第18話 商人の種
工房の壁に新しい決まりを貼ってから、数日が過ぎた。
ニナは何かを動かす前に、必ず一度立ち止まるようになった。
ただ許可を求めるのではなく、自分の考えも添える。
「この修理品は、明日の朝に受け取りですよね。完成品置き場の手前に移しておいた方が、すぐ渡せると思うんですけど、どうですか?」
「それでいい。ただし、依頼票も一緒に動かせ」
「分かりました」
カイも、以前のように短い言葉だけで指示を済ませることが減っていた。
なぜその場所へ置くのか。
なぜその工具を使うのか。
なぜ先にこちらの作業を済ませるのか。
ニナが理解できるよう、理由まで説明するようになっている。
まだ言い方がぶっきらぼうになることはある。
それでもニナは気にする様子もなく、分からないことがあれば遠慮なく尋ねていた。
二人のやり取りを見ながら、レオンは仕入れ帳を閉じた。
「そろそろ、もう一度領都へ行こうと思います」
受付机の向こうで商品を並べていたニナが振り返る。
「仕入れですか?」
「はい。前回仕入れた物も、だいぶ少なくなりましたから」
棚にはまだ商品が残っている。
しかし、品目ごとに見ると偏りが出始めていた。
細いロープはよく売れたが、太い物はまだ残っている。
小さな金具は修理にも販売にも使うため、想定より減りが早い。
釘や油、研磨に使う消耗品も少なくなっていた。
農具についても、同じ物をもう一度仕入れてほしいという声が何件か届いている。
レオンは帳簿を見返し、何がいくつ売れたのかを確認していた。
前回は、何が村で求められるのかを確かめるための仕入れだった。
今回は、その結果をもとに数量を決められる。
「何日くらいになる?」
作業台で金具を削っていたカイが尋ねた。
「行き帰りを含めて、数日はかかります」
「その間の工房は?」
「カイさんとニナに任せたいと思っています」
ニナの目が大きく開いた。
「私にもですか?」
「もちろんです」
レオンは笑った。
「受付と販売は、もう一人でもできますよね」
「はい!」
ニナは勢いよく頷いた後、少しだけ表情を引き締めた。
「分からない修理が来たら、カイさんに確認します。値段をすぐ決められない依頼は預かって、レオンさんが戻ってから伝えます」
「急ぎだと言われても、勝手に約束するなよ」
カイが横から言う。
「分かってます。できるかどうか、カイさんに聞いてからです」
「ならいい」
カイは削っていた金具を光へかざした。
形を確かめた後、レオンへ視線を向ける。
「今回は安心して行ってこい」
その言葉に、レオンは一瞬返事を忘れた。
以前、領都へ向かったときは違った。
工房を空けることへの不安があった。
カイは修理に集中すれば、客への対応まで手が回らない。
ニナはまだ入ったばかりで、一人で任せられる仕事も少なかった。
何かあれば、レオンが戻るまで止まってしまう。
今は違う。
カイが修理を進め、ニナが受付と販売を担う。
二人で判断できないことだけを残し、それ以外は工房を動かし続けられる。
「工房は任せてください!」
ニナが胸を張る。
「レオンさんが戻るまで、ちゃんと守りますから」
「守るだけじゃなくて、仕事も進めろよ」
「分かってますよ」
二人のやり取りに、レオンは笑顔で頷いた。
「お願いします」
その日のうちに、レオンは売上の記録方法や代金の保管場所、二人だけでは判断できない依頼の残し方を確認した。
開店から戸締まりまでの流れも、二人はすでに理解している。
自分がいなければ回らない場所ではなく、誰かに任せられる場所にする。
それは、工房を始めた頃には考えられなかった変化だった。
翌朝、レオンは仕入れ帳と必要な金を持ち、領都へ向かう荷馬車に乗り込んだ。
村を離れる前に振り返ると、工房の入口にはニナが立っていた。
その奥では、カイがすでに作業台へ向かっている。
レオンが手を上げると、ニナも大きく手を振り返した。
不安がないわけではない。
だが、それ以上に、任せられるという実感があった。
◇
領都へ到着したレオンは、旅の荷を宿へ預けると、すぐに前回取引した店を訪ねた。
最初に向かったのは、農具や金具を扱う店だった。
店内には、鎌や鍬、斧の刃などが壁一面に並んでいる。
前回応対した店主は、レオンの顔を見ると目を細めた。
「また来たのか」
「はい。前回仕入れた品が売れましたので、追加をお願いしたくて」
「全部売れたのか?」
「全部ではありません。ただ、よく売れた物と、あまり動かなかった物が分かってきました」
レオンは仕入れ帳を開いた。
