変化の訪れ
初めての投稿のため誤字脱字があるかもしれません。
あらかじめご了承ください。
また、この小説はGLです。
プロローグ
どうして、雨は―――。
あなたとの本当の始まりと言えるのは、あの雨の日だった。
アスファルトを叩く雨の不規則なリズムが、まるで私を導くように……。
あの日も、天気予報は晴れだった。
降水確率にいたっては、たったの二十パーセント。そんな中で降ってきた突然の雨。
今思えば、あれはすべて「雨の悪戯」だったのかもしれない。
1
私の名前は、天野小春。どこにでもある普通の高校に通う、ごく一般的な高校二年生だ。
特に将来の夢もなく、やりたいこともない。中学の頃、担任の先生に勧められるがままにこの学校へ進学した。
これといって特別に好きなものはないけれど、強いて言えば、読書が好きだ。本を開いている時間は、なんとも言えない絶妙な孤独感と静けさに包まれる。その空間が、私はとても気に入っていた。
逆に、嫌いなものといえば雨の日だ。
音はうるさいし、湿度のせいで空気もジメジメする。女子にとっては天敵と言えるだろう。
しかし、そんな平穏で退屈だった私の日常に、変化が訪れる日がやってくる。
2
高校二年に進級してすぐのこと。私のクラスでは学級委員がなかなか決まらず、教室にはどんよりとした空気が流れていた。
この学校の学級委員は他校に比べて仕事内容が二倍近く多く、お世辞にも人気のある役職ではなかったからだ。
誰もが押し付け合おうと下を向く中、静寂を破る声が響いた。
「はーい! 私と小春さんがしまーす!」
いつも耳にする、とてつもなく元気で、少しうるさく感じるけれど、どこか優しさに包まれた高い声。
その声を例えるならば、突き抜けるような晴天の日に、天使が耳元で大声で叫んでくるようなものだった。
声の持ち主は、私の幼馴染である土井琴葉。
彼女の発言から察するに、どうやら私と一緒に学級委員をやりたいらしい。
私たちの高校には「男女一人ずつ」という決まりは特にないため、女子二人で引き受けることも可能だった。
私自身は、大学への内申点のために校内で一番楽だと言われている文化委員に入ろうとしていたのだ。それなのに急に名前を呼ばれ、驚きのあまり思考が硬直してしまう。
私が固まっている隙に、事態は気づけば動き出していた。教室にパラパラと拍手が沸き起こり、完全に断れない状態になってしまったのだ。
その後の授業中、私はすっかり意気消沈していた。魂が抜けて、まるで幽霊にでもなってしまったかのような気分だった。
気づけば放課後になり、るんるんとした様子の琴葉が私の席へとやってきた。
「今日から頑張ろうね、相棒!」
「えっ、え、あの……その……」
状況がまだ頭のなかで噛み合わなくて、言葉がうまく出てこない。
「今日の放課後、早速委員会の集まりがあるから一緒に行こうね」
そこでようやく、琴葉の言葉が滝のように頭の中へ流れ込んできた。
「う、うん、わかった。一緒に行こう」
「私、委員会って初めてだからよろしくね」
「私も初めてだから……一緒にがんばろう」
「そうなの? てっきり小春はもう入ったことがあるのかと思ってたよ」
「そう? そう見えたのなら、ちょっと得した気分かも」
「これから毎日話せるね! 帰るのも一緒がいいな〜」
琴葉が、私の顔を下から覗き込むように、じっと舐めるような視線を向けてくる。
「わかったよ、いいよ。今日から一緒ね」
そのとき、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、私たちはそれぞれの席に戻った。
時間が経ち、放課後になった。
「じゃあ、行こ!」
琴葉に腕を引かれるようにして、委員会の集まる教室へと向かった。
今回の学級委員会は仕事内容の説明だけだったが、それでも一時間近くかかった。
