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成り上がり商人の次男はのんびり暮らしたい  作者: キウイボーイ
第1章 始まりの工房編

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第6話 価値に値段をつける

 翌朝。


 レオンがカイの工房を訪れると、入口の前にはすでに一人の村人が立っていた。


 腕に抱えているのは、縁の外れかけた木桶だった。


「おはようございます」


「ああ、おはよう。あんたがレオンだな?」


「そうですが、どうして僕の名前を?」


「昨日、ハンスの鍬を急ぎで直したんだろ。話は聞いてるよ」


 小さな村では、出来事が広まるのも早い。


 荷馬車の荷物を整理したこと。


 修理代を払わずに帰ろうとした行商人を止めたこと。


 工房を片付けたこと。


 壊れた荷車の本当の原因を見つけたこと。


 そして昨日、特急料金を取って鍬を修理したこと。


 レオンがフィルネ村へ来てから、まだ数日しか経っていない。


 それでも村人たちの間では、王都から来た変わった若者として、少しずつ名前が知られ始めているらしい。


「こちらの桶を修理したいんですか?」


「ああ。水を入れると、ここの隙間から漏れるんだ」


 村人が桶の側面を指す。


 レオンは状態を確認し、持ち主の名前と壊れた場所を紙へ書き留めた。


「急ぎですか?」


「いや。二、三日で直ればいい。家にもう一つあるからな」


「分かりました。カイさんが確認してから、修理代の目安をお伝えします」


「頼むよ」


 依頼品へ名前を書いた紙片を結び付け、修理待ちの場所へ置く。


 レオンの動きには、すでに迷いがなくなっていた。


 工房を手伝い始めたばかりの頃は、カイへ一つずつ確認しなければならなかった。


 どの品をどこへ置くのか。


 どの工具を準備すればいいのか。


 どの修理が早く終わり、どの修理に時間がかかるのか。


 だが、数日間カイの仕事を近くで見たことで、簡単な修理ならば、おおよその流れが分かるようになってきた。


 もちろん、実際に直せるわけではない。


 壊れ方を見て、必要な技術や材料を判断するのはカイの仕事だ。


 レオンが担っているのは、依頼を受け、情報を整理し、カイがすぐに修理へ取りかかれる状態を作ることだった。


 木桶を持ってきた村人が帰ると、入れ替わるようにカイが工房の奥から姿を現した。


「朝から客か」


「木桶の修理です。急ぎではないそうです」


 レオンは記録を見せる。


 カイは桶を持ち上げ、外れかけた縁を確認した。


「木が少し痩せてる。締め直すだけじゃ、また漏れるな」


「板を交換しますか?」


「そこまでは必要ない。隙間を埋めて、留め具を直せばいい」


「では、材料はこちらでいいですか?」


 レオンが分類した棚から細い木材を取り出す。


 カイは厚みを確かめ、うなずいた。


「ああ」


 以前の工房なら、材料を探すために積み重なった木材を崩し、使えそうな端材を一本ずつ確認していただろう。


 今は、太さと長さごとに材料が分けられている。


 必要な物はすぐ見つかる。


 カイは木桶を作業台へ置くと、壁にかけられた工具へ手を伸ばした。


 金槌。


 やすり。


 小さなのこぎり。


 どれも決められた場所に並んでいる。


 手を伸ばせば、迷うことなく取ることができた。


 レオンはその動きを眺めながら、記録へ修理内容を書き加える。


「どうですか?」


「何がだ」


「工房の使い方には、もう慣れましたか?」


「まだ前の場所に手を伸ばすことはある」


「でも、探すことは減りましたよね」


 カイは木桶の留め具を外しながら、少し考えた。


「減った」


「仕事の進み方も?」


「早くなった」


 カイは一度手を止め、修理待ちの品々へ目を向けた。


 入口側には、今日持ち込まれた木桶のほかに、昨日までに預かった鍬や椅子、荷車の部品が並んでいる。


 依頼品の数そのものは、以前より多い。


 それでも、修理待ちの山は少しずつ小さくなっていた。


「こんなに違うものなのか」


 カイがぽつりと呟く。


「整理しただけで?」


「整理しただけではありません」


 レオンは首を横へ振った。