前回買った商品の数量。
売れた数。
工房で修理に使った数。
村人から追加を頼まれている物。
それぞれを見せながら説明する。
「小さい金具は随分と出てるな」
「販売だけでなく、修理でも使っています。反対に、こちらの大きさは村ではあまり使われませんでした」
「なら、今回は減らすか」
「はい。その分、こちらを増やしたいです」
店主は仕入れ帳を覗き込み、何度か頷いた。
前回のレオンは、信用できるかどうかも分からない小さな客だった。
買う量も少なく、次に来る保証もない。
それでも店主は、少量から取引に応じてくれた。
今回は、売った結果を持って戻ってきた。
「村で道具も売ってるんだったな」
「修理を受けながら、必要な物を置いています」
「修理屋が売るなら、客も相談しやすいか」
「そう思っています。壊れた物を直すだけでなく、必要なら買い替えも提案できますから」
「なるほどな」
店主は腕を組み、棚に並ぶ金具へ目を向けた。
「前より少し増やすなら、まとめて用意してやる。ただし、無理に持っていって売れ残っても知らんぞ」
「ありがとうございます。数量はこちらで決めます」
レオンは売れたからといって、何倍もの量を求めなかった。
よく売れた物は少し増やす。
売れ行きが鈍かった物は減らす。
新しく仕入れる物も、まずは少量に留める。
売れる可能性と、売れ残る危険。
どちらも考えなければならない。
その後も、レオンは前回訪ねた店を順に回った。
ロープを扱う店では、村人から希望のあった長さと太さを伝える。
「前の細いやつがよく売れたのか」
「荷物を縛ったり、家畜をつないだりするのに使いやすいようです」
「なら、今回は長いまま持っていくか? 必要な分だけ切って売れるぞ」
店主の提案に、レオンは少し考えた。
村で長さを測り、必要な分だけ販売できれば、客の用途に合わせやすい。
その一方で、切り分ける手間と、正確に長さを測る道具が必要になる。
「今回は、決まった長さの物と、切り分けるための長い物を少しずつお願いします」
「両方試すのか」
「はい。どちらが求められるか確かめたいので」
「慎重だな」
「まだ小さな工房ですから」
レオンが笑うと、店主も口元を緩めた。
「小さいうちに無茶をしないのは悪くない」
生活用品を扱う店では、針や糸、油、掃除用の布などを仕入れた。
前回買った商品がフィルネ村でどのように使われたのかを説明すると、店側からも別の商品を提案された。
「村なら、こっちの小さな油差しも使うんじゃないか?」
「値段はどれくらいですか?」
「これくらいだ。丈夫さは保証する」
レオンは品物を手に取り、重さと作りを確かめる。
仕入れ値は少し高い。
だが、長く使えるなら村人にも勧めやすい。
「二つだけお願いします」
「二つ?」
「まずは試してみます」
「相変わらず少ないな」
「売れたら、また来ます」
レオンが答えると、店主は声を上げて笑った。
「前もそう言って、本当に来たからな。分かった。二つ用意してやる」
最初の取引では、少量であることを嫌がられる店もあった。
今回は違う。
量そのものはまだ多くない。
それでも、実際に売り、再び仕入れに来たことで、レオンを見る目が少しずつ変わっていた。
一度きりの客ではない。
これからも取引が続くかもしれない相手だ。
その小さな変化を、レオンは店主たちの言葉や態度から感じ取っていた。
仕入れを終える頃には、農具、金具、ロープ、修理用の部材、生活用品、消耗品が揃っていた。
前回より荷は増えた。
しかし、無理に積み上げた量ではない。
帳簿に残った実績と、村人から聞いた要望を一つずつ形にした結果だった。
買い付けた品は、それぞれの店から宿へ運んでもらうよう手配した。
◇
必要な仕入れを終えた後も、レオンはすぐには宿へ戻らなかった。
仕入れ帳を鞄へ収め、市場の中をゆっくりと歩く。
並んでいる商品を見るだけなら、先ほどまでに十分済ませている。
今度見るのは、商品ではなく人だった。
どの店の前で足を止めるのか。
何を手に取り、何を棚へ戻すのか。
何を探して店主へ尋ねるのか。
人の行動を見れば、暮らしの中に足りない物が見えることがある。
市場の中央では、野菜や果物を扱う店に多くの客が集まっていた。
少し離れた場所では、母親が布を選んでいる。
その横で、幼い子供が退屈そうに足元の石を蹴っていた。
「こら、遠くへ行っちゃ駄目よ」
「まだ?」
「もう少しだから待ってなさい」
子供は頬を膨らませ、地面へしゃがみ込んだ。
小石をいくつか拾い、並べ始める。