ようやく解放された私は、早く家に帰って自室にこもり、思う存分本を読もうと急いで靴を履き替えて下駄箱をあとにした。
なぜそんなに急いでいるかというと、委員会のあと、教室に忘れ物を取りに行って琴葉を待たせてしまっているからだ。
「おまたせ! 待った?」
遅刻したときの常套句を口にしてみる。
「うん、結構待った」
「ほんとにごめん……」
てっきり「ううん、全然!」と返ってくるかと思ったので、少し予想外の方向だった。けれど、待たせた自分が悪いのは確かだから何も言えない。
帰り道。
私はこれまで、基本的には一人で下校することが多かった。
たくさんの人に囲まれて、気を使いながら話して帰ると、とんでもなく疲れが溜まってしまうからだ。
しかし、琴葉と歩く帰り道は不思議とそんな疲れを感じなかった。久しぶりに二人きりになったからか、いつもより少し口数が少ないようにも思える。
静けさが好きな私に、琴葉が気を使ってくれているのかもしれない。そう思うとなんだか申し訳なくなった。
琴葉とは趣味が合う点がたくさんあったから、本当はむしろ、もっと彼女のことを知りたいし、もっと話してほしい。けれど、そんな本音をなかなか口に出すことができなかった。
穏やかな時間が流れ、やがて分かれ道に差し掛かると、私たちは手を振ってそれぞれの家へと別れた。
家に着き、「ただいま」と玄関の扉を閉める。
台所からは、お母さんが夕ご飯の支度をしている心地よい音が聞こえてきた。
私の自室は二階にある。ドアを閉めてしまえば下の階の音はまったく聞こえなくなるため、読書に思う存分集中できるのだ。
制服から部屋着に着替え、本を読んでいると、「ご飯できたよー」という声が一階から聞こえた。私は栞を挟んで手を止め、リビングへと向かった。
我が家では、夕食の席で今日の出来事を報告し合うのが習慣になっている。
「いただきます」と言ったあと、私は家族の前で「学級委員になりました」と報告した。
「えっ?」
家族のほとんどがピタリと箸を止めた。状況を把握していないのか、それともご飯に夢中になっているだけなのか、弟の咀嚼音だけが静かな部屋に響く。
「学級委員って、あの大変な仕事のやつ? 頑張るのはいいけど、無理しすぎちゃだめよ」とお母さんが心配そうに言う。
「学級委員なんてやったことないからよくわからんが、頑張れよ」とお父さん。
「相方は誰? どんな人? 今、何時間くらいで委員会終わるの?」と同じ高校に通い、学級委員の経験もある大学生のお兄ちゃんが質問攻めにしてきた。
「そうだなぁ……」
少し前置きをしてから、説明を始めた。
「土井琴葉っていう子だよ」
「あ〜、あの小学校から一緒の、あの子ね」
「お母さん、知ってるの?」
「ええ、小春の参観日で何度か見たことがあるわよ。元気いっぱいで可愛いのよね〜」
すると、お兄ちゃんが残念そうな、あるいはからかうような、矛盾したニヤニヤ顔で聞いてきた。
「女の子?」
「そうよ。なにか悪い?」
ツンとして返すと、お兄ちゃんは肩をすくめた。
「そうか〜。小春にもついに彼氏ができたのかと思ったのに、残念」
その瞬間、お父さんの顔色がみるみる鬼の形相へと変わっていくのがわかった。私は焦って、急いで話題を変えるようにお兄ちゃんへ目線で合図を送った。
それから、お兄ちゃんのサークルの話や、今日の献立の材料当てクイズをお母さんが始めたりして、我が家の夕食は無事に賑やかなまま終わりを迎えた。
3
あれから、一ヶ月が経過した。
ある朝、琴葉と一緒に登校していると、ふいに彼女が提案してきた。
「ねえ、二人だけのニックネームみたいなのつけない?」
言われてみれば、この一ヶ月間、二人で話すときにお互いの名前を呼ぶことがあまりなかったように思える。
私はその提案を了承した。ニックネームを決めるため、私たちは帰り道にコンビニへ寄り、アイスと飲み物を買ってイートインスペースに腰を下ろした。
