6.夏の夜の鼓動⑥ 汚点
◇ ◇ ◇
花火の時間が近づいてきたからか、道を行き交う人の数が増えている。
大地は人混みを縫うようにして進みながら、目的の人物を追った。
(なんで、なんでここにいるんだ? 祭りだから来ただけなのか? それとも……もうずっとここに住んでるのか?)
ちらりと見えただけだが、あれは母に間違いなかった。
ソラを喜楽園に連れて来た時と同じ服装をしていたし、なにより、世の中の全てを恨んでいるような横顔は、大地が嫌というほど見てきたものだ。
雑踏に紛れて消えてしまいそうな後ろ姿を、必死の思いで追っていく。
会ってどうしたいとかは、考えていなかった。
ただ母に対してなにかをするなら、これが最後のチャンスのような気がしたのだ。
(マキはタカミセイイチに会った。俺も母さんと話したら、なにか変わるのか?)
ふいに母の姿が消えた。
(見失った!)
大地は慌てて歩調を速めた。急いてはいても、人の流れに逆らう形なのでうまく進めない。おまけに慣れない草履なので、そうそう速くは動けない。
焦燥を抱えながら、ようやく母を見失った地点へと到着する。目が回りそうな勢いできょろきょろ辺りを見回すと、立ち並ぶ屋台の間に隙間を見つけた。
まさに隙間だった。路地裏というにも狭過ぎる、人ひとりがようやく通れるほどの、わずかな隙間。
その隙間の奥に人影を見つけて、大地は急いで隙間の中へと体をねじ込ませた。今度は見失わないようにと、目をかっぴらいて後を追う。
だいぶ日も落ちてきたため、小道は暗く陰っていた。このまま両側から壁が迫ってきて、挟まれ潰されるのではないかという妄想を抱いてしまうくらい、単調な直進が続いたところで。
バッと視界が開けた。
(ここは……?)
大地は眉をひそめて周囲を見渡した。ここの町には何度も足を運んでいるが、こんな区画には入ったことがなかった。
華やかに人が行き交う表通りとは一転して、不気味なほど静かで退廃的な空気が漂っている。今にも崩れ落ちそうなボロいアパートが何棟も建っており、ベランダには洗濯物が干してある。路上には無人ではあるものの、重ねた段ボールでこしらえられた、仮住まいと思われる空間もあった。
人が住んでいることは間違いないのに、生き生きとした空気を感じない。
いわゆる貧民窟――それも前向きさとは無縁な――なのだと気づいた時、大地はアパートの入り口に、ひとりの女を見つけた。
「母さん!」
大地は叫んだ。人違いかも、という可能性は考えもしなかった。
大地の声に女が振り向く。聞くはずのない言葉を聞いたというような、驚愕の表情を顔に張りつけて。
目と目が合った。確信した。
大地は女の元へと駆け寄った。
彼女の目の前にたどり着いたところで、再度口を開く。
「母さん」
「大地、なの?」
震えるように声を絞り出した母は、間近で見ても、記憶にある姿とそんなには変わっていなかった。
少し皺は深くなったような気もするけれど、昔と変わらず美人で、疲れているようでも格好は小ぎれいで。そして相変わらず人生に絶望していて。
母は十数秒にわたって大地を凝視すると、甚兵衛羽織とは不釣り合いな帽子に目を向け――一瞬顔をしかめてから――ほっとしたように口元を緩めた。
「元気で、暮らしてるのね……よかった」
途端、
「馬鹿言うな!」
自分でも訳の分からない感情に圧されて、大地は声を荒らげた。
「俺をあっさり捨てといて、弟を見殺しにしといて、よくそんなことが言えるな!?」
叫びながら自問する。これが母に会って、自分がしたかったことなのだろうか。よくも捨てたなと罵ることが。
「弟……そうね。私にはふたりいた」
母は忘れていたとでもいうように、うつろな目でつぶやいた。しかしそれは、大地の糾弾を受けて省みたというよりも、途切れたいら立ちを思い出しているかのようだった。
「私はふたりも子どもを産んだのに、どちらも普通じゃなかった。私は普通の生活がしたかっただけなのに……不公平よ!」
突然癇癪を起こした母に、大地は開いた口がふさがらなかった。
不公平。それは大地が世界に向けて叫びたかった言葉だ。
(俺の言葉だ。俺が思ったんだ!)
なのに母は次から次へと、大地の想いを奪っていく。
「私は頑張った! 愛する人にも尽くした! なのになんで私ばっかりこんな目に遭うのよ!? 贅沢を望んだわけじゃないのに、普通の母親になりたかっただけなのに!」
普通を恋い焦がれたのは自分だ。誰よりも自分が、普通になりたかった。
不幸すら独りよがりに奪っていく母に、大地は激昂して詰め寄った。
「ふざけんな! あんたみたいなやつが、普通の母親になれるもんか!」
「なにも知らないくせに!」
母が金切り声を上げる。
「私はちゃんとした子どもを産めなくて、結局何度も捨てられた。もう独りぼっちで生きていくしかないのよ! 全部全部あんたたちのせいよ!」
「俺やソラが悪いって言うのか!?」
「そうよ! あんたたちさえ産まなければ、私は普通の人生を歩めた!」
大地を押しのけ、断罪するように指を突きつけてくる母。
「なに勝手なこと言ってんだよ!」
大地は限界まで眉をつり上げ、負けじと返した。
だけど本当は失意の底にあった。
広大な不安の砂漠で希望の砂粒を探して、結果あり地獄にのまれた間抜け。それが自分だ。
一体なにを期待していたのだろうか。追ってこなければよかった。
「俺だってあんたから生まれたくはなかった! あんたなんか……」
一瞬躊躇し、しかし大地は突き進んだ。
「あんたなんか死ねばいいんだ!」
母は怒声を上げた。悲鳴かもしれなかった。言葉にならない叫びを上げ、母が腰ポケットからなにかを取り出す。
それは折りたたみ式のナイフだった。
ぱちんと出された刃は、大地に向けられている。恐らく護身用であるはずの刃が、丸腰の大地に、明確な意志をもって向けられている。
母が自分を傷つけようとしている!
(そんな)
目をそらしようのない事実に気が遠くなる。
母は大地を疎ましいと思っているだけではない。
(母さんは、俺の存在そのものを認めたくないんだ。俺は母さんにとって、本当にただの汚点、消し去ってしまいたい過去なんだ)
大地はどうすることもできず、母がナイフを振りかぶるのをただ見ていた。