別の場所では、二人の子供が木の枝を剣に見立てて遊んでいた。
「俺が騎士だ!」
「じゃあ、俺は魔物!」
二人は笑いながら枝を打ち合わせている。
その近くでは、女の子たちが地面に線を引き、小石を投げて順番に跳んでいた。
遊ぶ道具がなくても、子供たちは自分たちで遊びを見つけている。
レオンは周囲の露店を見回した。
食べ物。
衣類。
鍋や皿。
道具。
装飾品。
暮らしに必要な物は、一通り揃っている。
裕福な者向けと思われる高価な人形や飾り物を置く店はあった。
だが、普通の家の子供が手に取れるような玩具はほとんど見当たらない。
家族で一緒に楽しめるような物も少ない。
生活に必要な物はある。
しかし、楽しむための物は少ない。
前世では、子供向けの商品だけでも数え切れないほどあった。
積み木。
絵合わせ。
簡単なパズル。
木や紙で作った札。
駒を動かして遊ぶ盤上遊戯。
文字や数を覚えるための知育玩具。
子供だけではなく、大人も一緒に楽しめる物も多かった。
遊びは、生きるために絶対必要な物ではない。
なくても今日を過ごすことはできる。
それでも、笑う時間や家族で過ごす時間は、暮らしを豊かにする。
レオンは鞄から小さな手帳を取り出した。
市場の端へ寄り、立ったまま書き込んでいく。
木製の積み木。
形を合わせるパズル。
絵や印を描いた木札。
家族で順番に遊べる物。
子供が自分で考えながら遊べる物。
書いているうちに、次々と形が浮かんでくる。
木材なら、工房でも加工できる。
カイの技術があれば、丈夫で安全な物も作れるだろう。
端材を使えるなら、材料を無駄にせずに済むかもしれない。
だが、レオンはそこで筆を止めた。
今の工房には、毎日の修理がある。
販売する商品の管理も始まったばかりだ。
ニナは仕事に慣れ始めたところで、カイも教えることを覚えている途中だった。
そこへ新しい商品の製作を加えれば、どこかに無理が出る。
一つ作るだけならできる。
だが、商品として売るなら、同じ品質の物を何度も作れなければならない。
価格を決め、材料を揃え、売れ残った場合のことも考える必要がある。
「まだ早いですね」
小さく呟き、手帳を閉じる。
思いついたからといって、すぐに始める必要はない。
今できることと、将来やりたいことを分けて考える。
種を見つけたなら、育てられる時期が来るまで残しておけばいい。
これまで工房が扱ってきたのは、壊れた物を直し、生活の不便を減らすための仕事だった。
人の困り事を解決することは、商売の大切な役割だ。
だが、人を笑顔にすることも、同じように価値がある。
市場で遊ぶ子供たちの声を聞きながら、レオンはその考えを手帳とともに胸の内へしまった。
◇
市場を離れ、宿へ戻ろうとしたときだった。
「おや、また会ったな」
聞き覚えのある声に、レオンは足を止めた。
人混みの中から、一人の商人が近づいてくる。
整えられた服装。
人当たりの良さそうな笑顔。
だが、その目は笑っていない。
以前、手続きも記録も必要ないという、不透明な仕入れを勧めてきた男だった。
「お久しぶりです」
レオンは表情を変えずに答えた。
「そういえば、前は名乗っていなかったな。俺はミゲルだ」
「レオンです」
「知っているさ」
ミゲルは親しげに肩をすくめた。
「元気そうじゃないか。聞いたぞ。村の工房が随分とうまくいっているらしいな」
「誰から聞いたんですか?」
「商売をしていれば、話はいろいろと入ってくる」
ミゲルは質問に答えず、笑みを深くした。
「修理だけじゃなく、商品も売ってるそうだな」
「まだ小さなものです」
「小さいからこそ、儲けを増やす方法を考えないとな」
ミゲルは周囲を見回した後、声を少し落とした。
「前にも話したが、俺には特別な仕入れ先がある」
「特別な仕入れ先ですか」
「ああ。市場や問屋を通すより、ずっと安く商品が入る」
「どのような商品でしょう」
「生活道具から金具、布、薬まで、いろいろだ。欲しい物があれば用意できる」
レオンはミゲルの言葉を聞きながら、注意深く表情を見た。
「市場価格の半分近くで入る物もある。お前が今の値段で売れば、利益は倍近くになるぞ」
「随分と安いですね」
「余計な手続きや、面倒な確認がないからな」
「仕入れ先はどちらですか?」
ミゲルの笑顔がわずかに止まる。
しかし、すぐに元へ戻った。
「それを知る必要はない。商品が安く手に入れば十分だろう」
「品質は、どなたが保証するのでしょう」
「俺が扱っている物だ。問題はない」
「問題が起きた場合、責任は取っていただけますか?」
