」


「食べたかったんですか」


「冷たかったから、出した」


 食べ物の扱いとしては説明が足りなかったが、いま大事なのはプリンではない。


 彼女の視線が、プリンから流しへ移った。


「水、飲んでいい?」


「あ、はい。コップなら、棚に」


 言いながら、俺は棚へ手を伸ばした。彼女も立ち上がりかけたので、二人とも止まる。


「取ります。座っててください」


 ガラスのコップを出し、水を入れる。食卓の向こう側へ置くと、彼女はそちらまで歩いてきて受け取った。


 肩が近づいたとき、俺は思わず体を引いた。


 彼女はその動きを見た。コップを持ち、何も言わずにソファへ戻った。


 水を飲んでいる。両手でコップを支え、少しずつ。


 普通の動作だった。それが普通に見えるほど、どうしてここにいるのか分からないことが怖かった。


 俺はコップを見て、また相手を見た。


「猫を見ませんでしたか。昨日、ここに連れて帰ったんです。白と薄茶の」


 俺はソファの下を見た。いない。食卓の下、カーテンの陰。仮のトイレの横にもいなかった。


 女性は、俺がしゃがむたびに視線を動かした。


「そっちには、いない」


 彼女が言った。


「見たんですか」


 彼女は返事の代わりに、自分の胸元へ手を置いた。


「ここ」


 冷蔵庫の低い音だけが聞こえた。


「……猫の飼い主さん、という意味ですか」


「違う」


 彼女はソファの上に落ちていたタオルを取った。両手で広げ、鼻先へ近づける。


「これで、包んだ」


「見てたんですか」


「包まれた」


 タオルを畳む代わりに、彼女は膝の上で丸めた。


 昨日、猫の体を拭いたときと同じ、薄い洗剤の匂いがした。


 背中が冷たくなった。


 怖い、という気持ちはあった。ただ、相手も俺の指先を見ていた。スマートフォンを握り締めている手を。


「誰か、呼ぶ?」


「必要なら」


 俺は答えた。


 彼女は毛布の端を、少し握った。


「外、また雨?」


「いまは降ってないと思います」


「そう」


 窓へ向けた顔が、昨日の軒下にいた猫と重なった。


 似ているのは目の色だけだ。そう思うのに、手の力が少し抜ける。


「俺の名前、知ってますか」


「知らない」


「笹舟(ささふね)です。笹舟陽統(ささふねはるのり)」


 名乗り終えて、返事を待った。相手の名前も知らないままだった。


 相手は唇だけで、ささふね、と繰り返した。


「あなたは」


 彼女が口を開きかけたとき、顔つきが変わった。


 窓を見る。


 俺もつられて振り向いた。カーテンの縁が、さっきより白くなっている。


「もう、朝」


「そうですけど」


 彼女は両足をソファへ戻した。タオルを足元へ置き、毛布を肩から引き上げる。


「ちょっと待って。話の途中で寝ないでください」


「寝るんじゃない」


 毛布の上から、明るい茶色の目が俺を見た。


「見てて」


 俺は、スマートフォンを下ろした。


 カーテンの隙間に、朝の光が差した。


 彼女の輪郭が、ほどけるように見えた。


 湯気でも煙でもない。目の焦点が合わなくなったような、短い揺らぎだった。


 肩まであった毛布が落ちる。


 さっきまで人がいた場所に、小さな盛り上がりが残った。


 その下から、白い前脚が出てきた。


 続いて、薄茶の耳。


 猫が顔を出した。


 昨日、俺が軒下から抱き上げた猫だった。


「……いや」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 猫は毛布の上に座り、前脚をそろえた。長い尻尾が、毛布の端からはみ出している。


