雨は嫌いなはず…
続編を書いきました。
誤字脱字があるかもしれません。
あらかじめご了承ください。
6
ピピピピ、と無機質な目覚ましの音が部屋に響き、私は目を覚ました。
音が鳴った瞬間に、現実を察する。憂鬱な月曜日の朝だということを。
けれど、いつもなら足取りが重くなるはずの今日という日は、いつもと違って胸の奥がトクンと高鳴っていた。
いつも通りの朝の支度を済ませ、家を出る。途中で琴の家へと寄り、彼女を迎えに行って一緒に学校へと向かった。
歩いている間、琴はいつもより私と目線を合わせようとせず、口数も心なしか少なかった。少し心配になったけれど、土曜日の疲れがまだ残っているのかもしれないと思い、それ以上は踏み込まずにそっとしておくことにした。
学校に到着し、私たちはそれぞれの席に座る。
自分の席でなんだか小さく縮こまっている琴の姿を見て、私は心の中で「ペンギンの赤ちゃんみたいで可愛いな」と密かに悶えていた。
私と琴の席は、教室の中で少し離れている。
「……もっと近くがよかったなぁ」
誰も聞いていないのを確かめて、小さく口から溢れてしまった。
それと同時に、はっとする。最近の私、なんだか自分自身が少し変なのでは……? そんな風に考えてしまう。
いや、きっと気のせいだ。自分にそう言い聞かせ、いつも通りの当たり前の一日を過ごすことにした。
結局、今日一日の中で琴が私の席にやってきたのは二回ほどしかなく、休み時間の大部分を私はいつも通り本を読んで過ごした。
やがて放課後になり、二人で一緒に家に帰る途中。少し距離を感じるのが寂しくて、私は「ねえ、コンビニ寄らない?」と琴を誘ってみた。
お気に入りの飲み物とアイスを買い、イートインスペースの椅子に二人で腰を下ろす。
「……何か、悩み事でもある?」
私は思い切って、気になっていたことを口にしてみた。今日一日の琴の様子が、いつもと明らかに違っていたから。
すると、琴は一瞬きょとんとしたあと、ふわりと笑った。
「なんでもないよ! でもね、春ちゃんの近くにいたらすごく安心するから、悩みなんてどっかに行っちゃった!」
そう言って胸を張る姿を見て、少しだけいつもの元気な琴に戻ったような気がして安心した。
「そう。ならいいんだけど」
私たちはそう言ってコンビニをあとにした。人には言いたくないことの一つや二つあってもおかしくない。そう思ったから、これ以上深くは掘り下げないようにした。
帰り道の道中、琴は「ご飯を頬張るリス」のように、一生懸命に自分の好きなことや、これからやりたいことについてたくさん話してくれた。その姿を見ながら、私はやっぱり相変わらず可愛いな、と胸をときめかせていた。
やがてそれぞれの家に着き、別れる。
「大丈夫かなぁ……、琴」
自室のベッドの上に寝転び、彼女の様子を思い浮かべながら、私は静かに眠りへとついた。
◇
その頃、琴もまた、自分の部屋のベッドの上で寝返りを打っていた。
枕に顔を埋めながら、今日一日の自分の行動を必死に振り返る。
「今日の私……変じゃなかったかなぁ……」
小春の顔を見るたびに、土曜日の夜のあの密着感や、ジャージの肌触り、甘えた自分のセリフが思い出されて、どうしても緊張してしまうのだ。
「あーもう、なんか変……!」
きつく目を閉じるけれど、自分でもはっきりと分かるほどに、今も顔がとてつもなく熱かった。
小春を意識しすぎてしまったせいで、琴が心地よい眠りにつくまでには、いつもより少し長い時間がかかった。
7
なんの変哲もない、穏やかな時間を過ごしながら数日が経過した。
月曜日の朝に感じた琴の少しぎこちない様子は、日が経つにつれてだんだんと元の明るい調子へと戻ってきているようだった。
そしてこの日は、二回目となる学級委員会の集まりがある日だった。
放課後を告げるチャイムが鳴り、私は席を立って、琴と一緒に委員会の行われる教室へと向かった。
今回の話し合いのテーマは、今秋に開催される体育大会の運営についてだった。
競技用具の準備や片付け、放送原稿の作成、テントの設営など、私たち学級委員が分担しなければならない仕事は山のようにあった。
その山積みの仕事の中から、私たちは一番体力を遣わずに済みそうで、かつ静かに進められそうな「放送原稿の作成」を担当することにした。
仕事内容の説明によれば、体育大会当日のプログラムに沿って、進行の状況に合わせて応用が利くような基本のアナウンス原稿を作る、というものだった。基本のルールさえ守れば、あとは私たちの好きにアレンジして構わないらしい。
幸運なことに私たちのグループの説明が一番早く終わり、私たちは早々に帰路につくことができた。
校門を出て歩きながら、私はふと思いついて琴に声をかけた。
「ねえ。今日、さっそく放送原稿を作成するために、またコンビニのイートインにでも寄らない?」
「コンビニもいいんだけど……」
琴は歩調を緩めると、少し躊躇うようにして私の服の袖を引いた。
「……お家とかじゃ、ダメかなぁ?」
少し低めの、甘えるような琴の声。
「いいよ。じゃあ、どっちの家にする?」
快く頷きながらも、私は自分の言葉に少し胸を躍らせていた。実はこれまで、琴を自分の家に誘ったことは一度もなかったのだ。
「……っ」
私の言葉を聞いた瞬間、琴がピタリと動きを止めて固まってしまった。
困っているような、迷っているような。まるで、周囲を警戒して縮こまっている野生のウサギのようなその様子を見て、相変わらず可愛い人だなと思う。
「じゃあ、私の家でもいい?」
「いいの……!? 本当に、春ちゃんのお家に行ってもいいの!?」
急にスイッチが入ったように、琴が嬉しそうに声を弾ませた。私は「もちろん」と笑って頷いた。
我が家に到着し、私は少し緊張しながら琴を二階の自室へと案内した。
部屋の中央にある円形のローテーブルを挟んで向かい合わせに座り、私たちはさっそく放送原稿の作成に取り掛かった。二人でああでもないこうでもないと相談しながら、黙々とシャーペンを動かしていく。