「問題など起きないさ」
「取引の記録は残せますか?」
ミゲルの目が細くなる。
「記録なんて残したら、安く仕入れる意味がない」
「商業ギルドへ説明できる取引ではない、ということですか?」
「お前は細かいことばかり気にするな」
ミゲルは呆れたように笑った。
「客は仕入れ先なんて気にしない。安く買えて、お前が儲かれば、それでいいじゃないか」
レオンは笑顔を崩さなかった。
どこから来た商品なのか。
誰が品質を保証するのか。
問題が起きたとき、誰が責任を負うのか。
そのどれにも、ミゲルは答えようとしない。
ただ利益が増えるという話だけを繰り返している。
安すぎる商品には、安くなる理由がある。
正規の代金が誰かへ支払われていないのかもしれない。
税や手数料をごまかしているのかもしれない。
粗悪な品や、盗まれた品が混じっている可能性もある。
前世でも、条件が良すぎる取引の裏には、見えない危険が隠れていた。
利益だけを受け取ることはできない。
いずれ、誰かがその代償を払う。
そして問題が明るみに出たとき、客が見るのは仕入れ先ではなく、それを売った店だ。
「申し訳ありません」
レオンは丁寧に頭を下げた。
「せっかくのお話ですが、お断りします」
「理由を聞いても?」
「私は、長く商売を続けたいんです」
レオンはミゲルをまっすぐ見た。
「信用を失うような取引はできません」
ミゲルはしばらく黙っていた。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「面白い若造だ」
「そうでしょうか」
「目の前に金があるのに、拾おうともしない」
「誰の物か分からない金には、手を伸ばさない方がいいと思っています」
ミゲルの笑みが、一瞬だけ消えた。
だが、次の瞬間には、いつもの柔らかな表情へ戻っている。
「考えが変わったら、俺を探せ」
「変わらないと思います」
「若いうちは、そう思うものさ」
ミゲルはそれだけ告げると、人混みの中へ紛れていった。
レオンは追わなかった。
どこへ向かうのか。
誰とつながっているのか。
気にはなった。
しかし、今のレオンに確かめる手段はない。
分かるのは、関わるべき相手ではないということだけだった。
◇
宿へ戻ったレオンは、荷物の確認を終えると、机の上で手帳を開いた。
市場で書き留めた商品候補が並んでいる。
木製玩具。
積み木。
パズル。
木札を使った遊び。
家族で一緒に楽しめる物。
どれも、今すぐ形にすることはできない。
それでも、暮らしの中で見つけた小さな種だった。
レオンはその下へ、新たな一文を書き加えた。
『信用は、一度失えば二度と戻らない』
少し強すぎる言葉かもしれない。
失った信用を取り戻せることもあるだろう。
だが、同じ状態へ完全に戻ることは難しい。
一度疑われれば、次からは前より厳しく見られる。
工房へ修理品を預けてくれる村人。
商品を仕入れさせてくれる領都の商人たち。
工房を任せられるカイとニナ。
今の仕事は、すべて積み重ねてきた信用の上に成り立っている。
目先の利益のために、それを危険へさらすことはできない。
翌朝、レオンは仕入れた品を帰りの荷馬車へ積み込み、その荷台に乗ってフィルネ村への帰路に就いた。
荷台には、これまでより少しだけ増えた商品がある。
鞄の中には、すぐには形にならない商売の種がある。
そして工房では、二人の仲間がレオンの帰りを待っている。
レオンは遠ざかる領都を一度振り返ると、前へ向き直った。
◇
その前日、レオンと別れたミゲルは、人混みの中をしばらく歩き続けた。
何度か道を曲がり、周囲を確かめる。
市場の賑わいが遠ざかったところで、細い路地へ入った。
建物の影が重なり、昼間でも薄暗い。
その奥に、黒いローブをまとった人物が立っていた。
顔は深く被ったフードに隠れている。
ミゲルは先ほどまでの笑顔を消し、静かに頭を下げた。
「あの若者は、こちらには来ません」
「そうか」
低い声が返る。
「仕入れ先も、記録も、責任の所在も確認してきました。利益だけでは動かないようです」
「……なら、しばらく泳がせておけ」
「よろしいのですか?」
「構わない」
黒いローブの人物は短く答えた。
「あれがどこまで大きくなるか、見ていればいい」
ミゲルはもう一度頭を下げる。
「承知しました」
黒いローブの人物は、それ以上何も言わなかった。
路地の外から、市場の明るい喧騒がわずかに届いている。
その声に紛れるように、ミゲルは薄暗い路地の奥へ姿を消した。