「工具や材料の置き場所を決めたこともありますが、依頼を記録して、直す順番を決めたことも大きいです」


「今までは、目についた物から直してた」


「簡単な仕事だけ後回しになったり、材料がない物を途中まで始めたりしていましたからね」


「……見てたのか」


「見ていました」


 カイが少し不満そうな顔をする。


 だが、否定はしなかった。


 以前は、手に取った依頼品を直し始めてから、必要な材料がないことに気づくこともあった。


 その場合、途中の品を作業台の端へ置き、別の修理へ取りかかる。


 そうして修理途中の品が増え、作業台の上が狭くなる。


 どれをどこまで進めたのかも、カイの記憶だけが頼りだった。


 今は違う。


 材料があるかを先に確認する。


 短時間で終わる仕事をまとめる。


 預かってから長く経っている物を優先する。


 急ぎの仕事が入れば、ほかの依頼人へ説明した上で順番を変える。


 仕事の流れが見えるようになったことで、カイは修理だけに集中できるようになっていた。


「依頼も少し増えていますね」


 レオンが言う。


「増えてるか?」


「昨日までより、朝から持ち込む人が多いです」


「壊れる物が多かっただけだろ」


「それだけではないと思います」


 荷車の修理が以前より良くなった。


 鍬を当日中に直してもらえた。


 工房へ持ち込めば、誰の品か分からなくならず、いつ頃終わるのかも聞ける。


 そうした話が村人たちの間へ広がれば、以前なら自分で直そうとしていた物や、放置していた物を持ち込む者も増える。


 腕が良いだけでなく、依頼しやすい。


 それも工房を選ぶ理由になる。


 レオンはそう説明しようとして、口を閉じた。


 言葉だけで伝えるより、実際の数字や依頼人の反応を見せた方が、カイは納得しやすい。


「そのうち分かります」


「またそれか」


「結果が出る前に話しても、カイさんは信じませんから」


「お前の話は回りくどい」


「カイさんが頑固なんです」


「お前に言われたくない」


 互いに言い返しながらも、工房の空気は穏やかだった。


 数日前まで、二人は名前を知ったばかりの他人だった。


 カイはレオンが工房へ入ることさえ、あまり歓迎していなかった。


 今ではレオンが受付に立ち、カイが修理を進めることが、自然な形になり始めている。


 カイが木桶の修理を終える頃、レオンは鞄から一枚の紙を取り出した。


「カイさん。少し見てもらいたいものがあります」


「何だ」


「工房の料金表です」


「料金表?」


 カイは露骨に嫌そうな顔をした。


 レオンは気にせず、作業台の端へ紙を広げる。


 紙には、工房でよく扱う仕事と、それぞれの料金の目安が書かれていた。


 農具修理。


 荷車修理。


 家具修理。


 刃物研ぎ。


 特急料金。


 そして、修理できなかった場合の扱い。


 もちろん、すべての修理を一つの金額に決めることはできない。


 同じ農具でも、柄を締め直すだけの場合と、刃や金具まで交換する場合では、必要な材料も時間も違う。


 そのため、紙に書かれているのは固定された値段ではなく、おおよその目安だった。


 簡単な修理なら、この範囲。


 部品交換が必要なら、材料代を加える。


 大きな荷車や家具は、状態を確認してから決める。


 特急で優先する場合は、通常料金へ追加する。


 そして、調べた結果修理できなかった場合には、材料を使っていなければ修理代は取らない。


 ただし、分解や詳しい調査に時間がかかる物については、事前に依頼人へ説明する。


「こんなの必要か?」


 予想どおり、カイは疑問を口にした。


「必要です」


「壊れ方で値段は変わる」


「だから目安と書いてあります」


「見てから決めればいいだろ」


「今までは、その場で考えていましたよね」


「ああ」


「それで、いくらにするか迷って、安くしていました」


「迷ってない」


「昨日、鍬の修理代を決めるとき、しばらく黙っていたじゃないですか」


「あれは考えてただけだ」


「それを迷っていると言うんです」


 カイは不満そうに紙を見下ろした。


「客も、聞けばいい」


「聞きにくい人もいます」


「なぜだ?」


「高い金額を言われるかもしれないと思うからです」


 修理を頼みたい。


 だが、いくらかかるか分からない。


