月と『名無し』と『病院』と
『病院』の屋上で俺は月を見ていた。消灯時間を無視してピッキングで開けたドアをくぐりコンクリートパネルが敷き詰められた地面を歩き体重を思いきりかけたら折れてしまいそうなほど錆び付いたボロボロの柵に軽くもたれかかりながら山に囲まれて眠る町を遥か遠くで見下ろしている星々とは一つだけ違う丸い月を見ていた。
「おい、坊主。そろそろ戻ってこい」
踊り場の方から同じ病室に入院している志村さんが戻るように催促してきた。
「今戻りますよ」
「おっ?」
素直に従うと志村さんは意外そうな顔で話しかけてくる。
「俺の言うことを素直に聞くたぁ、いったいどうゆう風の吹きまわしだ?」
「たまには素直になるのもいいかなと思って」
「オメェらしくねぇ」
「…そうですね」
同意しながら階段を降り、病室への帰路に着く。人ひとり居ない静まりかえった廊下を二人で歩き窓から月が見えるたびに足を止め一瞥する。正確には俺が不意に止まるのだが志村さんも俺の癖を知っているので同じように立ち止まり月を見る。
「しかし何で毎日のように月を見に行くんだ?」
「あれ言ってなかったですか?」
「多分また『忘れ』ちまった」
「そうですか…」
志村さんは病気だ。まぁ入院しているんだから当然だが一般的な病気ではない。彼は『物事を忘れてしまう』病気だ。アルツハイマーのように少しずつ全てを忘れていくのではなく、唐突にある一部分だけ記憶を無くしてしまうのだ。それゆえに生活に支障をきたし、ここに入院することになったのだ。
「俺は記憶喪失なんです」「それは知ってる」
「自分の名前も思い出すことすら出来ないのに一つだけ憶えてるんです。俺は満月の夜に人を―親友を殺してるんです」
「……」
「前の俺は『ここ』にはいないけど、その思い出が今と昔で共有出来るただ一つのことだから忘れないように毎晩月を見てあの光景を思い出すんですよ」
「まぁ…人それぞれか」
人工の光が消え闇にのまれた渡り廊下を歩く俺達を月の光が微かに照らす。
そして今日も夜は更けて何事もなく明日の陽は昇る
…なんてことはなかった。
「呑気に月なんて見ちゃって」
「「っ!?」」
不意に後ろから聞きなれた声がした。それだけで体に刻み込まれた恐怖が腹の底から這い出てくる。ゆっくりと顔だけ振り向けばそこには満面の笑みを浮かべながら怒気を全身から漂わせてる看護師である金森さんが仁王立ちしていた。
「今何時か分かってる?」
とっくに消灯時間は過ぎてるのは分かる。
「ちなみにこれで何度目?」
それは分かりません。
「…で、覚悟は出来てるんでしょうね?」そこで気づいた。隣にいたはずの志村さんの姿がないことに。
「僕だけですか?」
「志村は逃げたから倍ね」
そこだけは納得したが全くどうしようもない。
「…お手柔らかにお願いします」
「却下」
満面の笑みで即答された。
―あぁ神よ…俺に慈悲を…
そのあと小一時間ほど『罸』を受けたがそれは別の話。