せっかく初めて私の部屋に来てくれたのだから、何も出さないわけにはいかない。私は一度一階へ下りて、パックのレモンティーとクッキーをトレイに乗せて部屋へと運んだ。
作業のちょうど半分ほどが終わった頃、時計の針はすでに午後七時三十分を示していた。
そのとき、一階の階段の下から「ご飯できたよー」というお母さんの声が響いた。琴が我が家に来ていることは、作業の合間にメールできちんと伝えてある。
「えっ、もうこんな時間……!?」
琴が弾かれたように時計を見上げ、慌てて荷物をまとめ始めた。
「じゃあ、私もう帰るね」
「待ってよ。……ねえ、今日、うちに泊まっていかない?」
気づけば、私の口からそんな言葉が零れ落ちていた。
「いいの……? 迷惑じゃ、ない……?」
「全然大丈夫。今日はお父さん仕事で帰ってこないし、お兄ちゃんも研修で外泊だから、何も遠慮しなくていいよ」
「じゃあ……お言葉に甘えさせてもらおうかな!」
いつもの元気な琴の声が、私の部屋に心地よく響き渡った。
念のために一階へ下りてお母さんに直接確認を取ると、お母さんは「あら、賑やかになって嬉しいわ!」と大喜びしてくれた。
部屋に戻って、私は琴をリビングへと誘った。
「はじめまして! 土井琴葉と言います」
「こちらこそ、はじめまして。小春の母です」
「今日、突然お泊まりすることになってしまって……本当に構いませんか?」
「大丈夫よ、大歓迎! 男手がいないから少し散らかっているけれど、わからないことがあったらなんでも聞いてね」
「ありがとうございます!」
琴はいつもの元気な調子とは打って変わって、とても丁寧な口調で、見るからに緊張しているようだった。その初々しい挨拶の姿を、私は少し誇らしいような気持ちで見つめていた。
「ところで、パジャマとかのお泊まりセットはある?」
「あ、一回お家に道具を取りに帰ってもいいですか?」
「大丈夫よ。小春、暗いからついて行ってあげなさい」
「うん、わかった」
そうして、私たちは一度琴の家へと足を運んだ。
「ええっと、あれと、これと、それから……」
自分の部屋で楽しそうに鞄に荷物を詰め込んでいる琴の後ろ姿は、まるで嬉しそうに尻尾を振って走り回る子犬のようだった。
「できたーっ!」
無邪気な声とともに振り返る。
「じゃあ、行こっか」
「うん!」
琴の家をあとにし、夜の静かな帰り道を歩く。
その道中、琴がもじもじと指先を動かしながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……手、繋がない? 春ちゃん」
「どうしたの? いいよ」
まるで夜道で迷子になってしまった子供みたいで、その少し弱気な様子がまた愛おしかった。
差し出された手を、そっと握りしめる。誰かの手をこんな風にしっかりと握るなんて、一体いつ以来だろう。
手のひらから伝わってくる琴の体温は少し冷たくて、けれど緊張しているのか、若干汗で湿っているように感じられた。手を繋いだ瞬間、ぱっと嬉しそうに顔を輝かせた琴の横顔を見ていたら、私の胸の奥にある心臓が、急にとてつもなく騒がしく波打ち始めた。
我が家に戻り、お母さんと弟、そして私と琴の四人で賑やかに晩御飯を食べた。
お母さんは琴のことがすっかり気に入ったようで、
「小春は学校でいつも大丈夫?」
「学校ではどんな風に過ごしているの?」
「琴葉ちゃんに迷惑かけてない?」
などと、間髪入れずに質問攻めにしていた。琴は少し困ったように頬をかきながらも、その質問一つひとつに難なく、ハキハキと答えていた。
小学生の弟に至っては、単純に「お姉ちゃんの友達が来た」という認識なのだろう。どこか不思議そうな目線で、終始一言も発さずに琴のことを見つめていた。
楽しく夕食を終え、次はお風呂に入ることになった。
私が脱衣所へ向かおうとしたとき、後ろから服の裾をキュッと引っ張られるような感覚があった。足を止め、不思議に思って振り返る。
そこには、まるで生まれたての子鹿のように、不安げに身体を縮こまらせた琴が立っていた。
「どうしたの、琴?」
「いっ、一緒に……入ってもいい、かなって……思って」
予想だにしないお誘いに、私は完全に呆気に取られてしまった。
少しの沈黙のあと、心臓の音を誤魔化しながら私は声を絞り出す。
「……恥ずかしく、ないの?」
私自身、誰かと一緒にお風呂に入るなんて、小学生の頃を最後に一度も経験していなかった。
「私は、春ちゃんならそんなに恥ずかしくないけど……だめ、かな……?」
甘えたような、少し潤んだ上目遣いでじっと見つめられる。
「……ちょっと恥ずかしいけど、いいよ」
あんなに可愛い顔を見せられて、断れるはずがなかった。
私の返事を聞いた瞬間、琴はいつもの元気な表情に戻り、「やったー!」と脱衣所に大きな声を響かせた。
これまで、琴の身体をまじまじと見たことなんて一度もなかった。だから、湯気の向こうにある彼女の姿を、この機会にしっかりと目に焼き付けてやろうという、小さな下心が頭をもたげた。一瞬、自分は変態なのではないかと自己嫌悪に陥りそうになったけれど、こんなチャンスは二度とないかもしれない。私は羞恥心をひとまずゴミ箱に投げ捨て、目の前の美しい光景を拝むことにした。
じっと見つめてみると、琴の肌は思っていたよりもずっと白く、手足も驚くほど細かった。胸の膨らみは、私よりもやや小ぶりなように感じられる。
(私、一体どこを見ているんだろう……)
自分の視線に少しエッチな罪悪感を抱いていると、浴室のドアを開けた琴が不思議そうに振り返った。「春ちゃん、入らないの?」
「あ、うん。じゃあ、入ろっか」
温かい湯気が立ち込めるお風呂へと足を踏み入れる。
すると、お湯に浸かる前に、琴が背後からそっと近づいてきて耳元で小さく囁いた。
「春ちゃんの背中、流してあげるよ」
心臓が跳ね上がるほど恥ずかしかったけれど、実際のところ、彼女の手が触れると思うと嬉しくて仕方がなかった。「う、うん。お願い」と小さく了承する。
緊張のあまり、自分の早鐘のような鼓動が琴に伝わってしまわないか心配だったけれど、今の私に冷静さを保つ余裕なんてどこにも残っていなかった。
