傘から出た左肩
別れ話が終わったあと、俺は二人分の傘を買った。
駅の売店で会計を済ませてから、一本でよかったことに気づいた。片手に握った二本の傘は、どちらも同じ透明なビニール傘だった。
連絡すれば、まだ渡せる。
そう考えてスマートフォンを出し、画面をつけないままポケットへ戻した。
彼女は折り畳み傘を持っていた。喫茶店を出るとき、自分で開いたところまで見た。それでも二本買ったのは、もう考えなくても手が動くくらい、長く隣にいたせいだ。
付き合って4年。俺は30歳になった。
土曜の午後に呼び出されたとき、そろそろ一緒に住もうと言われるのだと思っていた。
「陽統は、いつも先に決めてくれるよね」
最後に言われた言葉が、雨の中でも残っている。
予約する店。旅行の列車。体調を崩した日に持っていくもの。
どれも喜んでもらいたかった。そのつもりだった。
「私がどうしたいか、聞いてほしかった」
聞いたことならあった。嫌なら言ってくれれば、と口にしかけて、彼女が膝の上で握っている手を見た。
俺が覚えていないだけで、もう何度か言ったのかもしれなかった。
別れたくないとは伝えた。
彼女は首を振った。
そこから先のコーヒーの味は覚えていない。
予約していた夕食の店をどうするか、先に考えてしまったことは覚えている。
「今夜の店は、俺が断っておくから」
彼女は小さくうなずいた。俺はその返事を見て、まだ何かできる気がした。
「駅まで送る。雨も降りそうだし」
「大丈夫。一人で帰る」
同じ断り方を、前にも聞いたことがある。残業が続いていた彼女を会社まで迎えに行こうとしたときだ。そのときの俺は、遠慮しなくていいと言った。
今回は言えなかった。
会計台へ立つと、彼女も財布を出した。二人で分けて払う。その間、店員はいつもと変わらない声で金額を告げ、釣り銭を小さな皿へ置いた。
店を出ても、車は走っていたし、向かいのパン屋には列ができていた。
彼女の折り畳み傘が開いた。
「じゃあね」
「……うん」
彼女は駅へ向かった。俺は、角を曲がるところまで見ていた。
そのあとで自分も同じ駅へ行くしかないことに気づき、少し間を空けて歩いた。売店で傘を買ったのは、改札を通る前だった。
夕食の予約は、電車の中で断った。店の人に人数を聞かれ、二人です、と答えたときだけ声がかすれた。
駅から部屋まで、普段なら歩いて12分。今日は足が遅かった。街灯はもう点いていたが、西の雲には、まだ夕方の薄い明るさが残っている。
ペット可の部屋を借りたのも、二人で猫を飼いたいと話したからだった。
先に部屋だけ決めた。日当たりも、二口のコンロも、駅までの距離も悪くない。それなのに内見を報告したときの彼女は、俺が期待したほど喜ばなかった。
雨粒が靴のつま先を黒くしていく。
商店街を抜け、細い道へ曲がったところで、鳴き声がした。
小さく、ひび割れた声だった。
閉まった自転車店の軒下。室外機と壁の隙間に、白いものが見えた。
猫だった。
白い毛に薄茶のぶち。尻尾を後ろ脚に沿わせ、小さく丸まっている。子猫ではない。毛が水を含んで細くなり、耳だけが妙に目立っていた。
前を通り過ぎてから、二歩戻った。
「おまえも雨宿りか」
猫は目を開いた。黄色がかった目で俺を見て、また閉じる。
傘を差しかけてしゃがむと、左肩が外へ出た。雨がすぐにコートへ染みてきた。
首輪は見えない。鼻先が小さく動いている。呼んでも近づいてはこなかった。
スマートフォンを出して、近くの動物病院を調べた。土曜の診療時間の表示を見て電話をかけ、見つけた場所と猫の様子を説明する。いまから連れていくなら受け付けると言われた。
傘二本と鞄、それから猫。
どうやって持つか考えていると、猫が一度、立ち上がろうとした。
