「いただきます」が言えた朝
黒川 啓、二十八歳。白い息を吐きながら歩く、会社からの帰り道。十一月も終わりに差し掛かり、朝晩はすっかり冷え込むようになった。
……もう何日、まともに休んでいないんだろう。
上司がかわり、仕事の量が増えた。いつまでも終わりが見えない仕事量に、理不尽にぶつけられる叱責。気づけば同僚が減っていき、更に振り分けられる仕事が増える。
朝に出社をして、まともな昼食すら取れずに過ぎていく時間。終電で帰り、泥のように眠りについたら、すぐにまた朝が来る。重たい体を起こし、ゼリー飲料だけを腹に入れて出社する。その繰り返しが、啓の当たり前の日常になっていた。
――いっそ過労で倒れてしまえたらいいのに。
なんて不謹慎なことを考えながらも、残念なことにこの体は意外と丈夫らしい。完全に一抜けするタイミングを失い、今日に至る。
だけど、明日――もう今日だが――は休みだ。実に数ヶ月ぶりの休日を死守するために始発帰りになってしまったが、目が覚めるまで存分に寝られるのだと思えば頑張れた。明日はスマートフォンの電源を切り、会社からの連絡は絶対に出ないんだ。
そう意気込み、あと少しの家路を急ぐ。
「あれ、何かいい匂いがする」
どこか懐かしい、優しい匂い。その匂いを嗅いだ途端、腹が鳴った。ここ最近はめっきり腹も空かなくなり作業のような栄養補給しかしてこなかったのに。
ガチャッ
ドアが開く音がした方向を見ると、そこにはパン屋があった。素朴で温かみがある、昔ながらのパン屋だ。そしてその前にある、とても大きな岩。……ではなく、大きな背中。
まだ暗い中、店の外灯に照らされた背中は、がっしりしていてすごく強そうに見える。そのまま自分の体を見下ろし、頼りがいのない、薄い体にため息をつく。
――いつから、こうなってしまったんだろう。昔はもう少し筋肉質だった気がするんだが、やっぱりここ数年の不摂生のせいだろうか。
何だか無性に、自分が惨めな存在のように感じられた。冷たい空気が、鼻にツンときて涙が浮かぶ。と、顔を上げたら大男と目が合う。このパン屋の店主だろうか。……がっしりした見た目に反して、目元が優しい。
「おう、兄ちゃん。これから仕事か? 朝早くからご苦労さんだな」
「あ、いえ、今仕事帰りです。そちらこそ、朝早くから大変ですね」
急に声をかけられ少し戸惑いながらも、涙を見られたかもしれない羞恥心を隠すように慌てて言葉を返す。
「パン屋は朝の準備が勝負だからな。それより今が帰りってことは、夜勤か何かか?」
「いや……ちょっと残業しちゃって、こんな時間に」
「そうか。そりゃあまた、お疲れさん。……大丈夫か?」
何でもないことのように、にへら、と笑って答えたつもりだったがどうやら上手く笑えていなかったらしい。心配そうな顔をされてしまった。
「全然大丈夫ですよ! 今日はたまたまこんな時間になっちゃっただけで、普段は終電で帰って来られてるんで」
「普段は終電……それでも遅くないか?」
大丈夫だ、と伝えたかったのに、また微妙な顔をさせてしまった。でも嘘をつくことでもないし、こればかりは仕方がない。
「飯はちゃんと食べてるのか?」
「あー、そういえば昼に菓子パンを1つ食べたっきり食べてないですね」
手軽にカロリーが取れる菓子パンは、片手で食べられることもあり重宝している。いつも適当に食べているので味は覚えていないが。
「昼!? もう朝方だぞ!? ……ちょっとそこで待ってろ」
慌てたように店の中に戻って行った店主は、また小走りで戻ってきた。ビニール袋を手に持って。
「これ、やるから家に帰って食え。不格好なパンで悪いが、味は変わらねぇから」
そう言って差し出された袋からは、先ほど嗅いだ匂いがした。中を見ると、パンが何個か入っている。
「いえいえ! もらえないですよ!」と丁重に断ろうとしたとき、最後まで言い終える前にグゥッとまた腹が鳴る。
「……せめて、お金を払います」
もう、断ることはできない。この美味しそうな匂いに抗うなんて、できるわけがないだろう。
「いいから持っていけ。美味かったら、今度客として店に来てくれればそれでいい。きっと、すぐにでも来ることになると思うぞ? 不格好なパンでも、俺が丹精を込めて焼いたパンだからな」
不敵に笑う店主の言葉に、また鼻がツンとする。
「……ありがとう、ございます」
「おう、気をつけて帰れよ」
何とか声の震えを抑えて礼を伝え、会釈をしてその場を離れる。
――あんなに優しく、ことばをもらったのはいつぶりだろう。最近では叱責される声か、同僚の口から出る愚痴しか聞いていない。まともな会話なんて、久しくしていないことに気づいてしまった。
*
「ただいまー」
誰もいない暗い部屋に声をかけ、靴を脱ぐ。無造作に上着をソファーに置き、手を洗う。そして、もらった袋に手を入れる。
――あたたかい。
手に伝わる温もり、その中から一つを取り出し、個包装されている袋をあける。
少しだけ油っぽいキツネ色。漂ってくるスパイスの香りが、「味」に飢えた舌と脳に刺激を与え、また腹が鳴る。
「いただきます」
久しぶりに、声に出した言葉。昔は当たり前に使っていたのに、ずっと言えていなかった六文字。
噛んだらサクッとして、中のカレーがトロッと出てくる。熱いというほどではない、程よい温かさとほんの少しのピリッとした辛みが口に広がる――気づけば、今度こそ耐えきれず涙が頬を伝ってきた。
忘れていた、食べる喜び。あたたかくて、おいしくて、店主のことばが、今になって胸に沁みる。
――大丈夫か?
気遣いの言葉、慈しむような視線。パンと一緒にくれた、温かい厚意。
――本当に使えねぇな。失敗作なんじゃねぇの、お前
毎日のように、上司に浴びせられていた言葉。
――不格好なパンでも、俺が丹精を込めて焼いたパンだからな
だけど、"失敗作"にも温もりをくれる店主の言葉に。
否定されてばかりで忘れていた“やさしいこころ”に、動き出した感情が一気に溢れ出す。
溢れる涙を拭い、残りのパンをゆっくりと噛みしめた。
外はもう、完全に明るくなっている。
――今日は一日何をしようか。まずは、胃薬を飲んで。ゆっくり寝よう、目が覚めるまで。目が覚めたら、あのパン屋まで歩こうかな。散歩がてら。
その後、これからのことを考えよう。自分のこと、仕事のこと、随分会っていない、両親のこと。
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