 薄茶の耳。鼻の横の小さなぶち。昨日、タオルで拭いたときに見たのと同じだった。


 さっきまで、そこに人がいた。俺はもう一度、猫の顔を見た。


 当の猫は、後ろ脚で耳の付け根をかいた。


 俺は椅子へ座った。


「本当に、猫なのか」


 ひと声鳴いた。


 肯定なのか、腹が減ったのか、分からない。


 すぐに毛布の内側を確かめたくなって、手を止める。人が猫になったのを見たばかりだ。どこまで触っていいのか、昨日より分からなくなっていた。


「毛布、どかしていいか」


 猫は俺の手を見てから、ソファの端へ歩いた。


 空いた場所の毛布をめくる。白い服も、人も、残っていなかった。


 タオルだけがあった。


 猫が前脚で、俺の膝をたたいた。


 びくりとして振り向くと、浅い皿のほうを見ている。


「ああ。水か」


 皿を洗い、新しい水を入れた。


 猫は床へ降り、匂いを確かめて飲み始めた。


 俺は台所の前に立ったまま、それを見ていた。


 猫が水を飲む音がする。


 ときどき、耳が別々の方向へ動く。


 見ているうちに、足の裏が冷えてきた。靴下を履いていなかったことに、そこで気づいた。


     *


 午前6時を少し過ぎていた。


 日曜だ。会社は休み。出勤前に知らない女性が猫になったと説明する必要は、ひとまずない。


 椅子へ戻ってスマートフォンに書いた。


 朝、人がいた。


 見ている前で猫になった。


 二行を読み返す。誰かから送られてきたら、寝直せと返すと思う。


「話せる?」


 猫は俺を見た。


「さっきみたいに、日本語」


 口が開く。


「にゃ」


「……そうか」


 猫が、少し不満そうに目を細めた。


「ごめん。わざとじゃないんだな」


 もう一度尋ねかけたが、猫は皿の前へ座り直していた。俺はスマートフォンを伏せた。


 昨日よりは元気そうだった。


 フードを用意した。猫は袋が開く音で立ち、食べ始めた。


 俺もトーストを焼く。


 食卓には、出しっぱなしのプリンがあった。


 朝の女性が冷蔵庫から出したものだ。


 その事実が、急に生々しかった。夢なら、せめてプリンまで元に戻してほしい。


 冷蔵庫に残っていたもう一つと並べ、どちらを食べるか迷った末、出ていたほうを開けた。


 甘さが口に広がる。


 昨日買ったときには、二人で食べるつもりだった。


 スプーンが止まる。


 足元で、猫が顔を洗っていた。濡らした前脚で額をこすり、今度は反対側をこする。


 それを見ていたら、プリンを飲み込めた。


 うまいとも、まずいとも思わなかったが、最後まで食べた。


 空になったプリンの容器を流しへ運ぶと、猫もついてきた。足の甲へ体を寄せ、するりと抜けていく。


 猫はそのままリビングへ戻っていった。


 窓の前で止まる。


 カーテンの下へ鼻を入れ、押し上げるようにした。


「外?」


 窓を開けてしまいそうになり、鍵に触れた手を戻した。逃げたら、という考えが先に出た。話せる相手を逃げたと呼ぶことも、すでに変なのかもしれない。


「人に戻ったら、聞くから。いまは、これで」


 窓は閉めたままカーテンを寄せ、外が見えるようにする。


 雨のしずくが残る手すりの向こうで、鳥が飛んだ。


 猫の耳が動き、尻尾の先が床をたたいた。しばらく窓辺にいて、それから自分で離れた。


 俺は窓の鍵を、一度だけ見た。


     *


 押し入れから、通販の段ボールを出した。


 猫は空き箱が好きだと聞いたことがある。けれど相手は大人の女性にもなる。それを知ったあとで、段ボールを勧めていいものなのか。


 床へ置いた箱を持ち上げようとすると、もう猫が中にいた。


「まだ何も敷いてないぞ」


 持ち上げた箱の底から、どっしりした重みが伝わってくる。


 猫は俺を見上げ、尻尾を体へ巻きつけた。


 仕方なく床へ下ろすと、箱の縁をあご置きにする。


「それでいいのか」


 目が閉じた。


 よさそうだった。


 タオルを持って待つこと数分。猫が箱から出て、窓のほうへ歩いた隙に敷き込んだ。


 箱をソファ脇へ置く。


 猫は戻ってくるなり中を確認し、タオルの上で足踏みをした。くるりと一回転して、今度こそ丸まる。


 箱から白い前脚がはみ出した。


 近づいた俺の影に反応し、耳だけが動く。


 昼前、猫が一度起きたとき、俺は箱をソファから少し離してみた。


 通り道に出ていたので、壁際のほうがいいと思ったのだ。


 猫は箱のあった場所で立ち止まった。移した箱を見て、元の場所を見る。それから、新しい場所へは行かず、ソファの下へ入った。


「そっちは、寒くないか」


 呼んでも出てこない。


 箱を戻した。


 猫は俺が洗面所へ行っている間に出てきて、さっきと同じように中へ収まった。


 場所が嫌だったのか。いまは、聞いても答えが返らない。


 俺は箱を、もう動かさなかった。


 床に座っているうちに、背中がソファへもたれた。休日にこんなふうに過ごしたのは久しぶりだった。普段なら、洗濯と掃除の終わる時間を計算し、午後の用事を詰めている。


 今日は、猫が起きて、また寝た。


 スマートフォンが一度鳴った。店からの広告だった。


 俺は画面を伏せた。


 それから、ソファの毛布を畳み直した。


 人の姿でも足を伸ばせるように、昨日より少し広く場所を空けて。

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