第54話 愛と最後の願い
『お母様、どうしたのですか? どこか悪いのですか?』
エディットはレティシアの言葉を聞きながら、愛しい娘の髪に手を伸ばす。
生まれた時のことを思い出して、胸の奥が熱を帯びて言葉に詰まった。
それでも、娘を護りたい気持ちはあの頃と変わらない。
彼女は娘の髪をとかすようになでながら、覚悟を決めて微笑むと口を開ける。
「レティシア、よく聞いてね? これからレティシアは、必要だと思う荷物だけ持って、マルシャー領に向かってちょうだい。リタの故郷なのよ? 自然に囲まれていて、良いところだからすぐに気にいるわ」
レティシアはエディットの声が、とても優しくて逆に不安になった。
エディットの容体が悪いのは、一見しただけでもレティシアには分かる。
手のひらから微かに感じる脈は弱く、人形のように顔色もない。
しかし、咄嗟に魔力の流れを見ても、異変を見つけることができない。
そんな状況で、エディットから離れるわけにはいかない。
彼女は離れたくなくて、首を横に振ってエディットに答える。
『いやです! 旅行ですか? それなら、お母様が良くなってからでいいです……だから今は行きません』
「レティシア、いい? 旅行じゃないの……お母さんね、今帝都で問題になっている奇病に、罹っているみたいなの」
ルカは帝都の奇病と聞いて、なぜあの日エディットが呼び出したのか全て理解した。
心臓がうるさいくらいに脈を打ち、これからどうするべきか彼は考える。
そして、悲し気に2人を見ると、拳を握った。
嘘だと、冗談だと、ルカは期待の間差しをエディットに向けるが、彼女の目が本当だと語る。
彼は結局、エディットの話を聞き続けるしかない。
「だからね……レティの御祖父様と御祖母様が帰ってくるまで、少しでも長生きできるように、延命治癒装置に入るの……。だから、レティシアはリタの故郷に行ってちょうだい。ここにいたら、教会の人たちが来るから危ないわ……」
レティシアはエディットの話を聞いて、目には涙が溢れた。
(嘘よ……お母様が帝都の奇病に罹っているなんて……そんなのいや! やっと、家族からの愛を見つけたのに……いやよ!)
彼女はそう思って小さく首を横に振ると、目に溜めた涙が左右に揺れる。
『いやです……! お母様の傍にいたいです……!』
エディットはレティシアの悲痛な声を聞いて、悲しみを堪えた。
そうしなければ、覚悟が揺らいでしまうと思ったからだ。
そして、いつもレティシアの傍を離れない少年を呼ぶ。
「ルカもいるかしら? 顔を見せてちょうだい……」
この瞬間、リタはもうエディットの決断は変わらないのだと悟った。
彼女は少しでもエディットが話しやすいように、エディットの体を起こし、背中に枕を置いて傍に控える。
「エディット様、ここにおります」
ルカはレティシアの隣に立って言うと、エディットの方に視線を向けた。
彼はエディットが息を吸い込んで吐き出し、見つめてくる瞳に覚悟が見えた。
だからこそ、彼も目を逸らさず、覚悟を持ってエディットを見つめ返す。
「ルカ……ルカが今の頭領なのでしょ? ずっと、気が付かなくてごめんなさいね……。勝手にずっとね……モーガンだと思っていたの。よくよく考えれば、あのモーガンじゃ荷が重いのにね……。ルカはまだ子どもよ。私はね……モーガンたちには悪いのだけど……どこかでルカを、私の息子のように思っていたわ」
エディットの口から息子と聞いて、ルカはガラスの破片が刺さったように胸が痛んだ。
護衛として来ている彼は、本来なら食事の時間は立っていなければならない。
もちろん、最初のうちは護衛らしく壁際に立って控えていた。
だが、レティシアと訓練場に行くようになってから、食卓に着くようにエディットから言われていた。
