5.鳥籠の幸せ③ 土台がそもそも違うなら
◇ ◇ ◇
夜空にちりばめられた星は、季節によって見えるものが変わるらしい。そんな当然のこと、マキは全然知らなかった。
(宿舎にいた頃は就寝時間が早くて、夜空なんてほとんど見なかったもん)
誰にともなく言い訳し、階段を上りきったところで足を止める。
2階建てのプレハブ倉庫は、星の観賞にはもってこいの場所だ。
やや錆びついた外部階段のポーチから星を眺めるのが、喜楽園に来てからのマキの日課となっていた。
星座のことなどよく分からないけれど、毎日少しずつ変わっていくのなら、なんとなく、目に収めておきたいと思ったのだ。
肌に触れる空気からは、もうすっかり寒さを感じなくなった。喜楽園に来たばかりの頃はまだ寒さが残っていて、震えながら空を見上げていたのに。
(もう、夏が来たんだね)
しみじみと感じ入る。
マキは階段の手すりを両手で握り、しょっぱい記憶に思いをはせた。
夜空で一番強く思い出すのは、リサを送ったあの日の夜だ。
下から見上げたセンセイの横顔は、今思い出してもやっぱりつらそうで。
(センセイ。センセイはどうして嘘をついたの? どうして私たちを閉じ込めたの? どうして……家族を殺したの?)
大熊先生の言葉によって、マキが知っていた『真実』の根底は上塗りされた。
人間は鳥や虫と同じく、あっけなく死ぬと知った。
大地は相変わらず、楽園なんてまやかしだと言っている。
喜楽園の図書室で、表紙や奥付が剝ぎ取られていない本をたくさん読み込んだ。そして、危険な場所と信じていた『外の世界』は、マキたちの生きる世界そのものだと知った。世界から見れば待ち人の家など、砂粒ほどの存在ですらなかった。
不思議なのは、宿舎にあった本を読んでいた時は、あそこでの『真実』は、まごうことなき真実だったことだ。本がそれを証明してくれていた。
しかし喜楽園の図書室にある本を読めば、かつての『真実』は綻びだらけだった。
こんなにも簡単に、自分の世界は変わってしまう。物事を判断するための土台がそもそも違うなら、白だって黒になる。優しい人も殺人鬼になる。
(知りたくなかった……センセイが私たちを殺そうとしてたなんて、知りたくなかった……)
手すりを握る手に力を込め、空を見上げる。どんなに目を凝らしても、星がどう変わっているかなんて分からない。分かるはずがない。
むなしい気持ちだけが募り、マキは本棟に戻ろうかと視線を落とした。
――その時だった。
(え?)
突然止まった。空気の流れが。
息が。
(息が……できない!)
数歩下がったところで、体は恐怖で動かなくなった。
なにかを詰まらせたわけでは決してない。なのに気管がふさがってしまったかのように、空気が入ってこない。吐き出すこともできない。
時が止まったかのように体内の空気が停滞し、苦しいという感覚だけはどんどん突き進んでいく。喉になにも詰まっていないのに息ができないという事実が、余計にパニックを誘った。
「っ……!」
大量の空気を一気に吸おうとして、ひゅぅぅぅっと、笛のような音が漏れる。
けれど、吸っても吸っても入ってこない。呼吸なんていつも、なにも考えなくてもできているのに。体の中の、空気を入れ替える機能がおかしくなってしまったかのようだ。
(怖い……助けてっ!)
喉に手を当て空気を求めても、なにも得られない。指先までガチガチに固まり、股の間になにか温かいものが流れた。
失禁に対する羞恥心など、感じている余裕もなかった。
(なにか……なにか、衝撃があれば……!)
マキは背後の壁に、背中を思い切り打ちつけた。激しく、何度も、何度も。
しかし治らない。息ができない。体が痙攣する。
(苦し、い……助けてっ……)
夜空が暗く、遠く感じられた。
どこかから大きな音が耳に届く。きっとこれが、『太鼓をたたくような音』――花火だ。
初めて聞いた花火の音は、絶望的なまでに遠かった。
(やだ……やだよっ……)
自分は終わる。自分は止まる。
なのに世界は続いていく。自分を置いて、世界は先に進んでしまう。
(もっと……もっと強い衝撃っ……)
マキは自分を進めてくれるものを求め、必死に首を伸ばした。
そして迷うことなく、階段へと身を投げ出した。
背中に強い衝撃が走る。
感じた次の瞬間には、怒濤の勢いで衝撃が体を襲ってきた。落ち続ける恐怖のおかげで、呼吸困難による恐慌が強引に抑えつけられた。
痛みを認識した時には、マキはすでに階段を落ちきっていた。
「……かはっ」
詰め物が取れたかのように、空気が口からこぼれ出た。
それをきっかけに、止まっていた分を取り戻そうと、勝手に息が荒くなる。
心臓が早鐘のように鳴り、指は小刻みに震えていた。
(私……どうしちゃったの……?)
いつの間にか、目からは大量の涙があふれていた。
胎児のように身を縮こませながら、マキは必死に呼吸を整えた。
背中が痛い。無理に息を吸おうとしたからか、胸元の辺りも、突き刺さるように痛い。
(怖い……怖いよ)
「誰か、助けて……」
こんなか細い叫びでは、誰も助けに来てくれない。助けに来る必要もない。
だって世界にとって自分は、取るに足らないちっぽけな存在だから。自分がいなくても世界は動き続けられるから。
「やだ……助けて……」
自分は世界に必要ないから。
「死にたくないよぉ……センセイ……リサ……」
空にはじける花の音を聞きながら、マキの意識は遠のいていった。
◇ ◇ ◇
 




