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馬車へ戻った頃には、ようやく涙も落ち着いていた。
二人並んで座席に腰掛ける。窓の外では夜の街並みが静かに流れ、車輪の音だけが規則正しく響いていた。
「……レオニード殿下のお陰です」
悔しいが、認めないわけにはいかなかった。
レオニード公爵に言われなければ、私はきっとリリアーナお姉様と向き合うことすらできなかっただろう。
もちろん、全てが解決したわけではない。
明日になれば、また姉を羨ましく思ってしまうかもしれない。
劣等感が綺麗さっぱり消えるとも思えない。
それでも。
胸の奥を締めつけていた重苦しさは、確かに少しだけ和らいでいた。
「ありがとう」
素直にそう口にすると、妙に気恥ずかしくなって顔を逸らした。
私はずっと、知りたくないことから逃げていた。
嫉妬も、劣等感も、お姉様への複雑な感情も。
見ないふりをしていれば傷つかずに済むと思っていた。
けれど、本当に私を苦しめていたのは、知らないことではなく、知ろうとしなかったことだったのかもしれない。
「……君のわだかまりが解けてよかったよ」
意外な言葉に、私は思わず顔を上げた。
そして、少しだけ眉をひそめる。
そこにあったのは、いつもの無機質な笑顔だった。
完璧に整えられているのに、なぜか温かさだけが感じられない、あの張り付いたような微笑み。
「……殿下」
「なんだ」
「……なんで今、その不気味な愛想笑いをしているんですか……」
お姉様のこともそうだったが、私はまだレオニード公爵のことを何一つ理解できていない。
人の心など持ち合わせていないように見えるこの人も、こうして誰かを気遣って笑顔を作ることがあるらしい。
すると、レオニード公爵はわずかに目を瞬かせた。
「……ん? ああ、俺は笑っていたのか」
「……え?」
自分でも意識していなかったように、彼は指先で頬をなぞる。
「悪いね。俺は顔に出やすい質なもので」
そう言った次の瞬間だった。
ぐい、と肩を掴まれた。
「わっ……」
透き通るような青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめている。
「うん。やはり噂を流して正解だった」
「……はい?」
「君が俺を枕で殴ったという噂だ。大して広まりはしないと思ったが、それでも、君は俺と同じ馬車に乗ってくれた」
あまりにもさらりと告げられた言葉に、思考が止まった。
「噂を払拭するためには、夫婦で共に行動する必要が生じるからな」
頭の中が真っ白になる。
理解が追いつかない。
あの噂を。
あの悪趣味極まりない噂を。
――自分で流した?
「え……?」
乾いた声が漏れる。
「れ、レオニード殿下……?」
ぞわり、と背筋に嫌なものが走った。
思わず距離を取ろうとしたが、肩を掴む手に力がこもる。
「あの時、なぜ君が俺を殴ったのか。もうわかっただろう?」
「で、殿下……何を……」
「姉君と和解した時にも言っていただろう。誰かに認められたかった、と」
彼の声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「……あ、あの、手を……」
「初めは、俺も姉への劣等感から起こしたただの愚行だと思っていた」
青い瞳が愉悦に輝いていた。
「だが違った」
どこか熱に浮かされたような声音だった。
「君は、俺に理解して欲しかったんだ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……なに?」
「君の父上も兄上も、周囲の人間も……そして君自身でさえ、君を姉君と比較し続けていた」
肩が痛い。
けれど、それ以上に彼の言葉が理解できなかった。
「君はそれに辟易していた」
「い、痛っ……!」
訴えた声は、彼の耳に届いていないようだった。
「だから期待した」
レオニード公爵は、まるで何かの真理を発見した学者のような顔で続ける。
「俺なら理解できると思った。自分を理解して欲しいと願った」
「違います……」
「だが俺も他の連中と同じだった」
さらに顔が近づく。
鼻先が触れそうなほどの距離だった。
「俺もまた、君を姉君と比較して断じてしまった」
青い瞳が、獲物を見つけた猛獣のようにぎらぎらと輝いていた。
「だから君は俺を殴った」
「だから、違うってば……!」
思わず声を上げる。
滅茶苦茶だ。
理解だの理解されたいだの、そんな話ばかりされても困る。
私は、そこまで「知る」ということに執着しているわけではない。
――なのに、この男は。
「間違えたことをした」
そう呟くと、レオニード公爵は私をすっぽりと抱き寄せた。
「ちょ……! 殿下……!」
逃げる間もなかった。
そのまま頬に顔を擦り寄せられる。
それは、夫婦同士の甘い触れ合いなのではなかった。
まるで人ではなく、珍しい宝石か何かを愛でているような。
生き物ではなく、大切な収集品を抱えているような。
――そんな無機質さだけがあった。
「は、離してください……!」
「理解を求められたのに、俺はそれに気づかなかった」
彼の声はうっとりと甘い。
「安易な判断で君を論じてしまった」
耳元で囁くように続く。
「ああ、反省しているよ」
そして、ふっと笑った。
「君のような人間は観察に値しないと思っていた」
何を言っているのかわからない。
頭が追いつかない。
「『持たざる者は、持たないことで特別になる』」
陶酔したように、彼は呟いた。
「俺はあの言葉が好きなんだ」
青い瞳が異様な熱を帯びている。
「君は俺の知らない価値観で世界を見ている」
知りたい。
理解したい。
知り尽くしたい。
青い瞳から、そんな欲望が隠しようもなく溢れていた。
「君の言葉を借りるなら――」
月明かりに照らされたレオニード公爵の顔には、人間離れした冷たい笑みが張り付いていた。
「多くを持つ俺は、さらに多くを持つことで、君の特別になろう」
その声には、奇妙な熱が宿っていた。
「君の全てが知りたい」
低く囁く。
「何に怒り、何に悲しみ、何に笑うのか」
そして、ほんのわずかに目を細めた。
「あの時は悪かった」
それは紛れもない謝罪の言葉だった。
――けれど。
私は何に対して謝られているのか、まるでわからなかった。
初夜の暴言ではない。
初夜の噂を自ら流したことでもない。
もっと別の、私には理解できない何かに対して、この人は謝っている。
「あ、あ、あの……殿下……」
「ん?」
「や、やっぱり……夜会に戻りたいです」
すると、レオニード公爵はにこりと笑った。
左右対称に、寸分の狂いもなく口角を持ち上げる。
「また今度にしなさい」
窓の外では夜の景色が流れている。
馬車は静かに、ゆっくりと公爵邸へ向かっていた。