時折、エディットから「内緒よ」と言われてお菓子をもらえたり、レティシアと過ごしていると、エディットは2人に本を読み聞かせることもあった。
レティシアの髪をとかした後、ルカの髪を優しくとかしてくれることもあった……。
なぜそうするのか疑問を抱いたこともあったが、その理由に家族として受け入れてくれていたのだと理解すると、彼は息を詰まらせた。
胸が締め付けられるようで、呼吸さえ苦しく、今度は焦げるように喉が痛くなる。
「だから余計に……私の中で受け入れるまでに、時間が掛かったんだと思うの……。正直なところ……まだルカにも……、重たい責任だと……思っているわ……」
エディットの言葉は次第に途切れ、彼女が話すのを邪魔するように、先程まで言葉を発していた唇が小刻みに震えた。
彼女の瞳には、今にも零れてしまいそうな程の涙が溜まっている。
(レティシアにも、ルカにも、言いたいことも、伝えたいことも、まだまだあるのに伝えられない。全て伝えてしまったら、きっと……行かないで、と言ってしまうわ。……行かないで……行ってほしくない……でも……でも……教会も来たら、確実に私ではレティシアを守れない……だから……行かせなきゃ……)
エディットはそう思うと、溢れる涙を抑えきれなくなった目から、一筋の雫が零れ落ちる。
すると、堰を切ったように、次から次へと涙が零れ落ちていく。
彼女は胸が痛くて、息が苦しくて、喉が焼けるように熱くなるように感じる。
それでも彼女は、伝えなければならないと思うと、震える唇で口を開けて、息を吸い込んだ。
そして縋るように、少年に頭を下げる。
「……でも……ッ……でも……ルカ様どうか……レティシアを護ってください……お願いします……レティシアを連れて……マルシャー領に向かってください……話は……すでに通してあります……ルカ様ッ……私からの……最後のお願いです……どうか……どうか……、私の大切な宝物を護ってください」
溢れ落ちる涙を止められず、エディットがやっとの思いで伝えた言葉を、ルカはただただ静かに聞いていた。
それから彼は1度床に視線を落とすと、小さく息を吐き出し、ゆっくりとエディットに視線を戻した。
「もう決めたんだな?」
ルカの声は、いつもレティシアを護衛している時の声とは違い、幼いながらも頭領としての重みが含まれている。
彼女の覚悟が変わってくれればいいのに、と最後の希望を抱いて彼は問いかけていた。
しかし、その希望は虚しく、エディットが「はい」と言うのを聞いて、彼は息が詰まるほど苦しくなった。
彼は天井を見ると、目を瞑って気持ちを落ち着かせるように息を吐き出す。
喉は今にも焼き付き叫び出しそうになり、瞼の裏に浮かんだ涙は目から溢れそうになる。
けれど、どちらも今の彼には許されないことだ。
彼は静かに深呼吸を繰り返すと、再びエディットの方に視線を戻した。
「……分かった。リタ、お前は最後までエディッ様の傍にいろ」
「ルカ様、かしこまりました……ありがとうございます」
リタは返事すると、深々と頭を下げた。
本来なら、もう彼女はレティシアに付いて行くべきだ。
なぜなら、エディットが事実上、当主をレティシアに譲ったからだ。
それでも、エディットの傍に残してくれる。
そのことに、彼女は安堵し、ルカの優しさが嬉しかった。
しかし、彼女はレティシアのことを考えると、複雑な気持ちが絡み合う。
少しでも悟られないように、彼女は気持ちを隠すしかなった。
「レティシア、行くよ」
『いやだ! 行かない!』
ルカはレティシアの手を取ると、優しく言う。
彼女の気持ちが、彼には痛いほど分かる気がしたからだ。
「レティシア……頼むよ」
『いや!!』
「レティシア!!」
レティシアはルカが大きな声を出すと、泣きながら彼の手を振り解いた。
