第50話 静寂の緊張
神歴1491年3月3日。
空は灰色に染まり、雲は太陽を覆い隠す。
太陽を求めて花々は背を伸ばすが、その願いは届かない。
屋敷内は異様な空気に包まれ、残った者たちの背筋が警戒という名で伸びる。
張り詰めた空気の中で、それでも呼吸するように人々は忙しく動く。
エディットは背筋を伸ばし、玄関の扉を見つめた。
昨年のことを考えて、彼女はレティシアに部屋に居るようにと伝えている。
そのため、不安な気持ちが薄れ、彼女は堂々としていた。
扉の向こう側で人の気配がして、彼女は背筋を伸ばす。
ロイヤルブルーの瞳は真っすぐに扉を見つめ、扉が開くのを静かに待つ。
扉が開くと、ブラウンの髪色をした男性が入ってきた。
男性の手が自然に上着の裾をつかみ、すっと下に引っ張って整える。
彼の行動が全て、疑わしく感じてエディットは目を細めた。
彼がここに来る理由も、目的も分からない。
レティシアが危険に晒されたのは、1度だけ。
それでも、彼は娘を血眼になって探している。
それだけで、エディットは彼を疑う理由は十分だと思う。
「やぁ、エディット。今年は俺の願いを聞いてくれたんだんな。ありがとう」
ダニエルは腕を広げても、もうエディットが抱き付いてこないことを知っている。
そのため、彼は満足そうに言うと、エディットの手首を強く掴むと抱き寄せた。
彼女の目が気にいらない、彼にとって理由はそれで十分だ。
彼女の右耳元に口を寄せて、彼は囁くように言う。
「今年も君に渡したいものがある、早く部屋に行こう」
その瞬間、エディットは背筋に氷が伝う感覚を感じてゾッとした。
そして、引っ張られるようにダニエルに連れて行かれる。
手首に痛みを感じて、彼女は眉間にシワを深く寄せた。
一方その頃。
部屋に居たレティシアは、ルカとソファーに並んで座っていた。
しかし、2人は話さず、ジッとテーブルの上に置かれている緑のピアスを見つめている。
レティシアの顔は険しく、それでいて耳はピアスに集中している。
暫くすると、ピアスから扉が開く音がして、部屋は背中が汗ばむような緊張に包まれる。
*
「リタ、悪が出て行ってくれ」
ダニエルは低い声を出して言った。
「……」
「リタ?」
リタは不安げなエディットの声を聞くと、口内を噛んだ。
元から決めていたことだが、それでも彼女はエディットを残していくのが不安だった。
「……かしこまりました」
エディットはリタがドアに向かうと、ホッと胸をなで下ろした。
そして、彼女はダニエルに厳しい視線を向ける。
彼が振り向くと、エディットの胸は大きく弾む。
そこには、緊張と混ざり合った恐怖と、若干の期待があった。
ドアが閉まると、彼の口が動く。
「エディット、会いたかったよ」
「……そう? それなら、もうちょっと帰って来てもいいと思うのだけど?」
「俺も忙しんだよ。ほらっ! これもまた改良したんだよ。着けても良いだろ?」
エディットは差し出された、赤紫の宝石が付いた指輪を不安げに見つめた。
ここの来る理由が、これを渡すだけにも思えてしまう。
それでも、彼を信じたい気持ちが、その気持ちを拒む。
結局、彼女は手を差し出す。
「ええ……ねぇ、ダニエル。今回は壊れたりしないよね?」