「やっぱりさ、ニックネームって本名から取るのかな? それとも、オリジナリティ溢れる感じのを一から作るのかな?」
「私は、基本的には上の名前で誰かを呼ぶことが多いかな」
「じゃあ……『春ちゃん』はどう? そんでもって、私は『琴ちゃん』。これでいこう!」
「もちろん、そう呼ばずに下の名前で呼んでもいいけど……」
なんだか少し幼稚な響きに聞こえたけれど、一生懸命考えている姿が可愛らしく思えて、私は頷いた。
「これからもよろしくね、春ちゃん!」
「こちらこそよろしく、琴」
口にしてみると、ニックネームで呼び合うのも悪くないなと思った。
琴の顔を見ると、少し照れているようで、頬がほんのりと赤らんでいた。その照れ顔があまりにも可愛くて、コンビニのアイスと一緒にじっくりと味わっているような、なんとも言えない背徳感に胸が満たされた。
「ごちそうさまでした」
私がそう言って手を合わせると、琴はオウムのように「ごちそうさまでした」と真似をして、二人の帰路についた。
道中、「土曜日、空いてる?」と琴に聞かれた。
どうやら駅の近くにあるパフェのお店がリニューアルオープンするらしく、そのお誘いだった。
私は甘いものは好きだけれど、おしゃれなお店にはとてつもなく疎い。休日はいつも本を読むか家族で出かけるくらいで、特に予定もなかったため、すぐにオッケーを出した。
「やったー!」
琴が飛び跳ねるようにして喜んだ。
「じゃあ春ちゃん、開店時間が十時だから、九時半に駅前集合でいい?」
「いいよ。そのあと、どこか行くところある?」
「近くのショッピングモールで遊ばない?」
「いいわね。じゃあ、そのプランでいこっか」
「うん! 楽しみにしているからね」
その日、家に帰った私は、嬉しかった出来事の数々で胸がいっぱいになっていた。心地よい疲れに襲われ、ベッドに倒れ込むとそのまま眠ってしまっていた。
目が覚めると朝になっていた。お風呂に入っていなかったことを思い出し、さっとシャワーを浴びる。
温かいシャワーで完全に目が覚めた状態で時刻を確認すると、まだ朝の五時だった。宿題が終わっていなかったため、すぐに机に向かって手をつけた。
すべて終わった頃には家族が起き出し、朝食の時間になっていた。
今日は金曜日。土曜日の楽しみがすぐそこに迫っていると思うと、いつもより心が弾んだ。学校で琴に会い、いつもと変わらない賑やかな日々を過ごす。
今日の放課後は学級委員会がある。
だが、明日の楽しみに比べたらこれくらい全然余裕だ、と高を括っていた。しかし、予想に反して今回はがっつりとした話し合いの回だった。
激闘の討論の末、ようやく委員会が終わったときには、時計の針はすでに午後六時を示していた。
学校を出て帰り道を歩いていると、「はぁ〜〜、疲れたよ〜〜、は・る・ちゃ〜ん」と、琴が背中からがっしりと抱きついてきた。
校門のすぐそばだったため、人目を避けて場所を変えることにした。向かったのは、コンビニのすぐ隣にある小さな公園だ。
飲み物と軽いスナックを買い、二人でベンチに腰掛けた。
「今日は本当に疲れたよ〜」
「よしよししてくれない〜?」
少し甘えたような声。私は「うん」と微笑んで、琴の頭を優しく撫でた。
琴の髪は驚くほどつやつやしていて、シルクのように触り心地がいい。最近、自分の中に妙な母性が湧いてきたのか、琴に対してつい甘くなってしまうのだ。
「明日、楽しみなんだかられ……」
なんだか口調がおかしい。不思議に思って琴の顔を覗き込むと、今にも眠りそうなほどに瞼が閉じかけていた。限界まで眠気を耐えているようだった。
「もう、元気なのかしんどいのかどっちなのよ」
呆れ半分、愛おしさ半分でそう呟き、私は琴を背中におんぶして歩き出した。
担いでみると、思ったよりもずっと軽かった。推定で四十キロほどだろうか。それと同時に、少し羨ましいなとも思ってしまった。あまり大きな声では言えないが、私は最近少し太ってしまったのだ。ダイエットを頑張れば落としきれる程度の体重だが、それでも結構辛い。