 持ち込んでから、払えないほどの金額を言われたら困る。


 値段を聞いて断れば、カイに悪いと思われるかもしれない。


 そう考えて、工房へ来ること自体をためらう者もいる。


 特にフィルネ村のような小さな村では、相手と今後も顔を合わせる。


 料金を聞いた後で断ることに、王都以上の気まずさを感じる者もいるだろう。


「値段が分からない店へ入るのは、不安なんです」


「俺は高い金を取ってない」


「村人全員が、それを知っていますか?」


「昔から直してる」


「初めて頼む人もいます。最近この村へ来た人もいるでしょう。それに、修理内容によって値段が違うなら、常連でも不安は残ります」


 レオンは紙の農具修理の欄を指した。


「ここに目安があれば、少なくとも、どのくらいの金を用意すればいいか分かります」


「実際の値段が違ったら、揉めるだろ」


「先に説明すればいいんです」


 簡単な修理なら、この金額。


 部品交換があれば、材料代が増える。


 状態を確認しなければ分からない場合は、修理を始める前に伝える。


 料金表があれば、最初から話す基準ができる。


 カイが毎回、何もないところから値段を考える必要もない。


「カイさんにとっても楽になります」


「俺が?」


「農具なら、この範囲。家具なら、この範囲。材料を使ったら追加。急ぎなら特急料金。基準があれば、毎回悩まなくて済みます」


「悩んでない」


「では、行商人の荷馬車修理はいくらが適正だったと思いますか?」


 カイは答えなかった。


「材料代だけでは安すぎましたよね?」


「……今なら、もう少し取る」


「どうしてですか?」


「時間がかかった。荷台も車輪も直した」


「それを料金表へ反映させます」


 作業内容と時間に応じた目安を作る。


 そうすれば、カイ自身も、自分の仕事へ値段をつけやすくなる。


 依頼人も、理由が分からないまま金額を提示されるより納得しやすい。


「料金を見えるようにすることで、安心して依頼できる工房になります」


「安い方が安心するんじゃないのか」


「安いだけでは駄目です」


 レオンは首を横へ振った。


「最初は安くても、次に同じ修理を頼んだとき値段が違えば、不安になります。人によって金額が変わっていると思われるかもしれない」


「そんなことはしてない」


「していなくても、基準が見えなければ、客には分かりません」


 良い仕事をしている。


 正直に値段を決めている。


 誰に対しても同じように対応している。


 そのつもりでいるだけでは、相手へ伝わらない。


 安心して依頼できると感じてもらうためには、分かりやすい仕組みが必要だった。


「それに、修理できなかった場合のことも書いてあります」


「直せないなら金は取らない」


「今はそうしていますね」


「当たり前だろ」


「でも、半日かけて分解して、原因を調べても直せなかった場合は?」


 カイは黙った。


 直せなかった。


 だから金は取らない。


 それでは、調査に使った時間がすべて失われる。


 もちろん、何もせずに料金を取ることはできない。


 だが、難しい物を分解し、内部を調べ、修理可能か判断することにも技術と時間が必要だ。


「何でも調査代を取るべきだとは言いません」


 レオンは説明する。


「ただし、時間がかかる物は、先に依頼人へ伝えるべきです。直らなくても、調べるための料金がかかる可能性があると」


「嫌がられないか?」


「黙って後から請求する方が嫌がられます」


 依頼する前に説明する。


 納得してもらってから仕事を始める。


 それだけで、料金を巡る揉め事の多くは防げる。


 カイは紙を手に取り、書かれた内容を上から順に読んだ。


「字が多い」


「必要なことだけです」


「客が読むのか?」


「読める人は読みます。読めない人には、僕かカイさんが説明します」


「俺が?」


「工房を手伝う人がいなくなったら、カイさんが説明するしかありません」


 カイの視線が一瞬だけ止まる。


「いなくなるのか」


「その話は、後でします」


 レオンは料金表を受け取り、入口近くの壁へ貼り付けた。


 工房へ入った者が見やすい高さを選ぶ。


 紙一枚だけの簡素な料金表。


 王都の商店にあるような立派な看板ではない。


 それでも、この工房にとっては大きな変化だった。