「ああ、あれからも研究を続けてて、今回は自分で言うのもアレなんだけどさ、結構自信があるんだよ」
「それならいいのだけど……また壊れてしまったらどうしようかと思うと、何もできないわ……」
「大丈夫だよ、エディット。今回は壊れたりしないさ」
「そお?」
「さすがに、毎回のように壊れてたら、研究費もかさむからね。大丈夫だ。信じてくれエディット」
ダニエルは不安げに指輪を見つめるエディットを、抱き寄せるて言った。
そして、エディットが小さく「分かったわ……」と答えると、彼は安心したように微笑んだ。
それから、彼女の耳元で「ありがとうエディット、愛してるよ」と囁いた。
*
『渡したわね』
「ああ、一緒だな……後でアルノエたちにエディット様の魔力を観察しておくように伝えとく」
『ルカ、ありがとう』
「はぁー……スキア隊が帰ってたら、もうちょっと楽なんだけどなぁ……」
ルカはソファーにもたれ掛かりながら言うと、ため息をついた。
彼は視線をレティシアに向けると、小さな手でピアスを耳に着けているところだ。
彼女が彼の方に向くと、感情の読めない表情で話し出す。
『仕方がないわ。帝都の問題が片付いてないんでしょ? ルカとフリューネのみんながいるから、大丈夫だよ』
ルカはレティシアから、信用してもらっているのを嬉しく思う。
だけど、なぜだか彼は小さな不安を覚えた。
それが何か分からず、彼はほんの少しだけ首をかしげる。
そして、瞳に映る彼女だけは、護らなければならないと感じた。
「んで? これからどうする? 書庫に行くか?」
『そうね……。動くのは4日目とかだと思うから、書庫に行こうと思うわ。調べていたことの続きもしたいし……。でも、一応去年と同じように、勝手に部屋に入られたりしないようにはするけどね』
「その方がいいな」
ルカはレティシアを抱き抱えると、ダニエルに会わないように急いで書庫に向かった。
屋敷は使用人が少ないとはいえ、多量に仕事で溢れている。
それにもかかわらず、とても静かに感じた。
書庫に着くと、本独特の香りが出迎えてくれる。
魔法で照明を点けると、天井まで伸びる本棚が姿を現す。
ルカはレティシアを床に下ろすと、彼女が走っていくのを見て静かに追いかけた。
「そう言えば、一昨年と違って、金の話をしなかったな」
本を探していたルカが、思い出したかのように聞いた。
すると、お目当ての本を探しながら、レティシアは答える。
『去年もしなかったよ。その代わりに、私を捜し歩いていたみたいだけど』
「ふ~ん? じゃ、今年も探しそうだね」
何気なくルカが言った直後。
<ガチャガチャガチャガチャ>
突然、書庫内にドアノブを激しく何度も回す音が響いた。
全く警戒していなかったレティシアとルカの2人に緊張が走る。
書庫の魔方陣があるため、開くことがないと分かっていても、あまりの乱暴さに不安になった。
「っんだっよ!! また部屋は開かねーし、ここも開かねーのかよ!」
ダニエルの声が聞こえて、ドン! と扉を強く叩く音が書庫の中に響く。
(今回は早いわね……まだ初日なのに来たってことは、もしかしたら去年も初日に部屋を確認したの?? あー! もう!! アンナにいつお父様と接触したか、聞いておくべきだったわ!)
