第1話 何をおかしなことをおっしゃいますの?
「まあ、平民のくせに、ずいぶんと生意気ですこと!」
わたくし、イライザ・ラガンは、目の前の少女を見下ろしました。
少女の名はキャンディ。平民のくせに、貴族の集まる場所でアンソニー様と親しげに話している、実に目障りな娘ですわ。
「そのリボン、ずいぶんと派手ですこと。ご自分の身分を忘れていらっしゃるのかしら?」
「そんな……これは、お気に入りなんです」
「お気に入り? まあ、平民の趣味というのは理解に苦しみますわね」
わたくしが扇子を広げると、隣にいた兄のニールが笑いました。
「ははっ、確かに。もう少し身の程をわきまえた方がよさそうだね」
「でしょう?」
わたくしは満足してうなずきました。
お兄様は、わたくしの言いたいことをよく理解してくださいます。
キャンディはうつむき、唇をかみしめております。
あら、泣いてしまうのかしら。
それはそれで、少々つまらないですわね。
「次からは、もう少し場所をお考えなさい。わたくしたちの目に触れないところで過ごすことですわ」
「……はい」
キャンディは小さく返事をすると、足早に立ち去りました。
「まったく、困った娘ですこと」
「本当にね」
お兄様も同意しました。
それで、この話はおしまい。
少なくとも、昨日まではそうでしたの。
*
翌日。
わたくしは再び、キャンディを見かけました。
今度はアンソニー様と一緒です。
アンソニー様は、わたくしが懇意にしている貴族の青年。あのような平民と親しくなさるなど、いささか理解に苦しみますわ。
「キャンディさん。昨日、わたくしが申し上げたことを、もうお忘れになったのかしら?」
わたくしが声をかけると、キャンディは肩を震わせました。
「イライザ様……」
「そのように殿方にまとわりついて、恥ずかしくありませんの?」
「彼女は何も悪いことをしていないだろう」
アンソニー様が口を挟みました。
まあ。
この方まで、何をおっしゃるのかしら。
「アンソニー様、わたくしはこの方のためを思って――」
「イライザ、もうやめよう」
不意に、隣から声がしました。
お兄様です。
わたくしは、ゆっくりと顔を向けました。
「……お兄様? 今、何とおっしゃいましたの?」
「キャンディさんを責めるのは、もうやめようと言ったんだ」
一瞬、言葉が出ませんでした。
お兄様は、何をおっしゃっているのでしょう。
昨日まで、一緒になってキャンディをからかっていたではありませんか。
わたくしが嫌味を言えば、お兄様も笑う。
わたくしがキャンディを追い払おうとすれば、お兄様も賛同する。
それが、いつものことでしたのに。
「……お兄様、昨日のことをお忘れになったのかしら?」
「いいや。覚えているよ」
「でしたら、なぜ急に、そのようなことを?」
「昨日までは、間違っていたと思うからだ」
間違っていた?
わたくしは目を見開きました。
「何をおかしなことをおっしゃいますの?」
「おかしなことじゃない。人をいじめて、何が楽しいんだ?」
人をいじめる?
わたくしは、ただ平民に身の程を教えていただけですわ。
それなのに、お兄様はまるで、わたくしたちが悪いことをしていたかのようにおっしゃいます。
「お兄様、何かございましたの? 昨日までは、あの娘を見て笑っていらしたではありませんか」
「そうだね。でも、もうやめることにしたんだ」
「……理由をお聞かせくださいませ」
「理由か。そうだな……」
お兄様は少し考え、それからキャンディに向き直りました。
「キャンディさん、昨日までのことはすまなかった。これからは、こんなことをしないと約束するよ」
「え……?」
キャンディは戸惑った様子で、お兄様を見つめました。
わたくしだって、戸惑っておりますわ!
「お兄様!」
「イライザ。君も、もうやめたらどうだい?」
「お断りですわ!」
思わず声が大きくなりました。
「わたくしは間違ったことなどしておりません! それなのに、なぜわたくしだけが責められなければならないのですか!」
「君を責めているわけじゃない。ただ、やめた方がいいと言っているんだ」
「同じことですわ!」
わたくしは踵を返しました。
「もう結構です! お兄様のことなど、知りませんわ!」
その場を離れながらも、怒りは収まりませんでした。
お兄様は、いったいどうしてしまったのでしょう。
*
屋敷に戻っても、わたくしの腹立ちは収まりませんでした。
お兄様は、昨日まであんな方ではありませんでした。
わたくしがキャンディをからかえば、一緒になって笑っていた。
それなのに、今日になって急に、まるで別人のようになってしまった。
「……いったい、何があったのかしら」
わたくしは椅子に腰掛け、扇子で頬をあおぎました。
そもそも、キャンディを困らせて何が悪いのでしょう。
平民が貴族の輪に入ろうとするのなら、それ相応の振る舞いを身につけるべきですわ。
わたくしは間違ったことなどしていません。
そう、間違ってなど――。
そこで、思考が止まりました。
……なぜ?
なぜ、わたくしはキャンディを困らせたいのでしょう。
考えたこともありませんでした。
あの娘を見ると、胸の奥がむずむずする。
何か言ってやりたくなる。困らせたくなる。自分の立場を思い知らせたくなる。
けれど、それはなぜ?
嫌いだから?
確かに、好きではありませんわ。
しかし、嫌いだからといって、毎日のように嫌味を言う必要があるのでしょうか。
「…………」
わたくしは首を振りました。
くだらないことを考えてしまいましたわ。
理由など、どうでもよいのです。
わたくしはイライザ・ラガン。
自分の考えに従って行動しているだけなのですから。
そう考えると、胸の奥のむずむずした感覚は、いつの間にか消えていました。
けれど、一つだけ。
どうしても納得できないことがありました。
お兄様は、なぜ突然変わったのでしょう。
わたくしは、お兄様のことをよく知っています。
あの方は、わたくしと同じようにキャンディをからかっていた。
それなのに、今日になって急に、正反対のことを言い出した。
まるで、何かに気づいてしまったかのように。
「……明日、お兄様に問い詰めて差し上げますわ」
わたくしは扇子を閉じました。
お兄様が何を考えているのか、必ず突き止めてみせます。
わたくしはまだ知りませんでした。
お兄様が変わった理由も。
そして、自分がなぜ変われないのかも。
ただ、昨日まで当たり前だったことが、今日から少しだけ、当たり前ではなくなり始めていたのです。