「しばらく試してみましょう」


「客が文句を言ったら?」


「話を聞いて直します」


「すぐ変えるのか」


「使いにくい仕組みなら、変えた方がいいです」


 仕組みは、一度作ったら終わりではない。


 実際に使い、問題があれば直す。


 工房の整理も同じだった。


 カイが使いにくいと感じれば、工具の位置を変える。


 依頼人が料金表を分かりにくいと感じれば、書き方を変える。


 大切なのは、最初から完璧なものを作ることではない。


 良くすることを止めないことだった。


 料金表を貼ってから間もなく、次の依頼人が工房を訪れた。


 大きな体をした男で、肩には弓をかけ、腰には短刀を下げている。


 手にしているのは、刃こぼれした小刀だった。


「研いでもらえるか?」


「見せてください」


 レオンが受け取り、カイへ渡す。


 カイは刃の状態を確認した。


「刃こぼれが深い。普通に研ぐだけじゃ駄目だ」


「直せるか?」


「ああ。ただ、少し時間がかかる」


 男は入口近くへ貼られた紙に気づいた。


「これは料金か?」


「今日から貼ることにしました」


 レオンが答える。


 男は刃物研ぎの欄へ目を向ける。


「この小刀だと、どれになる?」


「刃こぼれが深いので、通常の研ぎより少し高くなります。カイさん、材料は使いますか?」


「使わない。刃を整える時間だけだ」


 レオンは料金表の目安を基準に金額を伝えた。


 男は一度うなずく。


「それくらいなら頼む」


「急ぎですか?」


「明後日、森へ入る。それまでに欲しい」


「通常の順番でも間に合います」


「なら、それでいい」


 話は短時間でまとまった。


 依頼人の名はグレン。


 村の北に広がる森で狩りをする猟師だという。


「最近は何が獲れるんですか?」


 レオンは依頼記録へ名前を書きながら尋ねた。


「兎と鳥が多いな。もう少し奥へ入れば鹿もいる」


「獲物は村で売るんですか?」


「肉は食堂と宿屋だ。皮は行商人が来たときに売る」


「行商人が来ないと、売れないんですか?」


「村で皮を使う奴は少ないからな。来るまで干して置いておく」


「保存に困ることは?」


「雨が続くと困る。乾かせないと傷む」


 グレンは小刀だけでなく、獲物を運ぶための縄も手に入りにくいと話した。


 雑貨屋に在庫があるときは買える。


 だが、丈夫な物は王都から来る行商人が持ってくるまで待たなければならない。


「前に縄が切れたときは、森へ入るのを二日延ばした」


「代わりになる物はなかったんですか?」


「細い縄ならあったが、鹿を縛るには不安だった」


 レオンは相づちを打ちながら、その話を頭へ刻んだ。


 猟師に必要な物。


 丈夫な縄。


 小刀。


 矢尻。


 獲物を保存する道具。


 王都や町であれば、専門の店へ行けば買えるのだろう。


 しかし、フィルネ村では必要になったとき、すぐ手に入るとは限らない。


 グレンが帰った後、今度は年配の木こりが斧を持ってきた。


「柄にひびが入った。替えてくれ」


 料金表を見せながら修理の目安を説明すると、木こりは安心したようにうなずいた。


「前から、このくらいだと分かってれば持ってきやすかったんだがな」


 カイが作業台から顔を上げる。


「値段なら聞けばいいだろ」


「お前、聞いても材料代だけでいいとか、後で決めるとか言うじゃないか」


「直してからじゃないと分からない」


「だから持ってくる前は分からんだろ」


 木こりの言葉に、カイは何も言い返せなかった。


 レオンは笑いをこらえながら、依頼内容を記録した。


 木こりの名はガルド。


 森から薪や建築用の木材を切り出している。


 斧の柄だけでなく、木を運ぶための金具も古くなっているらしい。


「新しい斧は、村では買えないんですか?」


「鍛冶屋に頼めば刃は作ってくれるが、全部新しくするなら高い。王都まで行った方が種類はある」


「王都へ行くことは多いんですか?」


「そう簡単には行けんよ。馬車に乗っても時間がかかるし、その間、仕事が止まる」


「では、必要な道具が壊れたら?」


「カイに直してもらう。それでも駄目なら、古い物で我慢するか、誰かが町へ行くついでに頼む」


 ガルドは斧の刃を軽く叩いた。


「釘一本、金具一つ欲しいだけでも、雑貨屋に置いてなきゃ次の行商人待ちだ」