レティシアはそう思うと、頭をかきむしりたい衝動に駆られた。
これは完全にレティシアの判断ミスだ。
「去年のメイドもいねぇーし、ガキにあのメイドを付けろって言ったのに、本当に使えねぇ女だなぁ! あのガキ、騎士団の方にまた居るんじゃねぇだろうな……、クソッ!!」
ダニエルがイラついている声が聞こえ、勢いよく扉を蹴る音が鈍く書庫の中に広がった。
次第に人の気配は遠のき、再び書庫には静寂が戻っていく。
「おまえ、あんなのと本当に直接話すのか?」
ルカは唖然とした様子で、レティシアに聞いた。
暴力的な一面を目撃したことによって、彼は不安になった。
けれど、彼女が面倒くさそうにため息をつくと、さらにルカを不安にさせる。
『去年は、リタに殴り掛かったそうよ……』
「はぁ? それであいつは、まだ生きてんの???」
レティシアは、ルカが驚いて呆れながら話すと、彼の方を1度だけ見た。
そして、本棚に目を向けると、本を探しながら淡々と答える。
『そうよ、お母様が止めたからね。まぁ、それも後で知ったわよ。リタがオプスブルから来た人だってこともね。それで納得したわ。殴られたのに、怪我の1つもしていなかったからね』
「……」
ルカは俯きながら、話せないことを苦しく感じた。
できることならば、彼女に全て話してしまいたい気持ちが強くなる。
それでも、立場と彼の性格がそれを許さない。
彼はただ俯き、彼女にその気持ちを悟られないよう気持ちを隠す。
『何も言わなくていいよ。言ったでしょ? 別に言わなくていいって。でもリタとパトリックが、そちら側だって分かった時、正直に言えば安心したのよ……さすがにリタとパトリックが裏切り者だったら、その場で私が彼らの時を止めたからね』
「レティシアは俺のこと、嫌いになったりしないの?」
レティシアは不安げに聞いたルカに、首をかしげた。
そして、彼女は彼を見つめて話す。
『なんで? 人の命を奪うから? 人の秘密を暴くから?』
「……」
レティシアは、何も答えないルカから目を逸らす。
それから、本棚から本を取り出すと、本を開きページをめくりる。
彼女は、彼が好きでやっているわけじゃないことを知っている。
だからこそ、彼女は本音で話すべきだと思って話し出す。
『正直さ……私には関係ない所で、私の知らない誰かが死のうが生きようが……どうでもいいんだよね。そもそも、自分と関係ない人のことまで、気にして生きている人なんてあまりいないと思う。きっと今日も……この瞬間にも、世界のどこかで誰かが死んで、誰かが生まれている。そして、誰かが誰かの秘密を握っているんだよ。そんなことを、全部気にしながら、生きている人なんていないでしょ? 私は私の護りたい者を護る。もし、誰かが私の護りたい者を傷付けるなら、私がそいつを処刑台まで送ってあげるよ。そう思っている私を、ルカは嫌いだと思う?』
ルカはレティシアを見ると、彼女が振り向いた。
そして、首をかしげながらニッコリと笑う。
その瞬間、ルカは泣きそうになって床を見た。
彼女がなんでもないように笑い、受け入れたくれるのが彼は純粋に嬉しかった。
化け物じゃないと、言ってくれているようにさえ聞こえ、彼の心が軽くなる。
それでも、彼は手のひらを見ると、赤黒く染まった血の跡が見えた気がして拳を握った。
複雑に絡む感情がなんなのか、彼には分からない。
それでも、ルカは彼女の近くに居たいと思う。
「……いいや、思わない」
『でしょ? それと同じだよ。人ってさ……冷酷になれるんだよ……大切な者を本気で護りたいって思った時や、失ってしまった時って……』
「……そっか」
レティシアは一瞬だけルカの方を見ると、わずかに微笑んだ。
この気持ちが少しでも伝わればいいなと思いながら彼女は続ける。
『ルカも、その1人だからね……信じているよ、ルカ』
ルカは強く目を閉じると、込み上げてくる気持ちを押し込めた。
それでも目を開けると、目に涙が滲む。
彼はそれを隠すように本棚の方を向くと、小さく息を吐き出す。
そして、本を取り出して短く「ああ」と返して本を開いた。
(ルカは優しい……それにまだ子ども……。それでもこの先、彼が彼の運命から逃げることを、決して誰も許さない。どんなに血塗られた道でも、彼は進むしかない。この帝国がある限り、それは変わらない……そして、ルカがルカとして生きている限り、それを背負っていくしかない……それが闇で生きる人の運命だから……)
レティシアはそう思うと、本の続きを読んでいく。
1度でも助けたいと思った少年が、簡単に助けられない場所に居る。
そのことを分かっているかこそ、レティシアの胸に鈍い痛みが残った。