治療法が分かっていない奇病なら、いつエディットが亡くなるか分からない。
それを考えると、彼女はここを離れたくないと強く思った。
それと同時に、髪をなでる優しい手も、抱きしめてくれる手も、ここを離れれば自分で手放すのだとも思った。
『いやだ!! 絶対に行かない!!』
ルカは泣いて拒否し続けるレティシアに対し、気持ちを堪えるよに歯を食いしばった。
本音を言えば彼もここを離れたくない。
彼はレティシアの幸せを思えば、ここを離れるべきじゃないことも分かっている。
彼女の望みを叶えてあげたいが、それは彼の立場が許さない。
ふと彼女に言われた『……ルカは、私のお願いを聞いてくれるの?』という、言葉を思い出す。
それは些細な言葉だ、それでも今の彼には重く圧し掛かる。
こうなると分かっていれば、伝えたい気持ちも、伝えたい言葉も、ちゃんと伝えれば良かったと後悔が押し寄せる。
彼女ともこんな関係性を、望んだわけじゃない。
それでも彼は彼女が動くならば、たとえ自分が望んでいた対等な関係とは違っても、オプスブル家として告げる覚悟を決める。
そして、彼は静かに胸に手を当てながら、彼女に跪いて口を開く。
「レティシア様、この時を持ちまして、私どもオプスブル家は、レティシア様の望まれますように動きます。我々、オプスブル家はレティシア様が自在に扱える手足となりました……ですが、どうか、今だけはエディット様の最後の願いを成就させてくださいませ、お願いいたします」
レティシアはルカの言葉を聞いて、目を瞑って下唇を噛んだ。
溢れてくる涙を堪えて、彼女は喉の奥が痛くなるのを感じた。
(……わがままは……もう許してもらえないのね……帝都で問題になっている奇病は、未だに原因も治療法も発見されていない……進行も人によって違う……分かっているわ……。オプスブル家は、私を次に仕えるフリューネの主だと認めた……まだ諦めたらダメだ、まだ、まだやれることは、あるかもしれない……お母様のためにも)
レティシアはそう思うと、ドレスの袖で涙を拭った。
それから、エディットの手を取ると、伝えたい言葉を伝える。
それは、彼女が少しでも、後悔しないためなのかもしれない。
『お母様、例え傍にいなくても、離れていても、私はお母様と一緒です。……お母様……私はお母様の娘として、生まれてこられて……幸せです……』
「私もよ。レティが私の元に生まれて来てくれて、幸せだったわ……愛しているわ……」
エディットの言葉を聞いたレティシアは、ベッドに上がるとエディットの首に腕を回して抱き付いた。
そして、泣きそうになる気持ちを堪えて、覚悟を見せるように言う。
『お母様……行ってまいります』
エディットもレティシアの体に腕を回し、小さな温もりを忘れないように彼女を抱きしめた。
頭の中を駆け巡るのは、これまでの些細な日常。
本を読んでいたレティシアが振り返り、彼女に向かって笑顔を浮かべる。
ルカとレティシアを挟んで、3人で本を読んだこともあった。
そのまま寝てしまい、3人してリタに叱られた日もあった。
レティシアの花壇で、泥だらけになって草むしりもした。
そんな些細な出来事を、これからはできないのだと思うと胸が痛む。
「行ってらっしゃい……レティ……」
レティシアは、エディットが一瞬だけ力を込めたのが分かった。
それでも腕が緩むと、彼女はエディットから離れてベッドから下りる。
そして、ドアの方に向かって歩き出す。
後ろから、ルカが付いてくるのが彼女には分かった。
『リタ、お母様のことは任せたわ。最後まで護って』
レティシアはドアまで行くと、そう言って振り返ることもなく、部屋を後にした。
「レティシア様、かしこましました」
レティシアが去った部屋から、そう言うリタの声が、微かに浮遊魔法を使って進むレティシアの耳に届いた。