前脚を伸ばし、やめる。
「……抱いてもいいか」
返事はなかった。
鞄からジム用のタオルを出した。今朝までは、帰りに少し走るつもりだった。清潔なタオルを広げて手を伸ばすと、猫は頭を引いた。
そこで待った。
自転車が脇を通り、跳ねた水が足元へ飛んだ。猫の耳が伏せられる。俺も鞄を寄せ、狭い道を少し空けた。
「無理には触らないから」
口にしてから、このまま来なかったらどうするのかと思った。診療時間もある。ここで一晩待つことはできない。
タオルを、あと少しだけ近くへ置く。
猫は逃げなかった。けれど俺が動くと、そのたびに目を開いた。
雨が傘をたたく。腕が重くなる。
しばらくして、猫の鼻先がタオルに触れた。
「行こう。ここよりは乾いてる」
包んで抱き上げた体には、濡れた毛越しにも重さがあった。前脚が俺の手首にかかる。爪は出ていなかった。
余った傘の柄を鞄の持ち手に掛け、猫を胸元へ寄せる。
俺の左肩は、すっかり濡れた。
*
診察を終え、頼んだ車で部屋へ戻るころには、西の窓の外にオレンジ色の光が細く残っていた。
大きなけがは見つからず、今夜は様子を見ることになった。受け取った説明はスマートフォンに残し、病院でもらったフードと書類を台所へ置く。
首輪はなかったが、飼い主がいるかもしれない。明日、確認の方法を調べよう。
玄関でタオルをほどくと、猫は自分で床へ降りた。
「そこ、まだ濡れてる」
言ったそばから、俺の濡れた靴下の上へ座る。
床よりましという判断らしかった。
洗面所で乾いたタオルを取り、見よう見まねで体を拭いた。背中は許されたが、腹へ触れようとすると前脚で手首を押し返された。
「はい。そこは嫌なんだな」
手を戻すと、猫は目を細めた。
ソファの片側に、もう一枚タオルを敷く。ベッドの掛け布団とは別に使っていた薄い毛布も持ってきた。
猫はソファまで歩き、いったん床の毛布を嗅いだあと、タオルの上へ乗った。
くるりと回り、腰を落とす。
俺が毛布を掛けると、前脚で端を押し下げ、鼻だけ出した。
冷蔵庫を開けると、卵と豆腐と、二人で食べるはずだったプリンが二つ入っていた。
扉を閉める。
腹が減っているのかどうか、よく分からない。
猫用の器がないので、使っていない浅い皿を洗った。水を置き、フードの袋を持ってソファの前へしゃがむ。
「食べられそうか」
猫は顔を出した。袋を見て、俺を見て、それから皿を見る。
少し食べた。
その間だけは、俺も呼吸が楽だった。
冷凍していたご飯を温め、豆腐を器へ出した。食卓の向かいの椅子に掛けていた買い物袋をどけかけて、戻す。
今日は、そこに誰も座らない。
箸を置いたとき、ソファから短く鳴く声がした。
水をこぼしたのかと思って立ち上がる。猫は毛布の中にいた。片方の目だけを開け、俺の手元を見ている。
持ったままだった豆腐の器を、食卓へ戻した。
「食べるよ。俺も」
返事の代わりに、目が閉じた。
全部食べるのに、ずいぶん時間がかかった。
食器を流しへ運び、濡れた服を洗濯機へ入れる。シャワーを浴びている間に、窓の外はすっかり暗くなった。
ソファをのぞくと、毛布がこんもり盛り上がっていた。
丸まっているのだろう。起こさずに、照明を一段落とす。
使っていない段ボールで、寝床も作れる。トイレは病院の帰りに買った仮のもので、今夜をしのぐ。
ベッドに座り、スマートフォンを見る。
連絡は来ていなかった。
4年分のやり取りを開く勇気も、消す勇気もなく、充電器につないで伏せた。
「おやすみ」
誰に向けたのか、自分でも曖昧な声になった。
リビングのほうで、毛布のこすれる音がした。
それを聞きながら目を閉じた。
玄関には、使わなかった傘が一本残っていた。