背中を優しく洗ってくれる最中、琴の少し小ぶりで、スベスベとした手のひらが私の肌を滑っていく。シャワーの音を止められた浴室の中には、微かな泡立ちの音と、私たちの少し上気した吐息だけが、やけに大きく響き渡っていた。
やがて「おわり!」と琴の手が離れる。今度は、私の仕返しの番だった。
「……今度は、私の番だよ。琴」
「えっ、あ、あ、あの……いいの?」
「任せなよ」
「じゃあ……お願いします」
交代して、私が琴の背中を洗う番になった。
目の前にある琴の背中は驚くほど小さく、指先から伝わる肌の質感はどこまでもスベスベとしていた。少し様子を伺おうと横顔を覗き込んでみると、琴の耳の裏まで真っ赤に染まっているのが見えた。
(……これだけで、十分可愛すぎるな)
これ以上の刺激は私の心臓が持たないと思い、楽しみはまたの機会にとっておくことにして、私は丁寧に彼女の背中を流し終えた。
洗い流したあと、二人で湯船へと向かう。我が家のお風呂は、一般的な家庭用サイズよりも一回り大きく作られていた。二人が入ればどうしても密着してしまうけれど、一緒にお湯に浸かるには十分な広さだった。
肩まで同時にお湯に浸かると、琴が「ちょっと待っててね」と言って、一度脱衣所へ戻っていった。すぐに何かを両手に抱えて戻ってくる。
「じゃじゃ〜ん! キャンドルアロマです!」
琴の手のひらには、お洒落な少し大きめのロウソクが乗っていた。
「どうしたの、それ?」
「前に買ったんだけど、お家じゃ使う機会がなさそうだから持ってきちゃった」
無邪気に笑いながら、琴はお風呂場の電気をパチリと消した。そして、暗闇の中でロウソクの芯に小さな火を灯す。
ゆらゆらと揺れる炎が浴室を幻想的な色に染め上げ、心地よいアロマの甘い香りが、湯気とともに広がっていった。
「綺麗だね……」
「うん……」
こんな幸せな時間が、ずっとずっと続けばいいのに。私は温かいお湯に身体を預けながら、心からリラックスしていた。
十五分ほどでロウソクの火が消え、それと同時に私たちは湯船から上がった。
時刻は午後九時。明日は平日 ―――のはずだけれど、カレンダーをめくれば明日は祝日だった。だから、今夜はいつもより夜更かしをしても誰にも怒られない。
寝る時間が近づき、私はこの間ショッピングモールで琴と一緒に買った、あのお揃いのジャージに着替えた。琴も嬉しそうに、色違いのオレンジ色のジャージを身に纏っている。
「……私のベッド、使う?」
一応、遠慮がちに聞いてみた。
「う、うん。一緒に寝よ?」
まさかの直球なお誘いだった。
私の脳内は光の速さで回転し、即座に「もちろん!」と答えていた。
二人で狭いシングルベッドの中へと潜り込む。お互いの身体がぴったりと密着し、お揃いのジャージの生地が擦れ合う音がした。
二人で一緒に眠るのは初めてではなかったけれど、前回は私が熱を出して意識が朦朧としていた。お互いに元気な状態でこうして寄り添うのは初めてで、とてつもない緊張が身体を駆け巡る。
ドクドクと、自分の心臓の音がうるさいくらいに琴の身体へと伝わっていくのが分かった。
いつか琴がしてくれたように、琴は私のお腹の中央あたりに顔を埋め、腕を蛇のようにしなやかに回して抱きついてきた。
(琴に、私の心臓の音が聞こえてないかな……)
恥ずかしさで、自分の顔が赤く火照っているのがはっきりと自覚できた。
部屋の電気を消した暗闇の中ではよく見えなかったけれど、琴の顔は前回のときよりもさらに密着していて、温かいというよりも、少し熱いくらいの吐息がお腹に直接かかり、ひどくくすぐったかった。
前回とは違い、今の私はすっかり元気だ。
だから私は愛おしさを堪えきれなくなって、その小さな琴の頭を、まるで大切な赤ちゃんを包み込むかのように、両腕で優しく抱きしめながら目を閉じた。
◇
私の緊張は、すでに最高潮に達していた。
お風呂での出来事や、今こうして同じベッドの中にいるという事実が頭を支配して、羞恥心が心の底から溢れ出して止まらない。
恥ずかしすぎてまともな会話もできないまま、私はただ、小春のお腹に顔を近づけて必死に眠ろうとしていた。けれど、そんなの無理に決まっている。
カーテンの隙間から差し込むかすかな月明かりが、小春のお腹と私の目の前を淡く照らしていた。私の真っ赤な顔を見られていないか、本当に心配になる。
距離が近すぎて、自分の熱い吐息が小春のお腹に当たって迷惑じゃないかな、とか、そんなことばかりが頭をぐるぐると駆け巡る。
部屋にはクーラーがついていて、空気は十分に涼しいはずなのに。
なぜだか、身体の芯からずっと熱くて仕方がなかった。
暗闇の中で色んなことを考えて、頭の中で幸せな妄想を膨らませているうちに、私は小春の腕の温もりに包まれながら、いつの間にか深い眠りへと落ちていた。
8
今回は、私の方が先に目を覚ましたみたい。
ゆっくりと意識が浮上して、パチリと目を開ける。
目の前には小春のお腹があって、私の視界はその愛おしい存在だけでいっぱいに埋め尽くされていた。
私の頭は、小春の優しくて温かい手のひらに包まれている。
(……あれ?)
ふと、自分の手の位置に違和感を覚えた。
寝る前の時点では、確かに小春の背中に回してあったはずの手。それがいつの間にかずり落ちて、なんだか柔らかくて丸みを帯びた、心地よい弾力のある場所に収まっている。
そう、私の両手は今、小春のお尻の中央部分に、すっぽりと吸い付くように乗っかっていた。
一瞬、頭が真っ白になる。けれど、すぐに罪悪感よりも底知れない興味の方が勝ってしまった。
私は息を潜めながら、愛おしさを堪えきれずに、撫でるようにして三回ほどその柔らかい感触を確かめるように触ってしまった。
普段、誰かのお尻を触る機会なんて逆立ちしたってないから、これはもの凄く、とてつもなく貴重な体験をしている気がする。
小春の寝顔が見たいな、と思って少し上を向こうとしたけれど、小春自身の腕が顔のすぐ上に重なっていて、残念ながらその綺麗な寝顔を拝むことはできなかった。
(次は絶対に、朝一番の寝顔を見てやるんだから……!)