「行商人は定期的に来るんですよね?」


「来るが、何でも持ってるわけじゃない。頼んでも、次に持ってくるのはさらに後だ」


「それまで修理は?」


「できる物はカイが何とかする。無理なら捨てるしかないな」


 使える部分が残っていても、必要な部品が手に入らない。


 新しい物を買おうにも、近くでは売っていない。


 そのため、直せない道具は捨てられる。


 レオンは何気ない表情を保ちながら、ガルドの話を聞いていた。


 続いて工房を訪れたのは、籠の持ち手を直してほしいという主婦だった。


 彼女は料金表を見るなり、目を細めた。


「特急料金っていうのは、昨日ハンスが払ったやつかい?」


「はい。ほかの依頼より先に修理する場合の追加料金です」


「何でも今日中って頼んだら、これがかかるの?」


「通常の順番で間に合わない場合だけです。いつまでに必要か聞いた上で決めます」


「なるほどねえ。うちは急がないよ。予備の籠があるから」


 料金の仕組みを理解すると、女性は安心したように籠を置いた。


 彼女の名はミラ。


 家族の食事や洗濯を担いながら、家の裏で野菜も育てている。


 持ち手が切れた籠は、井戸から洗濯物を運ぶために使っていたという。


「新しい籠は売っていないんですか?」


「雑貨屋にあるときもあるけど、丈夫なのは少ないね。村で編める人もいるけど、いつも頼めるわけじゃないし」


「ほかに、手に入りにくい物はありますか?」


「何だい、急に」


「村で暮らすなら、何が必要なのか知りたくて」


 レオンが笑って答えると、ミラも気軽な調子で話し始めた。


 縫い針。


 丈夫な糸。


 鍋の取っ手に使う金具。


 油。


 塩。


 子供用の靴。


 どれも雑貨屋に並ぶことはある。


 だが、必要なときに必ず置いてあるわけではない。


「針なんて小さいのにねえ。一度折れたら、次の行商人が来るまで隣の家から借りたこともあるよ」


「王都まで買いに行く人はいないんですか?」


「針一本のために行けるものかい。馬車賃の方が高くなるよ」


 ミラは笑った。


 釘一本。


 針一本。


 縄一本。


 一つ一つは安い品物だ。


 だが、それが手に入らないことで、仕事や生活が止まる。


 品物の金額ではなく、手に入れるための時間と手間が大きい。


 工房を訪れる者と話すたびに、同じ問題が別の形で現れた。


 農家は、新しい農具をすぐに買えない。


 猟師は、丈夫な縄や刃物が必要なときに手に入らない。


 木こりは、金具一つがないため道具を使えなくなる。


 主婦は、針や糸といった生活用品が入るまで待たなければならない。


 カイの工房は、壊れた物を直すことで、その不足を補っていた。


 だが、すべてを修理できるわけではない。


 部品がなければ直せない。


 完全に壊れた物は、新しい物へ替える必要がある。


 修理だけでは足りない。


 フィルネ村には、必要な物を必要なときに手に入れられる仕組みそのものが不足している。


 レオンの頭の中で、一つの考えが形を持ち始めていた。


 しかし、まだ口にはしなかった。


 今は情報が少ない。


 村人が困っているからといって、すぐに商品を仕入れればよいわけではない。


 何が、どのくらい必要なのか。


 どの程度の価格なら買ってもらえるのか。


 保管する場所はあるのか。


 仕入れる手段はどうするのか。


 利益を残しながら、村人にも納得してもらえる形を作れるのか。


 考えるべきことは多い。


 商売は、思いつきだけでは始められない。


 それでも、需要があることだけは確かだった。


 昼になる頃には、工房の修理待ちの場所に、新たな依頼品がいくつも並んでいた。


 斧。


 小刀。


 籠。


 木桶。


 それぞれに持ち主の名前が付けられ、預かった日と修理内容が記録されている。


 料金表を見た村人たちは、思ったほど値段に抵抗を示さなかった。


 むしろ、依頼する前に目安が分かることを喜んでいる。


「これなら安心だな」


「材料代が増えるなら、先に教えてくれるんだろ?」


「急ぎじゃなきゃ、普通の料金でいいんだな」


 確認する者はいても、不満を口にする者はいなかった。


 修理を受け付ける時間も短くなった。