琴の家へと向かう。幸いなことに、琴の家と私の家は徒歩五分ほどの距離だった。
インターホンを押すと、お母さんらしき女性が出てきてくれた。
「あなたが小春ちゃん?」
「はい、はじめまして。天野小春といいます」
「こちらこそ。琴葉の母です」
お母さんは、琴の身長をそのまま伸ばし、性格をそっくりそのまま正反対にしたような、冷静沈着そうな人だった。琴が太陽の天使なのだとしたら、お母さんは澄んだ水の女神と言えるほどに美しかった。
眠ってしまった琴をお母さんに引き渡す。
「明日は琴葉をよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その言葉を最後に、私は自分の家へと足を向けた。
我が家に帰着すると、自分でもわかるくらい気分が舞い上がっていた。普段は肌のケアなどに疎い私だったが、お母さんから最低限のことを教えてもらい、丁寧にパックを実行した。
夜が来ても、眠気はあるのに明日のお出かけのことばかり考えてしまい、なかなか寝付けない。そうしてベッドの中で寝返りを打っているうちに、気づけば朝が来ていた。
一応眠ることはできたみたいだが、覚えている限りでは午前一時に時計を見た気がする。睡眠時間で言えば約六時間。睡眠不足とはギリギリ言えないラインだが、楽しみすぎて頭が冴え渡り、眠気なんてどこかへ吹き飛んでいた。
約束の時間ぴったりに駅に着くと、琴はもうそこで待っていた。
以前使った常套句をもう一度口にする。
「おまたせ! 待った?」
「ううん、全然待ってないよ。さっき着いたところ!」
予想通りの可愛い返事が返ってきてなんだか安心したけれど、あのとき返ってきた「結構待った」という少し拗ねた返事が、どこか恋しいようにも感じられた。
「じゃあ、列に並びに行こうか」
言われるがままに、琴の後ろをついていく。
「結構並んでるね」
「そうだね。まぁ、リニューアルオープンだし!」
「それに、ここ前からすっごく人気なんだもん」
にっこりと満面の笑みを浮かべる琴を見て、つくづく可愛いなと思う。
琴の話によると、このお店はインスタ映えすることで特に女子高校生の間で大人気らしい。今日は開店までまだ三十分もあるというのに、ざっと数えても五十人ほどの行列ができていた。
「並んでる人数は多いけど、心配しなくていいよ、春ちゃん!」
「ここのお店、二階建てになって席が二十席ほど増えたから大丈夫だよ〜」
前々から一生懸命調べてくれていたのだろう。琴が少し自慢げに胸を張る。もともと二十席ほどあったところにさらに増えたのなら、少し待てばすぐに入れそうだった。
いつもなら、こうした待ち時間などの空いた時間があれば持ってきた本を読む。けれど、今日は違った。
本を読もうとしてもお構いなしに、琴はおすすめのメニューや今日買いたいものについて、お店に入るまで永遠と語り続けていたからだ。
無我夢中で、小さな口を一生懸命に動かして話す琴は、まるで冬眠前のリスのようでたまらなく愛らしかった。
ようやく私たちの順番が来て、ウッディなテーブル席へと案内された。店内の雰囲気は和モダンで統一されており、とても心が癒される。
メニューを開くと、約十種類ほどの華やかなパフェやラテ、コーヒーなど、たくさんの種類が並んでいた。私はその中から、期間限定の「さくらんぼパフェとカフェラテ」のセットを注文した。琴は「すももパフェとジャスミン茶」のセットを選んだ。
品物を待つ間も、琴は並んでいたときと同じように、いきいきとこのお店の良さを語り出した。私からすれば専門用語ばかりでまるで呪文のようだったけれど、意識して頑張って耳を傾ける。……やっぱり、ほとんど頭には入ってこなかったけれど。
琴が語り尽くす前に、注文した品がテーブルに届いた。