私は心の中でそう強くリベンジを誓い、小春の温もりに包まれたまま、心地よい二度寝の海へと再び沈んでいった。
◆
お尻のあたりに、妙にモゾモゾとした不自然な違和感を覚えたことで、私は目を覚ました。
原因は、すぐ隣でゴソゴソと動いている琴だった。
薄く目を開けて視線を落とすと、案の定、彼女の手は私の完全にお尻の特等席に乗っかっていた。しかも、なんだか愛おしそうに小さく指先が動いている。
(……バレてないと思ってるのかな、これ)
恥ずかしさで心臓が跳ね上がったけれど、数分もすると琴の手の動きはピタリと落ち着き、規則正しい寝息に戻った。どうやらまた寝入ってしまったらしい。
琴にがっしりと抱きつかれているせいで身動きがあまり取れず、かといって無理に動いて起こしてしまうのも悪い。私はそっと静かに右手を伸ばし、ベッドのヘッドボードの上に置いてあった読みかけの小説を手に取った。
静寂に包まれた部屋の中、片手でページをめくりながら読書に没頭する。時間はあっという間に流れ、気づけば三十分が過ぎていた。
そのとき、隣の愛らしい塊がううんと小さく声を漏らし、ゆっくりと目を覚ました。
「おはよー……」
いつか聞いた、朝一番のあの弱々しくて、少しハスキーな琴の声。
「おはよ」
私も小説から目を離し、いつものトーンで短く返してみる。
眠い目をこすりながらぼんやりとしている琴の、朝一番の無防備な姿は、どこか神々しくて、胸が苦しくなるほどに愛おしかった。
その後、リビングへと下りてお母さんの作ってくれた朝食を二人で済ませた。
名残惜しいけれどお別れの時間になり、私はまだ眠そうに目をこすりながら歩く琴の隣に並び、彼女の家の前までしっかりと送り届けた。
自分の家へと帰り、静かになった自室のベッドにどさりと倒れ込む。
「……はぁ、本当に楽しかったなぁ」
ぽつりと、天井に向かって本音が零れ落ちていた。
胸の奥が、まだじんわりと温かい。またすぐにでもうちに遊びに来てほしいな、と何度も何度も同じことを考えてしまう。
私は琴の残香が残るシーツに顔を埋め、贅沢な余韻に浸りながら、今日という祝日を味わうために心地よい二度寝のための布団を被った。
◇
まだ眠たい目をこすりながら小春の家をあとにして、気づけば自分の家の自室にたどり着いていた。
お泊まりがあまりにも楽しかったことへの興奮と、お風呂やベッドでの様々な羞恥心で胸がいっぱいになりながらも、やっぱりまだとてつもなく眠かった。
私は吸い込まれるようにして自分のベッドへと潜り込む。
小春の家に泊まれたこと、そして、小春のあの柔らかい感触をこの手で確かに味わったという、言葉にできないほどの特大の優越感に浸りながら、私は幸せな気持ちで三度寝の眠りへと落ちていった。
目を閉じる瞬間、どうかこの後の夢の中に、何度も何度も小春が出てきてくれますように、と神様に強く、強く願って。
9
あのお泊まり会から数日が経過し、学校中がどこかそわそわとした活気に包まれる中、ついに体育大会の前日を迎えた。
前日準備のこの日は、競技用具の運び出しやテントの設営など、まだ終わっていない力仕事がたくさん残っていたため、私たち学級委員もその手伝いに駆り出されることになった。
「おっも〜い……!」
「結構な重さあるね、これ」
テントの頑丈な骨組みや、綱引き用の太い綱、大玉転がしの巨大な大玉。どれもかろうじて一人で運べないこともなかったけれど、二人で声を掛け合って一緒に運べば、驚くほど楽に思えた。
「春ちゃん、次にあれにしない?」
琴がそう言って指差したのは、観覧者席としてグラウンドに並べるための折りたたみ式のパイプ椅子だった。
一脚につき一・五キロほどの重量。私は両手に一脚ずつ、計二脚を運ぶのが限界だった。
ところが、琴はというと、両手に二脚ずつ、計四脚の椅子を「よいしょ!」と元気そうに抱えていた。
その様子がなんともルンルンとして見えて、まるで広々としたドッグランを無邪気に走り回る子犬のようでもあり、私は心の中でまたしても「愛おしいな」と微笑んでいた。
「これで最後〜〜っ!」
琴の疲労感と達成感の混じった、晴れやかな声が響く。
パイプ椅子を運ぶ作業は、琴の驚異的な働きぶりのおかげで、ものの数十分で綺麗に片付いてしまった。やはり、琴が隣にいてくれると何かと心強いし、作業もずっと楽に進むなと思う。
「最後はこれだね!」
少しの休憩で完全に元気を取り戻したらしい琴が、私に向かってにっと笑いかけてきた。
彼女の視線の先にあるのは、グラウンド全体にアナウンスを響かせるために欠かせない、放送部から借りてきた大型のスピーカーだった。
重量はざっと十五キロといったところだろう。しかも、それが二つ。
荷台を使わずに運ぶとなれば、結構な覚悟が必要になる重さだ。
幸いなことに体育倉庫の隅には手押し用の荷台が置いてあったため、これに乗せれば運び出すのは簡単そうだった。私は持ち上げるための心と身体の準備をする。
「いくよ、琴。せーの……」
「はいよー!」
力を込めてスピーカーを抱え上げる。その瞬間、思ったよりもずっと軽くて驚いた。きっと、ほとんどの重さを琴が自分の側へ負担してくれたのだろう。
『トン』と鈍い音を立てて、一つ目のスピーカーが荷台の上に無事に乗った。
しかし、スピーカー自体がかなりの大きさだったため、荷台のスペースはそれだけで埋まってしまい、一度に一個を運ぶのが限界のように見えた。
私たちはまず、その一つ目のスピーカーをやっとの思いでグラウンドの放送席まで運び終えた。
そして、残された二個目のスピーカーを運ぼうと、再び二人で体育倉庫へ戻る、その道中のことだった。
『ザーーーッ!』
突然、頭上から地面を激しく叩きつけるような、轟音を立てて大粒の雨が降ってきた。
あまりにもうるさすぎる雨の音が、瞬く間に世界を包み込み、私たちがアスファルトを駆ける必死な足音さえもすべて綺麗にかき消していく。
体育倉庫までは、走ってもまだ二分近くかかりそうな距離だった。私たちはどちらからともなく、ぎゅっと互いの手を固く繋ぎ合わせながら、視界を遮る雨の中を無我夢中で走り抜けた。
「はぁ、はぁ、……冷たっ……!」
ようやく体育倉庫の中に駆け込んだときには、二人とも頭から水を被ったかのようにずぶ濡れになっていた。
今日の服装は、汚れてもいいようにと指定された学校の体操服だった。雨を吸って肌にぴったりと張り付いた白い生地のせいで、お互いの下着のラインや素肌の輪郭が、ほんのりと不自然に透けてしまっている。
(これだから、やっぱり雨は嫌いだ……)
私は濡れて冷たくなった肩をすくめ、心の中でそう忌々しげに呟いた。
私が入り口付近に立ち、恨めしそうに外の激しい雨の様子を眺めていると、背後から『ドサッ』という鈍い音が響いた。
驚いて振り返る。
すると、琴が少しホコリの被った体操用マットの上に、力なく腰を落としていた。
可愛いな、と一瞬思ったのも束の間、すぐに違和感に気づく。薄暗い倉庫の光の中でもはっきりと分かるほど、琴の頬が異様なほど真っ赤に染まっていたのだ。
「琴……? 琴、大丈夫!?」
私は自分の服が濡れていることなんてどうでもよくなり、大急ぎで琴のそばへと駆け寄った。
冷たい床やホコリのことも気にせず、そのまま琴の隣にぴったりと座り込む。
まさか、と思って、私は自分の手のひらを琴の額へとそっと当ててみた。
「――っ!?」
冷え切った私の手のひらに触れた琴のおでこは、まるで湧き出る温泉のように、信じられないくらい熱く火照っていた。
「ねえ、琴! 大丈夫!?」
雨の音に負けないよう、私は少し大きな声で彼女に呼びかけた。
「う、うん……。大丈夫、なはず、だけど……」
今まで一度も聞いたことがないくらい、掠れていて、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい声。
その声を耳にした瞬間、私は彼女が酷い高熱を出しているのだと確信した。
激しい動揺と、胸を締め付けられるような愛おしさが同時に押し寄せ、私はほぼ本能的に、琴の華奢な身体を両腕で強く、強く抱きしめていた。