 以前なら、カイが品物を見て、しばらく考え、その場の感覚で料金を伝えていた。


 今は、料金表の目安を基準に説明できる。


 特殊な修理だけ、改めて確認すればいい。


 毎回値段を一から決める必要がなくなったことで、カイも依頼人も迷う時間が減っていた。


「どうですか?」


 午前の客が途切れたところで、レオンが尋ねる。


「何がだ」


「料金表です」


「客は文句を言わなかった」


「それだけですか?」


「話が早くなった」


「ほかには?」


「……値段を聞かれても困らなかった」


 カイは認めたくなさそうに答えた。


「必要でしたね」


「紙がなくても覚えられる」


「村人が見られません」


「お前は一言多い」


「カイさんが素直に認めないからです」


 二人は工房の外へ出て、簡単な昼食を取った。


 壁に背を預け、硬いパンと干し肉を食べる。


 午前中は多くの人と話したため、レオンは少し喉が乾いていた。


 一方のカイは、黙々と修理を続けていたため、腕を軽く回している。


「カイさん」


 レオンは水を飲んだ後、静かに声をかけた。


「何だ」


「あと五日だけ、この工房を手伝います」


 カイの手が止まった。


「五日?」


「はい」


「急だな」


「最初から、長く手伝うつもりではありませんでした」


 レオンはパンを小さくちぎる。


「工房の整理と、仕事の流れが落ち着くまでと思っていましたから」


「まだ全部は落ち着いてない」


「だから、あと五日です」


「もっと居ると思ってた」


 カイが何気なく口にした。


 言った本人も、自分の言葉に驚いたようだった。


 すぐに視線を逸らし、残っていたパンを口へ運ぶ。


 レオンは少しだけ目を丸くした後、笑った。


「ずっと工房にいたら、僕が修理屋になってしまいます」


「修理はできないだろ」


「受付屋ですね」


「そんな仕事は聞いたことがない」


「では、工房管理人ですか」


「それも変だ」


「僕は商人ですから」


 レオンは空を見上げた。


 雲の少ない、穏やかな青空。


 フィルネ村へ来た日と比べれば、この場所にも少し慣れた。


 道を歩けば挨拶される。


 村人の名前も、少しずつ覚えた。


 どこに誰の畑があり、誰が何を作り、何に困っているのか。


 村の輪郭が、ようやく見え始めている。


「この村で何をするのか、そろそろ考えないといけません」


「ここで働けばいい」


 カイが言う。


「給料は払えないと言ったじゃないですか」


「今なら少しくらいは払える」


「料金表を作った途端、強気ですね」


「お前が金を取れと言った」


「正しい対価を取れと言ったんです」


「同じだろ」


 レオンは笑った。


 だが、工房で働き続けるという提案に、その場でうなずくことはしなかった。


 カイの工房を手伝うことは楽しい。


 カイの技術を近くで見ることも、村人と話すことも、自分の知識が役立つことも、レオンには大きな喜びだった。


 それでも、ここで受付だけを続けることが、自分の目指す道なのかは分からない。


「五日後、どうするんだ?」


 カイが尋ねた。


「まだ決めていません」


「決めてないのか」


「はい」


「商人なのに?」


「商人でも、分からないことはあります」


 レオンは指を折りながら、考えている選択肢を口にした。


「しばらく宿暮らしを続けながら、村のことをもっと調べるかもしれません」


「あの宿にずっと泊まるのか?」


「費用を考えると、長くは難しいですね」


「なら、家を借りるのか」


「空き家らしい建物はいくつか見ました。村長へ相談して、店や住む場所を借りることも考えています」


「店をやるのか?」


「それも、まだ決めていません」


「じゃあ、別の仕事を探す?」


「その可能性もあります」


 宿暮らしを続ける。


 店を借りる。


 別の仕事を探す。


 あるいは、村の外へ目を向ける。


 どの道を選ぶにしても、まずは自分がこの村で何を提供できるのかを考えなければならない。


「残りの五日間で決めます」


「五日で決められるのか?」


「決めるために、今ここで情報を集めています」


 修理屋には、村人の困りごとが集まる。


 誰が、何を必要としているのか。


 何が壊れやすく、何が手に入りにくいのか。


 村の中で作れる物。