パフェが来るなり、琴は目を輝かせて一生懸命にスマートフォンで写真を撮り始めた。私もそれに倣って、記念に一枚だけ写真を収めた。
撮影が終わり、私たちは無我夢中でパフェを口に運んだ。ここのパフェは写真映えするだけでなく、とにかく味が抜群に良かったのだ。
食べ終わるまでほとんど会話もないまま、私の方が少し先に完食した。
スプーンを置いて琴を見つめながら、いつにも増して可愛いな、と思う。その姿を例えるなら、赤ちゃんが我武者羅に、小さな口いっぱいに離乳食を頬張っているようだった。
二人とも食べ終えて会計を済ませ、次はショッピングモールへと足を運んだ。
普段、私は一人でショッピングモールに行くことはほとんどない。けれど、なぜか琴と一緒なら、こういう場所に来るのも悪くないなと思えるから不思議だ。
琴は目を輝かせながら服を選んでおり、私はのんびりとそのお供をした。
「春ちゃ〜ん、この服可愛くない!?」
元気よく掲げられた服を見て、私は歩み寄る。
「琴、どれ?」
「この、水色のジャージ!」
「確かに。この色なら外でも着られそうだし、グラデーションも可愛いかも」
そのジャージは全体的にゆるふわとしたシルエットで、肩から袖にかけて水色から薄い白へと綺麗にグラデーションしているものだった。
「琴はもっと明るくて、暖色系のものが好きなのかと思ってたよ」
「ううん、この色、私が着るんじゃなくて、春ちゃんにすごく似合いそうだなって思って!」
予期せぬ言葉を投げかけられ、私は意表を突かれてぼーっとしてしまった。
「春ちゃん、大丈夫……?」
覗き込んできた琴の一言で、ようやく我に返る。
「あ、ありがとう。確かに可愛いと思ったし……買おうかな」
そのまま、私はそのジャージの上下セットを購入した。上の服は長袖だが、ズボンは半ズボンになっていて、なかなか機能性にも優れていると感じた。何より、自分のために服を選んでくれたという事実に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「春ちゃん、ちょっと待っててね!」
そう言い残して、琴が売店の奥へと走っていった。数分して戻ってくる。
「何かあったの?」
「ふふん、じゃじゃ〜ん!」
元気な声とともに琴が掲げたのは、今私が買ったものとまったく同じデザインで、色違いのジャージだった。鮮やかなオレンジ色。
「実はね、春ちゃんとお揃いにしたくて買っちゃった……。迷惑、じゃなかったかなぁ……?」
少し不安そうに上目遣いで呟く琴を見て、また「可愛い」が限界突破する。まるで、いつもの元気な琴であって、少し気弱な別の琴のようでもある。
「もちろん。私もすごく嬉しいよ」
「本当!? やったー!」
琴は感情を隠すことなく、全身で喜びを表現した。
「次はコスメのコーナーに行きたい!」
琴が言い出し、私はもちろん快く了承した。コスメには全く興味がない私だったけれど、楽しそうに語る琴の横顔を見ているだけで、そんなことはどうでもよく思えてくるのだった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るもので、気づけば時計は午後五時を回っていた。
「どうする? 晩ごはんもどこかで食べていく?」
「うーん、そうだなぁ……」
実を言えば、今日、私の家族は小旅行に出かけていて、家に帰っても私一人しかいないのだ。そのことを事前に伝えてある。
「うん、何か食べて帰りたいな。琴、何か食べたいものある?」
「イタリアンが食べたいかも……!」
「いいね、イタリアン。私も賛成」
「いいの!? やったー!」
琴はすっかり上機嫌になり、スマートフォンを取り出した。「じゃあ、この辺のイタリアン探すね」「うん、私も探してみる」
「ここはどうかな?」
琴が勧めてくれたのは、現在地から徒歩五分ほどの場所にあるお店だった。私は琴と一緒ならどこでも良かったので、「そこでいいの?」と一応確認を取る。