それが一体何分間の出来事だったのかは分からない。世界のすべての音が消え去ったような、ひどく長く、同時に一瞬のようにも感じられる時間だった。
今になって冷静に振り返れば、あのとき私が迷わず琴を抱きしめたのは、看病のためなんかじゃなくて――私自身が、心から琴の温もりを、琴という存在を激しく求めていたからなのかもしれない。
気がつくと、あれほど激しかった雨の音は止み、外は嘘のように静まり返っていた。
けれど、琴の具合は相変わらずで、呼吸も荒く本当にしんどそうにしている。
私はいつか彼女が私がしたように、琴の小さな身体を背中におんぶして、一刻も早く休ませるために保健室へと運ぶことにした。
おんぶをして廊下を歩いている最中、以前に彼女をおんぶしたときよりも、なぜだかその身体が一段と軽く感じられた。「もっとちゃんと食べてるのかな」と少し羨ましく感じる気持ちが頭をよぎったけれど、それ以上に目の前の彼女の体調が心配すぎて、そんな雑念はすぐにどこかへ吹き飛んでいった。
ようやく保健室の前に到着した。私は琴を背負ったままドアを小さくノックする。
「失礼します……」
声を張り上げてみても、中からは何の返事も返ってこない。どうやら保健医の先生は不在のようだった。
「……どうしよう……」
このまま教室に戻るわけにもいかず、廊下で迷っていると、背中の後ろで琴がさらに苦しそうに 小さく身をよじった。迷っている時間はない。私はとりあえず鍵の開いていた保健室のドアを開けて入室し、一番奥にあるベッドに琴をそっと横たわらせた。
「……う、うぅ……」
熱のせいで、琴は苦しそうに小さくうなされていた。かわいそうで見ていられなくなり、私は何かできることはないかと保健室の室内を物色し始めた。まずは備え付けの小さな冷蔵庫を開けると、中に経口補水液のペットボトルを見つけた。それを紙コップに丁寧につぎ分け、少しだけ上体を起こして琴の唇にそっと運んで飲ませてあげる。
水分を口に含んでもなお、琴はしんどそうに眉をひそめていた。私はもっと熱を下げてあげるものを探そうと、部屋の棚という棚を必死になって漁り始めた。
引き出しをいくつも開けた結果、運よく市販の冷えピタが四枚と、電子体温計を見つけ出すことができた。
私はまず、体温計を琴の湿った体操服の脇にそっと挟み込んだ。
そして、熱を効率よく下げるために、冷えピタの一枚目を彼女の熱いおでこに丁寧に貼り付ける。さらに、少しだけ服の裾をめくらせてもらい、熱の籠もった細い両脇腹の肌へ、冷たいシートを一枚ずつ、そっと滑り込ませるようにして貼り付けた。ひんやりとした刺激に、琴の身体が小さくピクリと跳ねる。
そうして懸命に看病をしている間に、二人きりしかいない静かな保健室の中に、計測終了を告げる「ピッピッ」という電子音がやけに大きく響き渡った。
琴はまるで、激しい雨に打たれて萎れてしまった可憐な葉のように、ベッドの白いシーツに全体重を預けて、弱々しく横たわったまま動かない。
「お願いだから、早く熱が下がって……」
私は心からそう祈りながら、ベッドのすぐ横に丸椅子を持ってきて腰掛けた。そして、琴の小さくて白い手を、自分の手でぎゅっと握りしめた。
そのとき、寝返りを打とうとした琴の身体が少し傾き、彼女の背中が私の正面に見えた。私はすかさず、残っていた最後の一枚の冷えピタを、彼女の体操服の隙間から背中の中央部へと優しく貼り付けた。
冷えピタをすべて貼り終えると、私は空いていた自分の両手のうち、片方の手を琴の手と指を絡ませるようにして、深い『恋人繋ぎ』で強く握りしめた。そして、もう片方の手のひらを、その繋いだ手の上に包み込むようにしてちょこんと重ねる。
熱のせいで、琴の手のひらは少し汗ばんでいた。
それに応える私の手のひらも、緊張と祈りのせいで、同じくらいじっとりと汗ばんでいたように思える。
琴の苦しみが少しでも和らぐこと、そして一刻も早く良くなることをただひたすらに願いながら、私は繋いだ手の温もりを確かめるように強く握り続け、眠る彼女の顔を、ただじっと見つめ続けていた。
10
「……天野さん。……天野さん、起きなさい」
耳元で優しく自分を呼ぶ声に、私はハッと意識を取り戻した。
どうやら私は、ベッドの脇に置いた丸椅子に腰掛けたまま、琴の手を握った状態でいつの間にか眠りに落ちていたらしい。
声のした方向へ慌てて振り返ると、大きな窓からはオレンジ色の温かい夕陽の光が差し込み、室内を静かに照らしていた。
そして視線を上に上げると、すぐそこに心配そうな表情を浮かべた保健医の先生の顔があった。
「どうしたのですか、天野さん。こんな時間に二人きりで……」
「あ、あの……! その、琴葉さんの体調が急に悪くなってしまって。それで、ここまでおんぶして連れてきたんです」
言い訳をするように、私は慌てて状況を説明した。
「そうなのね。体温は測ったの?」
「は、はい。えっと、確か……三七・八度だったと思います。結構高かったので心配で……」
「あら、それなりに高かったのね。でも、もう大丈夫そうよ?」
「えっ?」
先生の言葉に首を傾げ、私はベッドの上へと視線を戻した。
するとそこには、先ほどまでのうなされていた姿が嘘のように、いつもの元気いっぱいの笑顔でこちらをじっと見つめている琴の姿があった。
「琴……もう、身体は平気なの?」
「うんっ! 春ちゃんの看病のおかげで、ふっっか〜つ!」
ベッドの上で大はしゃぎしながら、琴は両手を突き上げて見せた。
「……よかったぁ」
その底抜けに明るい声を聞いた瞬間、私の口からは心の底からの安堵の声が漏れ出ていた。
「じゃあ、お家へ帰ろっか、春ちゃん!」
「そうだね、そうしよう」
私たちはベッドの周りを手早く片付け、「失礼しました」と先生に二人で声を合わせて頭を下げ、保健室をあとにした。
廊下に出る際、壁の時計をチラリと盗み見ると、針はすでに午後五時三十分を指していた。
(……私、なんでよりによってあのタイミングで爆睡しちゃうかなぁ)
せっかく格好よく看病して、ヒロインの目覚めを待つようなシチュエーションだったのに、自分まで寝込んで先生に見つかってしまったことが、なんだか無性に恥ずかしい。
心の中でそんな風に小さく悔しがりながら、私は琴の歩調に合わせて、並んで家路へと足を運ばせた。
明日は待ちに待った体育大会の本番だ。今日はいろんなことがあって疲れちゃったし、夜は早く寝よう、と私は密かに心に決めていた。
◇
うなされるような深い熱の波を彷徨いながらも、繋がれた右手に、どこか心地よくてこそばゆいような不思議な感覚を覚えて、私はゆっくりと目を覚ました。
すぐ横を見ると、そこには小春がいた。
しかも、ただ手を握っているだけじゃなくて、お互いの指と指を深く絡ませるような、完全な恋人繋ぎの状態で。
目を開けた瞬間、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなかったけれど、鼻をくすぐる微かなアルコールの匂いで、ここが保健室のベッドの上なのだと察した。
体育倉庫で座り込んで小春におでこを触られたところまでは覚えているけれど、それ以降の記憶は熱のせいで酷く朧気だった。
私は時々、自分でも本当に元気なのか、それとも体調を崩しているのかの境界線が分からなくなる。けれど、状況から見て、おそらく小春がここまで私を一生懸命におんぶして運んでくれたのだろう。
ふと小春の姿に目をやると、彼女の着ている体操服の肩のあたりは、あの時の雨のせいでまだじっとりと濡れそぼっていた。肌にぴったりと張り付いた白い生地から、小春のブラジャーの淡いラインが、隠しようもなく透けて見えてしまっている。
私はドギマギする胸を抑えながら、すぐ至近距離にある小春の顔を見つめた。
あのお泊まりの翌朝、どうしても見ることができなかった小春の無防備な寝顔が、今、私の目の前にある。
(……小春の寝顔、前からこんなに可愛かったっけ?)
