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***


 馬車へ戻った頃には、ようやく涙も落ち着いていた。


 二人並んで座席に腰掛ける。窓の外では夜の街並みが静かに流れ、車輪の音だけが規則正しく響いていた。


「……レオニード殿下のお陰です」


 悔しいが、認めないわけにはいかなかった。


 レオニード公爵に言われなければ、私はきっとリリアーナお姉様と向き合うことすらできなかっただろう。


 もちろん、全てが解決したわけではない。


 明日になれば、また姉を羨ましく思ってしまうかもしれない。

 劣等感が綺麗さっぱり消えるとも思えない。


 それでも。


 胸の奥を締めつけていた重苦しさは、確かに少しだけ和らいでいた。


「ありがとう」


 素直にそう口にすると、妙に気恥ずかしくなって顔を逸らした。


 私はずっと、知りたくないことから逃げていた。


 嫉妬も、劣等感も、お姉様への複雑な感情も。


 見ないふりをしていれば傷つかずに済むと思っていた。


 けれど、本当に私を苦しめていたのは、知らないことではなく、知ろうとしなかったことだったのかもしれない。


「……君のわだかまりが解けてよかったよ」


 意外な言葉に、私は思わず顔を上げた。


 そして、少しだけ眉をひそめる。


 そこにあったのは、いつもの無機質な笑顔だった。


 完璧に整えられているのに、なぜか温かさだけが感じられない、あの張り付いたような微笑み。


「……殿下」

「なんだ」

「……なんで今、その不気味な愛想笑いをしているんですか……」


 お姉様のこともそうだったが、私はまだレオニード公爵のことを何一つ理解できていない。


 人の心など持ち合わせていないように見えるこの人も、こうして誰かを気遣って笑顔を作ることがあるらしい。


 すると、レオニード公爵はわずかに目を瞬かせた。


「……ん? ああ、俺は笑っていたのか」

「……え?」


 自分でも意識していなかったように、彼は指先で頬をなぞる。


「悪いね。俺は顔に出やすい質なもので」


 そう言った次の瞬間だった。


 ぐい、と肩を掴まれた。


「わっ……」


 透き通るような青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめている。


「うん。やはり噂を流して正解だった」

「……はい?」

「君が俺を枕で殴ったという噂だ。大して広まりはしないと思ったが、それでも、君は俺と同じ馬車に乗ってくれた」


 あまりにもさらりと告げられた言葉に、思考が止まった。


「噂を払拭するためには、夫婦で共に行動する必要が生じるからな」


 頭の中が真っ白になる。


 理解が追いつかない。


 あの噂を。


 あの悪趣味極まりない噂を。


 ――自分で流した?


「え……?」


 乾いた声が漏れる。


「れ、レオニード殿下……?」


 ぞわり、と背筋に嫌なものが走った。

 思わず距離を取ろうとしたが、肩を掴む手に力がこもる。


「あの時、なぜ君が俺を殴ったのか。もうわかっただろう?」

「で、殿下……何を……」

「姉君と和解した時にも言っていただろう。誰かに認められたかった、と」


 彼の声は静かだった。

 静かすぎるほどに。


「……あ、あの、手を……」

「初めは、俺も姉への劣等感から起こしたただの愚行だと思っていた」


 青い瞳が愉悦に輝いていた。


「だが違った」


 どこか熱に浮かされたような声音だった。


「君は、俺に理解して欲しかったんだ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……なに?」

「君の父上も兄上も、周囲の人間も……そして君自身でさえ、君を姉君と比較し続けていた」


 肩が痛い。

 けれど、それ以上に彼の言葉が理解できなかった。


「君はそれに辟易していた」

「い、痛っ……!」


 訴えた声は、彼の耳に届いていないようだった。


「だから期待した」


 レオニード公爵は、まるで何かの真理を発見した学者のような顔で続ける。


「俺なら理解できると思った。自分を理解して欲しいと願った」

「違います……」

「だが俺も他の連中と同じだった」


 さらに顔が近づく。

 鼻先が触れそうなほどの距離だった。


「俺もまた、君を姉君と比較して断じてしまった」


 青い瞳が、獲物を見つけた猛獣のようにぎらぎらと輝いていた。


「だから君は俺を殴った」

「だから、違うってば……!」


 思わず声を上げる。


 滅茶苦茶だ。


 理解だの理解されたいだの、そんな話ばかりされても困る。

 私は、そこまで「知る」ということに執着しているわけではない。


 ――なのに、この男は。


「間違えたことをした」


 そう呟くと、レオニード公爵は私をすっぽりと抱き寄せた。


「ちょ……! 殿下……!」


 逃げる間もなかった。

 そのまま頬に顔を擦り寄せられる。

 それは、夫婦同士の甘い触れ合いなのではなかった。


 まるで人ではなく、珍しい宝石か何かを愛でているような。


 生き物ではなく、大切な収集品を抱えているような。


 ――そんな無機質さだけがあった。


「は、離してください……!」

「理解を求められたのに、俺はそれに気づかなかった」


 彼の声はうっとりと甘い。


「安易な判断で君を論じてしまった」


 耳元で囁くように続く。


「ああ、反省しているよ」


 そして、ふっと笑った。


「君のような人間は観察に値しないと思っていた」


 何を言っているのかわからない。

 頭が追いつかない。


「『持たざる者は、持たないことで特別になる』」


 陶酔したように、彼は呟いた。


「俺はあの言葉が好きなんだ」


 青い瞳が異様な熱を帯びている。


「君は俺の知らない価値観で世界を見ている」


 知りたい。


 理解したい。


 知り尽くしたい。


 青い瞳から、そんな欲望が隠しようもなく溢れていた。


「君の言葉を借りるなら――」


 月明かりに照らされたレオニード公爵の顔には、人間離れした冷たい笑みが張り付いていた。


「多くを持つ俺は、さらに多くを持つことで、君の特別になろう」


 その声には、奇妙な熱が宿っていた。


「君の全てが知りたい」


 低く囁く。


「何に怒り、何に悲しみ、何に笑うのか」


 そして、ほんのわずかに目を細めた。


「あの時は悪かった」


 それは紛れもない謝罪の言葉だった。


 ――けれど。


 私は何に対して謝られているのか、まるでわからなかった。


 初夜の暴言ではない。


 初夜の噂を自ら流したことでもない。


 もっと別の、私には理解できない何かに対して、この人は謝っている。


「あ、あ、あの……殿下……」

「ん?」

「や、やっぱり……夜会に戻りたいです」


 すると、レオニード公爵はにこりと笑った。

 左右対称に、寸分の狂いもなく口角を持ち上げる。


「また今度にしなさい」


 窓の外では夜の景色が流れている。


 馬車は静かに、ゆっくりと公爵邸へ向かっていた。

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