 外から運ばなければならない物。


 工房を手伝うことは、レオンにとって市場を知るための調査でもあった。


 カイはしばらく黙ってパンを見つめていた。


「そうか」


 いつもどおりの短い返事。


 だが、声は少し低かった。


「寂しいですか?」


「違う」


 カイはすぐに否定した。


「まだ何も言っていませんよ」


「顔を見れば分かる」


「カイさんも、人の顔を見られるようになったんですね」


「うるさい」


 カイは干し肉を噛みながら、工房の中へ視線を向けた。


 整理された工具。


 分けられた材料。


 名前の付いた依頼品。


 入口に貼られた料金表。


 数日前までは、どれもなかったものだ。


「お前が居ると……」


 カイが言いかけ、言葉を止める。


「僕がいると?」


「……仕事が楽だ」


 声は小さかった。


 普段のぶっきらぼうなカイからすれば、精いっぱいの本音だったのだろう。


 レオンは思わず笑顔になる。


「それは褒め言葉ですね」


「違う」


「仕事が楽になる相手へ言うなら、十分褒め言葉ですよ」


「工房が片付いたからだ」


「片付けたのは僕です」


「道具の場所が分かるからだ」


「場所を決めたのも僕です」


「依頼人と勝手に話す奴がいるから、俺が修理に集中できるだけだ」


「それも僕ですね」


 カイは言い返せなくなったのか、レオンから顔を逸らした。


「……違う」


「何が違うんですか?」


「全部だ」


「説明になっていません」


「うるさい」


 耳が少し赤くなっている。


 完全には否定しきれないらしい。


 レオンはそれ以上からかうのをやめ、残っていたパンを口へ運んだ。


 工房を手伝い始めた当初、カイは他人が仕事場へ入ることを嫌がっていた。


 道具の場所を変えることにも、仕事のやり方を変えることにも抵抗していた。


 今では、レオンがいることで仕事が楽になったと認めている。


 ほんの数日。


 それでも、二人の関係は確かに変わっていた。


 午後も、工房には村人が途切れることなく訪れた。


 料金表を見て、その場で修理を頼む者。


 壊れた品を見せ、直せるかだけ相談する者。


 特急料金を見て、急ぎではないから通常でよいと自分から伝える者。


 依頼人とのやり取りは、以前よりずっと滑らかだった。


 ある農家は、鎌の研ぎを頼みながら言った。


「新しい鎌を買えればいいんだが、次に王都へ行くのは収穫が終わってからだな」


「行商人へ頼むことはできないんですか?」


「できるが、いつ来るか分からんし、頼んだ物を忘れられることもある」


 別の村人は、小さな金具をカイへ見せた。


「これと同じ物はないか?」


「何に使う?」


「納屋の戸だ。片方が折れた」


 カイが材料箱を確認する。


「似た物はあるが、大きさが違う」


「駄目か」


「削れば使える」


「助かる。釘一本を買いに町へ行くのも馬鹿らしいからな」


 主婦たちは、家具や生活用品の修理を頼みながら、雑貨屋に欲しい物がないときの不便さを話した。


「鍋の蓋の取っ手だけ欲しいのに、蓋ごと買うしかないって言われたよ」


「布はあるんだけど、丈夫な糸がなくてね」


「子供の靴底が剥がれたときも、直るまで古い靴を履かせたんだ」


 レオンは一つ一つの話を聞き、必要に応じて質問を加えた。


 いつ必要になるのか。


 どのくらいの頻度で使うのか。


 代わりになる物はあるのか。


 今までは、どうやって手に入れていたのか。


 価格はいくらまでなら払えるのか。


 露骨に商売の調査をしていると思われないよう、あくまで自然な会話の中で聞く。


 村人たちも、日常の困りごとを話しているだけだと思っている。


 それでよかった。


 売り込む前に、知る。


 提案する前に、聞く。


 何を売るかを考えるのは、その後だ。


 日が傾き始めた頃、最後の依頼人が工房を出ていった。


 カイは修理を終えた斧を完成品置き場へ移し、工具を壁へ戻す。


 レオンはその日の依頼記録と、受け取った料金を確認した。


 料金表を導入した初日。


 大きな混乱はなかった。


 依頼人は値段を確認してから頼むことができた。


 カイは料金を決める時間を減らせた。


 特急か通常かも、依頼人自身が判断できるようになった。