そんな贅沢な疑問を頭の片隅に浮かべながら、私は今度こそチャンスを逃すまいと、その愛おしい寝顔を思う存分じっくりと拝ませてもらうことにした。小春が起きるのを待つその時間は、私にとって何よりも幸せなひとときだった。
それから五分ほど、静かな時間を二人だけで満喫していると、廊下から足音が聞こえて保健室の先生が入ってきた。
「あら、土井さん大丈夫……? それに天野さんも、こんなところで……」
先生は驚いたように目を見張ると、私の横で疲れ切って眠っている小春を起こそうと、彼女の肩を優しく揺すりながら声をかけ始めた。
(……ちぇ。せっかくいいところだったのに、まだ起こさなくてもいいのに……)
心の中で少しだけ先生に不満を抱きつつも、私は小春が目を覚ますその最後の瞬間まで、彼女の愛らしい寝顔から視線を外さずにじっと見つめ続けた。
その後は、少し恥ずかしそうにしている小春に手を引かれ、連れられるがままに、嬉しさを噛み締めながら二人で一緒に帰路についたのだった。
11
体育大会の当日の朝。
私はいつもよりもずっと早い時間にパチリと目を覚ました。
身に纏う服装そのものは、昨日準備した体操服とほとんど変わらない。けれど、今日ばかりは一人一人に一本ずつ、クラスのカラーの鉢巻が与えられる。体育大会の日だけは、髪の毛に関する厳しい校則がほとんど無視された状態になるのが我が校の毎年の恒例だった。先生たちも、このお祭りの日だけは微笑みながらひっそりと黙認してくれている。
とはいえ、私の髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられているため、劇的な変化を加えることはできない。せめてもの抵抗として、私は毛先に少しだけパーマをかけるおめかしをしてみた。鏡に映る自分の姿がどこか新鮮で、胸が小さく高鳴る。
肝心のチーム分けについては、全校生徒が赤と白の二つの組に分かれて競い合うことになっていた。
残念ながら、私と琴のチームは別々になってしまった。私が白組で、琴が赤組だ。
(せっかくの体育大会なのに、別々なんだ……)
と最初は少し落ち込んだけれど、グラウンドに設営された自陣のテントへ行ってみて驚いた。なんと、赤組と白組のテントがちょうど境界線で隣り合っており、私と琴の席はチームの壁を越えて完全に隣同士に配置されていたのだ。
(……こんな奇跡、本当にあってもいいのかな)
神様の粋な計らいに感謝しつつ、私は今日という日がとんでもなく幸せな一日になるだろうという予感に満たされていた。
そろそろ、琴を家に迎えに行く時間だ。私は胸の高鳴りを抑えきれず、弾かれるようにして家を飛び出した。
琴の家へと向かう道中、普段は絶対にかけないパーマのせいで「変な髪型になっていないかな」と少し不安が頭をよぎる。けれど、あの子のことだ。きっと何かしら可愛い言葉をかけてくれるに違いない。そう心の中で期待を膨らませると、自然と足取りが軽くなり、気づけば少しスキップ気味に歩いていた。
琴の家の前に到着すると、彼女はすでに玄関先に出て、結んだばかりの自分の髪を指先でくるくるといじりながら待っていた。
少しでも近づいて、その姿をよく見たい。私は無意識のうちに歩幅を狭め、足を早めた。
普段、琴が丁寧に伸ばしている髪は、下ろすとちょうど肩甲骨の下あたりまで美しく伸びている。
そんな彼女が、今日は髪を高い位置できゅっと結び、瑞々しい「ポニーテール」に仕上げていたのだ。歩くたびにきれいに揺れる黒髪。
(なに、これ……!? 信じられないくらい可愛い……本物の天使じゃん……!)