「うん、すっごく美味しそうじゃん!」
「じゃあ、行こっか」
そう言ってお店へと足を運ぼうとした、その瞬間だった。
ぽつり、ぽつりと、空から大粒の雨が降ってきた。
「春ちゃん、ちょっと走るよ!」
「わ、わかった!」
無我夢中でお店を目指して走ったけれど、防ぎようもなく、私たちは結構な量の雨を浴び濡れてしまった。買ったばかりのジャージはビニール袋でしっかり包まれていたため、濡れずに済んだことだけが不幸中の幸いだった。
たどり着いた店内は小洒落た雰囲気で、雨に濡れて少し肌寒い今の私たちには少し不釣り合いかもしれない。けれど、屋根の下に入れた安心感からか、急に空腹感が強くなってきた。幸いにも店内は空いており、すぐに席へと案内された。
「ごめん琴……今ちょっと寒いから、私の代わりに温かいものを頼んでくれる?」
「わかった! 寒さ、平気? 春ちゃん」
「う、うん。ご飯を食べたらマシになると思う」
心配そうに眉を下げる琴の声は、いつもの元気な調子と違って少し寂しげに聞こえた。
窓の外では、雨がしきりに降り続いている。音は大きいし、身体は濡れるし、やっぱり雨は嫌いだ、と改めて思う。外の暗い雨景色を眺めながら、琴が店員さんに注文している声をぼんやりと聞き流していた。
やがて、琴が注文してくれた料理が運ばれてきた。湯気を立てるミートソーススパゲッティと、真っ赤なミネストローネのセット。それを二つ、頼んでくれていた。
「大丈夫?……食べさせてあげようか?」
琴が、本当に心配そうな声をかけてくる。
「大丈夫。自分で食べられるよ」
本当のことを言えば、身体に力が入らなくて、甘えて食べさせてもらいたかった。けれど、それと同じくらい、琴にこれ以上迷惑をかけたくないという気持ちが勝ってしまった。だから私は、震える手でスプーンを握り、自力で食べることにした。
温かいスープを口に含む。琴が選んでくれたお店だからだろうか、いつもの何倍も美味しく、五臓六腑にしみ渡るように感じられた。
「とても美味しいよ。心配かけてごめんね」
二人とも食べ終わり、店を出ると、夜風がとてつもないくらい涼しく――いや、冷たく感じられた。今の自分が暑いのか寒いのか、感覚が麻痺してよくわからなくなっていく。
「春ちゃん、顔色がすごく悪いよ……。本当に大丈夫?」
「う、うん……」
「お家にお母さんいる?」
「い、いや……今は誰もいないよ」
「じゃあ、一回うちに来て!」
拒む元気もなく、私は言われるがままに琴の後ろをついて行った。正直、身体が鉛のように重く、ここまで歩くだけでも死ぬ気で頑張ったと思う。
琴の家に到着し、そのまま彼女の部屋へと案内された。
「体温計持ってくるから、ちょっと横になってて!」
促されるがままに、私は琴のベッドへと全体重を預けた。
「持ってきたから、すぐ測って!」
「わ、わかったよ……」
脇に体温計を挟む。静まり返った部屋に、計測終了を告げる電子音が小さく響いた。
「何度だった?」
「う、うん……37.9度」
「熱あるじゃん! もう、今日はうちで寝ていって!」
「い、いいの……?」
「春ちゃんが心配することなんて何もないよ。私の親も、今日は仕事で帰ってこないから」
「じゃあ……お言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとう……」
「その前に、そんな濡れた服じゃ寝られないでしょ。パジャマ貸すね」
「あ、あの、今日買ったジャージがあるから、それで大丈夫」
「わかった。着替えられる?」
「う、うん……大丈夫……」
「本当に? また無理したらダメだから、私が着替えさせてあげるよ」
そう言うと、琴は私の手荷物からさっき買った水色のジャージを取り出した。
「あったよ。ほら、脱がすよ? 寒くない? 平気?」
「あ、あの、その……恥ずかしいから大丈夫! 自分で着替えるよ」
