〈第31話〉昔も今も陽月祭の当日は、まったくもってとんでもないことが起こる
診療所入り口の札を「休診日」にひっくり返したのを確認して長瀬は、
「おばちゃん、わざわざウチに寄ってもらわなくてもいいのに。直接学校に行けばいいでしょう」
と笑った。札のところには長瀬のスマートフォンの番号も書いてあり、ケガをした人や具合が悪くなってウチに来た人が、いつでも連絡を取れるようにしてある。陽月祭の日は毎年、必ず休みを取ると決めているが、結局働くことになる年も多い。
長瀬診療所は住居部分とつながっていて、妻が家から出てくるのを待っていると、高橋のおばちゃんがニコニコと現れたというわけだ。少しおめかしをした格好で「ふふふ」といつもの微笑をたたえている。
雲がほとんどない、とてつもなく綺麗な青空が広がっていて、長瀬は伸びやかな気持ちになった。
「ケンちゃんの晴れの舞台だもの。先生と奥様と一緒に観に行きたいわよ」
「いやあ、だからみんな学校で集合すればいいでしょ。それと『先生と奥様』って呼び方もやめてくださいってば」
「あらあ。だって、そしたらケンちゃんって呼べばいいの?ケンちゃん二人になっちゃうわよ。あ、ていうか大先生のことも昔はケンちゃんって呼んでたから三人になっちゃうわね」
結局、いつものやり取りになり、長瀬はやれやれといった感じで家の玄関を見た。ようやくドアが開き、妻が姿を見せる。
「おばちゃん、ごめんねえ。待った?」
「大丈夫よ。あら今日はメガネしてないのね。あの大きなやつ、奥様に似合っていて好きなのに」
「やだあ。奥様はやめてください、って言ってるでしょ。メガネは確かに似合ってるけども」
高橋のおばちゃんが口を開きかけたので長瀬は慌てて妻に「いや、もうその呼び方のくだり、さっきやったからいいよ。奥様で」と言った。
少しむくれた顔を見せながら妻は、
「それじゃあ、今日は、みんなで昔の呼び方しましょうよ。ね、ケンヂ先輩」
と言い出した。
「いや、だから、お前の健二の発音、チにテンテンだろ。おれはシにテンテンだって何回言ったら分かるんだよ」
「それじゃあ。私も今日は先生のことケンちゃんって呼ぼうかしらね。そうすると現ケンちゃんはなんて呼べばいいのかしら」
妻が「現ケンは健三でいいですよ」と言うと、この様子のよい老婦人は「それじゃあ私も今日は『高橋のおばちゃん』じゃなくて『高橋のお姉さん』って呼んでもらわなきゃねえ」とほほえんだ。
「いや、おばちゃんは昔からおばちゃんだったんだけど」
三人は笑いながら、ようやく学校に向けて歩きだした。
「ケンヂ先輩、女性にそんな失礼なこと言うとカンチョウしますよ」
「やめろ。いろいろやめろ。呼び方とかカンチョウとか。腹が痛くなるだろ」
この南国ではハイビスカスが年中、咲きにおう。特に近所の花壇に植わっているこの花たちは、住人がこまめに摘み取りをしているようで、いつでもとても華やいでいる。
「ミケ・・・えーと、ミケ、元気かなあ」
「毎回思いつかないなら、ミケオでもミケランジェロでも、なんでもいいから名前固定してやれよ」
長瀬や妻が中学生だったころ、元気な鳴き声を空き地に響かせていた三毛猫の姿を見なくなって久しい。
妻は、猫はどこかで元気に暮らしていて、そのうち帰ってくると主張し続けている。
空き地には家が建ち、通り抜けができなくなってからも久しい。
校門が見えてきた。生徒たちはすでに登校済みで、親や近所住民、そして観光客までもが続々と集まってきている。大人になって島を出ても、陽月祭の日に合わせて帰ってくるという同級生も結構いる。
「長瀬やんけ。ちょうど一年ぶりやなあ。元気しとったんかいな。小峰もおばちゃんも久しぶり」
喧噪の中で熊谷の関西弁を聞き、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
「今年はうちの息子が寸劇の脚本書いたんだってよ」
「ほんまか。そりゃあ期待できるな。まあ、わしらのあの伝説の寸劇には勝たれへんやろうけどな」
陽月祭の当日というのは、まったくもってとんでもないことが起きるからなあ。長瀬は昔のことを思い出しながら、妻と目を合わせ、笑った。