私は言葉を失い、心の中で思いっきりそう大絶叫しながら、ただ怠然と琴の姿を見つめていた。
私の視線に気づいた琴は、少し恥ずかしそうに頬をほんのりと赤く染める。
「じゃあ……そろそろ、行こっか……?」
上目遣いでそう促され、私たちはようやく学校へと向かって出発した。
いつもより二十分ほど早く家を出たため、通学路にはまだ他の生徒の姿がほとんど見当たらなかった。静寂に包まれた朝の澄んだ空気の中を、二人で並んで歩く。
すると、隣を歩く琴がもじもじと指先を動かしながら、小さく声を漏らした。
「……手、つな……ご? 春ちゃん」
その天使のような愛らしいおねだりに、私の心の中に少しだけ意地悪な気持ちが芽生える。一瞬だけ「やだっ」と突き放して、彼女が困る顔をからかってみたい、なんて誘惑に駆られたのだ。
けれど、こんなに無垢で可愛い顔の前でそんな不届きなことをしたら、神様に千年経っても許してもらえないような、とんでもない天罰が下るに違いない。急に特大の罪悪感が押し寄せてきて、私は素直に「いいよ」と言って彼女の手を握りしめた。
どうやら朝一番の琴は、いつもの太陽みたいな元気さは身を潜めていて、どこかふわぁ〜っとした眠たげな雰囲気を纏っていた。
何か楽しいおしゃべりでもしようかと考えたけれど、誰もいない静かな朝の通学路で、二人でこうしてそっと手を繋いで歩けることの幸福感があまりにも大きすぎて、言葉を交わすのがもったいなく思えてしまう。楽しいお話は、体育大会の隙間時間にとっておくことにしよう。
私は繋いだ手の温もりを確かめるように歩いた。いつもより数倍早く、そして数十倍もの圧倒的な幸福感に包まれながら、私たちは学校に到着した。
名残惜しいけれど、誰かに見られるわけにはいかない。繋いでいた手は、校門をくぐる直前でそっと離された。
しばらくして、全校生徒が各々の応援席へと移動する時間になり、私は当然のように琴と並んでグラウンドのテントへと向かった。
本当は、朝の登校のときみたいにまた彼女の手を握りたかったけれど……さすがに学校の敷地内、幕も全校生徒の目の前でそんな大胆な真似はできなかった。
今回、私たち二人が出場する競技はそれぞれ三つずつだった。
私は、徒競走と、借り物競争と、クラス対抗リレー。
琴は、選抜者リレーと、障害物競走と、クラス対抗リレーだ。
琴は本当に運動神経が抜群で、クラスの女子の中でも足の速さは毎年確実に五本の指に入るほどの実力者だった。それに比べて、私は昔からあまり運動が得意ではない。だからこそ、走る速さよりも運要素でなんとかなりそうな「借り物競争」への出場を希望したのだ。
華やかな開会式が始まり、校長先生の長い開会の言葉や、全員での準備運動などをこなしているうちに、時間はあっという間に過ぎ去って競技本番の火蓋が切って落とされた。
まずは、私の最初の出番である徒競走だ。
心臓をバクバクさせながら全力でグラウンドを駆け抜けた結果、七人の中で走って四位という成績だった。一等賞には遠く及ばなかったけれど、運動が苦手な私にしては、まずまずわりと頑張った方だと言えるだろう。
ゴールを駆け抜けて息を切らせる私に向かって、琴は隣のテントの最前線から、身を乗り出すようにして元気いっぱいに声援を送ってくれていた。
しばらくして、今度は琴が出場する障害物競走が始まった。
私は自分の座席から立ち上がり、白組の応援団の勢いに負けないくらいの熱量と大声で、赤組の席にいる琴に向かって全力でエールを送った。
私の声が届いたのか、琴は華麗に障害物をクリアしていき、見事ぶっちぎりの一位でゴールに飛び込んでみせた。
嬉しさのあまりグラウンドの真ん中で「やったー!」とぴょんぴょん跳ね回っているポニーテール姿の琴は、小動物のようでたまらなく可愛かった。
競技はさらに中盤へと差し掛かり、クラスの俊足たちが集まる選抜者リレーの時間がやってきた。
グラウンドを大きく使った激しいデッドヒートの末、リレーは無事に終わり、琴のいる赤組が見事一着でゴールテープを切った。
バトンを握りしめ、風を切って一生懸命にグラウンドを疾走する琴の姿は、まるで野生のチーターのように圧倒的に速かった。いつもは甘えん坊で可愛い私の相棒が、その瞬間だけは打って変わって、とてつもなく格好いいヒロインのように私の目に焼き付いた。
やがて前半の競技がすべて終了し、少し長めの休憩時間が訪れた。ようやく、琴と二人だけで話せるチャンスだ。
私は自分の白組の席を立ち、琴の水筒とタオルを両手に携えて、赤組のテントにいる彼女の元へと歩み寄った。
「お疲れさま、琴」
声をかけながら、冷たい水筒とふわふわのタオルを差し出す。
「お疲れ〜〜っ! 春ちゃん!」
琴はタオルを受け取ると、嬉しそうに汗を拭った。
「走ったらめっちゃ暑かったから、本当に助かる〜!」
いつもの太陽のような元気いっぱいの声が返ってきて、なんだか私まで嬉しくなる。私は彼女の揺れるポニーテールを見つめながら、素真な言葉を口にした。
「……今日の髪型、すごく可愛いじゃん、琴」
「――っ……あ、ありがとう……」
さっきまでの元気は一体どこへ行ってしまったのだろう。琴は急に言葉を詰まらせると、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。その照れ方がまた愛おしい。
「春ちゃん……こそ……その、毛先のパーマ、すっごく可愛いじゃん……!」
琴は今度は両手の指先をモゾモゾと動かしながら、恥ずかしそうに目線を地面に落として健気に褒め返してくれた。そのウブな姿を見ていると、私の心の中のちょっと意地悪な小悪魔がまた顔を出す。
「ねえ。そんな下ばっかり見てないで、ちゃんと目を合わせて言ってほしいなぁ〜」
わざと少し甘えたような声を零して、彼女の顔を覗き込んでみる。
「っっ……だから……! その……春ちゃんのパーマ、すっごく、かわいい……よ!」
琴は限界まで顔を真っ赤に染め上げながら、意を決したように潤んだ上目遣いで私の目をじっと見つめて、そう言いきった。
(……うわ、今の顔はずるすぎる。反則だよ……)
仕掛けたはずの私が逆に胸を撃ち抜かれてしまい、心臓が大きく跳ね上がる。「あ、ありがとう……」と、今度は私の方が照れ隠しで短くお礼を述べるのが精一杯だった。
休憩時間はまだ十分ほど残されていた。周りの賑やかな喧騒から少し離れたくて、私は琴の細い手首をそっと引っ張り、グラウンドの隅にある大きな木陰へと彼女を連れて行った。
二人で並んで涼しい木の根元に腰を下ろす。私たちはどちらからともなく、地面の上に置いたお互いの手を重ね合わせ、指をきゅっと絡ませる深い恋人繋ぎを交わした。
目の前に広がる青空とグラウンドをぼんやりと眺めながら、ただ手を繋いで黄昏れる。贅沢で、穏やかで、ただ時間が過ぎていくのをこれ以上ないほどの幸せな気持ちで待ち続けた。
短い休憩時間が終わり、次はいよいよ私の出場する「借り物競争」の出番がやってきた。
入場門の前に並び、ついに私のレースの番になる。
(頼むから、私でもすぐに見つけられるような、簡単なお題にしてくれ……!)
心の中で祈るようにそう願いながら、スタートの合図とともにグラウンドの中央へ走り、地面に伏せられた紙を勢いよくめくった。
そこには、綺麗な明朝体でこう書かれていた。
『一番、笑顔が素敵な人。』
文字を目にした瞬間、私の脳裏に思い当たる人物なんて、世界中でただ一人しかいなかった。
(そんなの――琴しかいないだろ!)