「タオルで軽く身体も拭くから、どちらにせよ我慢して。ジロジロとは見ないからさ」
「わ、わかった……」
身体はしんどくて熱いのに、胸がドキドキしすぎておかしなことになりそうだった。なんだか、今の琴はお母さんのようだった。いつもは周りに甘えて迷惑をかけるタイプだと思っていたけれど、そんなことはなくて、本当はとても面倒見のいい人なんだと知った。
気がつけば、着替えは終わっていた。いつもなら部屋に響くはずの琴の元気な声はなく、ただ私を気遣う優しい吐息だけが聞こえる。
「琴の……元気が、ほしいな……」
頭がぼーっとしていて、思いがけず本音が口から漏れてしまった。言った瞬間、自分の顔が熱のせいだけではなく、とてつもない羞恥心でさらに赤くなっていくのがわかった。
「いいよー! 早く元気になってよね」
そう言って、琴はベッドの上で私をぎゅっと抱きしめた。
家族以外の誰かからハグをされたのは、これが初めてだった。さっきよりもさらに顔が熱くなる。部屋の電気はついたままだから、きっと私の真っ赤な顔は琴に丸見えだろうけれど、もうどうしようもなかった。
琴の温もりに包まれたまま、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
◇
「春、寝た……?」
小春はすっかり眠ってしまったらしい。
熱があって本当にしんどそうにしていたから、少しでも力になりたかったけれど、私のしたことは迷惑じゃなかったかな……と、急に不安が押し寄せてくる。
そう、小春にきつく抱きつかれたまま、私は考えていた。
眠っている彼女の顔を覗き込んでみると、熱のせいで真っ赤に火照っている。大丈夫かな、と何度も何度も心配になってしまう。
私も少し湿ってしまった服のままだと眠れそうになかったので、ベッドを抜け出し、小春とお揃いのオレンジ色のジャージに着替えた。
そして再びベッドの上で、小春の身体を優しく抱きしめる。
窓の外では、楽しそうに降り続けている雨の音が響いていた。その音に飲み込まれそうになりながら、私は目を閉じる。
小春を着替えさせたときよりも、彼女の吐息は激しく、そして温かく感じられた。その一方で、私の太ももにそっと触れている小春の太ももは、スベスベとしていて、どこかひんやりと冷たかった。
小春は、私のこと、本当はどう思っているのかな……。
そんな贅沢な悩みを頭の片隅に浮かべながら、私は心地よい眠りへと落ちていった。
4
翌朝、私は目を覚ました。
昨晩の記憶はうっすらとしか残っていなかったけれど、見慣れない天井を見上げて、ここは確か琴の部屋だったと思い出す。
そして、自分の身体に違和感を覚えて視線を落とした。
「えっ、ええ〜っ!?」
思わず大きな声が出そうになり、慌てて両手で口を塞いだ。
琴が私のお腹の中央あたりに、まるで甘える子猫がしがみつくように、愛おしそうに両手を回して眠っていたからだ。至近距離にある琴の部屋の時計に目をやると、長針と短針は朝の七時を指していた。
日曜日だからまだ眠っていたいけれど、さすがにこの体制のままでは心臓が持たない。
すぐ横にある琴の寝顔を見る。顔はまるで天使のようで、けれど口元には、垂れていたであろうよだれの跡が小さく乾燥して残っていた。……ううん、そんな隙のある姿を含めても、どこからどう見ても私にとっては天使そのものだった。
この時間が、いっそのこと永遠に続けばいいのに。そんな大それたことを考えてしまう。
昨日は熱のせいで部屋の様子をよく見られなかったけれど、改めて見回すと、カーテンやベッドカバーなど全体が暖色系で統一されていた。まるで太陽のような明るさに包まれたその空間には、可愛らしいぬいぐるみがたくさん並んでいる。
女の子の「カワイイ」がこれでもかと凝縮されたような部屋で、主である琴のことがさらに愛らしく思えて仕方がなかった。