「明日もこれでやります」


 レオンが料金表を見ながら言う。


「変えるところは?」


「今のところありません。ただ、荷車修理は状態によって差が大きいので、もう少し説明を加えてもいいかもしれません」


「紙が増えるぞ」


「一行増えるだけです」


「字が多い」


「分かりやすい方が大事です」


 カイは小さく息を吐いた。


「好きにしろ」


 以前なら、必要ないと即座に断っていただろう。


 今はレオンの判断を受け入れている。


 それが信頼によるものなのか、反論するのが面倒になっただけなのかは分からない。


 おそらく、両方なのだろう。


 仕事を終えたレオンは、カイへ挨拶をして工房を出た。


 宿屋へ戻る道を歩きながら、今日聞いた話を思い返す。


 農具を買うには王都や大きな町へ行かなければならない。


 釘一本、金具一つを手に入れるにも時間がかかる。


 行商人は来るが、必要な物を必ず持っているとは限らない。


 注文しても、届くのは次か、その次になる。


 壊れた物はカイが修理する。


 だが、部品がなければ直せない。


 修理できなければ、まだ使える部分が残っていても捨てられることがある。


 村人たちは、ただ安い物を求めているわけではない。


 料金表を見たときも、最も安いかどうかより、安心して頼めるかを気にしていた。


 誰が直すのか。


 いつ終わるのか。


 いくらかかるのか。


 困ったときに、きちんと対応してもらえるのか。


 信頼できる相手なら、必要な金は支払う。


 昨日、特急料金を払ったハンスもそうだった。


 今日工房を訪れた村人たちも、料金の理由が分かれば納得していた。


 宿屋へ着くと、レオンは夕食を取る前に自室へ戻った。


 机の上に紙を広げ、今日得た情報を書き出していく。


 道具が手に入りにくい。


 修理の需要が多い。


 王都まで簡単には買い物へ行けない。


 行商人だけでは、必要な物を安定して入手できない。


 小さな金具や針、縄などが不足しやすい。


 修理できない道具は捨てられることがある。


 村人は価格だけではなく、信頼と分かりやすさを重視する。


 修理だけでは満たせない需要がある。


 一つずつ書き終えるたびに、頭の中にあった考えが鮮明になっていく。


 フィルネ村には、物がないわけではない。


 畑で食料は作られている。


 木材もある。


 鍛冶屋も、雑貨屋も、修理屋もある。


 だが、必要とする人と、物を手に入れる手段がうまくつながっていない。


 村で作れない物は、行商人が来るまで待つ。


 行商人が持っていなければ、さらに待つ。


 急ぐなら、時間と金をかけて王都へ行く。


 その間、仕事も生活も止まる。


 そこには、商人が入る余地がある。


 必要な物を把握する。


 まとめて仕入れる。


 村へ置いておく。


 壊れた物が直せないなら、代わりになる品を提案する。


 修理屋や鍛冶屋と協力し、部品だけを用意することもできるかもしれない。


 まだ具体的な形は決まっていない。


 仕入れ先も、資金の使い方も、保管場所も考えていない。


 店を持つのか。


 注文を受けて運ぶのか。


 工房と組むのか。


 その答えは、残りの五日で探すつもりだった。


 だが、一つだけ確信できることがある。


 この村には、求められている物がある。


 そして、それを届ける仕組みはまだない。


 レオンは紙の最後へ、短い言葉を書き加えた。


『商売になる』


 書かれた文字を見つめる。


 王都を出たとき、レオンは静かに暮らせる場所を探していた。


 大きな成功を求めていたわけではない。


 前世のように、仕事だけに追われる人生を送るつもりもなかった。


 その思いは、今も変わっていない。


 だからこそ、無理なく続けられる商売を作る。


 自分だけが儲かるのではなく、村人の困りごとを減らし、職人が正しい対価を得られる仕組みを作る。


 それならば、前世の経験を使う意味がある。


 レオンは紙を丁寧に折り畳んだ。


 残り五日。


 その間に、この村で自分が何をするべきなのかを決める。


 答えはまだ見つかっていない。


 だが、進むべき方向は、確かに見え始めていた。


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