私は考えるよりも先に、カードを握りしめて赤組の応援席テントへと向かって全力で走り出していた。
「おぉ〜、春ちゃんじゃん! 頑張って〜〜っ!」
自分が連れ出されるなんて一ミリも思っていなさそうな顔で、のんびりと手を振って応援してくれている琴の元へと突撃する。
「琴、一緒に来て!」
「えっ、わわっ!?」
私は驚く琴の細い手を力強く引っ張り、そのまま彼女の手を引いてゴール目指してトラックを駆け抜けた。
終始、琴の顔はキョトンとしていて、自分の身に一体何が起こったのか全く分からないといった様子だった。
手を繋いで全力で駆け抜けた結果、順位は二位でのゴールだったけれど、私の中での達成感と成果は一等賞よりもずっと大きかった。
「ねえねえ、春ちゃん! お題は一体何だったの??」
息を整えながら、琴が不思議そうに顔を覗き込んできた。
私は、彼女の眩しいポニーテールを見つめながら、目の前の琴に負けないくらいの満面の笑顔を浮かべて答えた。
「――笑顔が一番、素敵な人!」
「えっ……! そ、そうかぁ〜〜……! なら、いっか!」
私の言葉の意味を理解した瞬間、琴はぱあっと顔を輝かせ、嬉しさを隠しきれない様子でルンルンと胸を張った。お題に選ばれたことが、どうしようもなく嬉しかったらしい。私たちは最高の気分のまま、二人並んで自席のテントへと戻った。
楽しい体育大会もいよいよ終盤に差し掛かり、残る競技は最後の「クラス対抗リレー」だけになってしまった。
今回のリレーの走順では、なんと私からバトンを受け取る次の走者が、他ならぬ琴だった。
(最後は、琴の前で最高のいいところを見せてやろう)
私はぐっと拳を握りしめ、胸を張ってグラウンドのトラックへと入場した。
いよいよレースが始まり、会場のボルテージは最高潮に達する。前を走るクラスメイトが必死にバトンを繋ぎ、ついに私の番がやってきた。私はバトンをひったくるように受け取ると、次のゾーンで待つ琴の姿だけを見つめて、壊れそうなほど必死に足を動かした。
近づいてくる琴の背中。私は限界まで手を伸ばし、彼女の手のひらへとバトンを押し込んだ。
「……任せたよ、琴!」
並走しながら小声でそう叫ぶ。
私の想いをすべて受け取った琴は、振り返ることなく「はいよー! 任せて〜〜っ!」と、グラウンド中に響き渡るような元気な声で答え、一瞬で加速して前方のランナーを次々と抜き去っていった。
あっという間にアンカーがゴールを駆け抜ける。
結果は、見事私たちのクラスが一位を掴み取ることができた。学級委員の二人で繋いだバトンが勝利をもたらしたのだと思うと、胸の奥が熱いもので満たされた。
その後、賑やかな閉会式が行われ、全校生徒は充実感を顔ににじませながらそれぞれの教室へと戻っていった。
ホームルームの時間、教室では今日の勝利を祝してクラスの打ち上げを行うことになり、黒板の前で出欠の確認が始まっていた。
私は席を立ち、赤組の席から戻ってきた琴の元へと確認をしに向かった。
「琴、打ち上げどうする?」
「私は、春ちゃんが行くなら行くよ!」
琴は迷うことなく、にこっと笑ってそう言ってくれた。私は彼女の言葉に胸を温めながら、「じゃあ、一応顔を出すってことで出しておこうね」と答え、その放課後はいつものように二人きりで帰路についた。
いつもの帰り道。お互いの健闘を称え合いながら話す私の心は、実は別の理由でも激しくワクワクとしていた。
なぜなら、今まで恋愛系の小説や漫画といったジャンルに一切触れてこなかったこの私が、つい先日、本屋で気まぐれに「恋愛漫画」を一冊、こっそりと購入していたからだ。次の日は待望の休日。家で一人でその未知の扉を開くのが、楽しみで仕方がなかったのだ。
そんな秘密の期待を胸に抱きながら、琴と楽しくお喋りをして歩いていると、分かれ道の直前で琴がふと足を止め、私を見つめてきた。
「ねえ、春ちゃん。明日って、お家空いてる……?」
「漫画はいつでも読めるから、別に何時でもいいよ。何?」
私がそう答えると、琴は「本当に!?」と目を輝かせ、一歩距離を詰めてきた。
「じゃあ……また、春ちゃんのお家に、お泊まりさせてもらってもいい……?」
予想外の、けれど嬉しすぎる提案だった。
実を言えば、明日の我が家は偶然が重なっていた。お父さんは長期の出張。お母さんは友人の結婚式に出席したあとそのままホテルに宿泊するため不在。お兄ちゃんは大学の研修で帰ってこないし、弟は今日から数日間の修学旅行へと旅立っている。
つまり明日の我が家には、家族が誰一人としておらず、私一人の完全な独り占め状態――すなわち、琴を迎え入れるにはこれ以上ないほどに完璧なタイミングだったのだ。
「いいよ! ちょうど暇だし、おいでよ」
「やった〜〜〜っ!」
琴はグラウンドのときと同じように全身で喜びを表現し、明日のお泊まり会が正式に決定した。
すると、胸の高鳴りを隠せない私に向かって、琴がさらに小さく首を傾げた。私も負けじと、ずっと心の中で温めていた小さな希望を口にしてみる。
「……ねえ。私からも、一つだけお願いしてもいい?」
「いいよ〜〜っ! 何でも言って!」
琴がいつもの笑顔で返してくれたので、私は少し照れ臭さを堪えながら言った。
「……私たちの、鉢巻を交換してほしいな、って」
「えっ……! いい、けど……。でもね、一日中使ってたから、ちょっと……汗臭いかも、だよ……?」
琴は驚いたように目を見張ったあと、恥ずかしそうに眉を八の字に下げ、自分の赤い鉢巻を両手で少し躊躇いがちに差し出してきた。
「私の白組の鉢巻だって、そんなに変わらないよ!」
私はそう言って笑いながら、自分の白い鉢巻を彼女の手へと手渡した。
お互いの鉢巻を交換し、手のひらにその布の感触をきゅっと握りしめる。
そのときの琴の照れた顔は、優しく差し込む茜色の夕陽に照らされて、これまでに見たどんな姿よりも最高に輝いていて、胸が苦しくなるほどに可愛かった。
我が家に帰り着いた私は、カバンを置くのもそこそこに、家中をこれでもかと念入りに掃除して回った。リビングも、廊下も、そしてもちろん、明日二人で過ごすことになる私の自室も、ピカピカに磨き上げる。
すべての準備を終えて、私はベッドの中に潜り込んだ。
今日一日の、グラウンドでのたくさんの幸せな出来事や手を繋いだ感触を静かに噛み締めながら、そして――誰の目もない空間で、大好きな琴と二人きりで過ごすことになる明日という特別な日が来るのを、今から待ち遠しくて仕方がなく思いながら、私は心地よい眠りへとついていった。
続編を読んでいただき誠にありがとうございます。
次も満足のできるものが仕上がり次第更新します。
これからも読んでいただければ幸いです。