結局、私は身動きが取れないまま、琴が目覚めるのを一時間ほどずっと見つめて待っていた。この一時間の間、一体何度「可愛い」と心の中で呟いたか分からない。
やがて琴の身体が小さく動き、眠そうに目をこすりながら私に視線を向けた。
「おはよー……」
いつも響き渡る元気な声とは正反対の、朝一番の少し弱々しい声。
しかし次の瞬間、琴はハッと目を見開いてベッドの上に飛び起きた。
「熱は下がった!? もう元気!?」
いつもの明るいトーンに戻って、私の顔を覗き込んでくる。
「多分、もう平気だよ。大丈夫」
「念のために熱測って!」
差し出された体温計を受け取り、促されるがままに脇に挟む。電子音が鳴り、画面を確認した。
「36.8度だよ」
「よかったぁ〜〜っ! めちゃくちゃ心配したんだからね!」
「ごめんね、心配かけて」
「ううん、いいけど……でも、もう熱出さないでね?」
少し低めの、甘えたような声。琴は再び私に抱きついてきた。
今度は熱のせいではなく、琴という存在そのものの熱量によって、顔が火傷しそうになるほど熱くなってしまった。
これからは琴に余計な心配をかけないためにも、自分の体調管理を徹底しようと、心の中で固く決意した。
しばらくして、スマートフォンにお母さんから「旅行から家に帰ったよ」というメールが届いた。名残惜しい気持ちは山々だったけれど、私は自分の家に帰ることにした。
琴は玄関先まで見送りに来てくれた。
「また明日、学校ね」
お互いにそう言い交わし、私は家路についた。
突然の雨で熱は出たけれど、私の心は、今までにないほどの確かな幸せに包まれていた。
5
家に着いた私は、ベッドの脇にある机に向かい、寝る前の日課である日記帳を開いた。ペンを執り、今日のページに文字を走らせる。
『◯月◯日 琴とパフェを食べて、そのあとショッピングモールに行った。晩ご飯を食べるお店に行く道中、突然雨に降られた。お店に着いたときには、おそらく熱が出ていたのだろう。琴の家にお泊まりさせてもらい、看病までしてもらった。本当にありがたかった。土曜日は、なんとも幸せな日だった』
私は、そんな風に日記を書き残した。パタン、と日記帳を閉じる。
昨日の夜はお風呂に入れなかったので、さっと浴室へ向かいシャワーを浴びることにした。
温かいお湯を頭から浴びている最中、どうしても昨日から今朝にかけての出来事が脳裏をよぎり、気づけば口元が緩んでしまっていた。
「もっと……あの時間が続いてほしかったのになぁ……」
天井を見上げてぽつりと呟く。私は今まで、あまり他人に甘えるということをしてこなかった。けれど、琴に全幅の信頼を寄せて甘やかされることの心地よさに、なんだか不思議な感情で満たされていた。
浴室を出たあと、スマートフォンにメールが届いていたことに気づいた。シャワーの音にかき消されて、リアルタイムでは読むことができなかったようだ。
画面を開くと、それは琴からのものだった。
小春に送るために、心配の気持ちを一生懸命に推敲したのだろう。そんな風に悩んでいる姿を想像すると愛おしい。
『おはよう☀️ あれから体調に変わりはない? しっかり水分摂って、今日も安静にしておいてね。ゆっくり休んでね』
その優しさに胸を熱くしながら、私はすぐに返信を打った。
『おはよう。大丈夫だよ。今日一日はしっかり安静にしておくね。また明日、学校でね』
送信して数分、「了解!」という可愛いスタンプが届き、私はホッと胸を撫で下ろした。
その頃、画面の向こうの琴は、安心したように再びベッドに潜り込んで二度寝を楽しんでいた。
そして私は、いつもと何も変わらない、大好きな本に囲まれた静かな日常の中で、愛おしい余韻を噛み締めながら日曜日を過ごした。
この本に目を通していただき誠にありがとうございます。
続編は自分が納得いくものができたら投稿します。
これからも読んでいただけたら幸いです。




