第41話 恋蠱惑の渦
神歴1490年6月8日。
空は綺麗な青に染まり、太陽は輝き暖かい日差しで空気を暖め。
風が吹くと、花々の香りが広がり、初夏の匂いを運ぶ。
それはまるで、新緑の季節から初夏へと移り変わりを知らせる。
庭園では色とりどりの花が咲き乱れ、その中をニルヴィスがレティシアを連れて過ごしている。
訓練後、騎士団では緊急の会議が開かれていた。
それに参加できないレティシアは、1人で時間を潰すしかなくなる。
しかし、ニルヴィスが気を使って、彼女を外に連れ出した。
普段のレティシアは、アルノエと過ごす時間が多い。
けれど、ニルヴィスがレティシアのことをいつも気にかけている。
そのため、レティシアは彼と過ごす時間も多い。
彼女はニルヴィスの気遣いに感謝し、彼を信用している。
ニルヴィスは、自由に庭園を歩き回るレティシアを見つめた。
その瞳は、柔らかく温かなものだ。
そろそろお昼の時間が近づくと、彼はレティシアに声をかける。
「レティシアちゃん、そろそろお昼だよ~食堂に行こ~」
ニルヴィスがそう言うと、レティシアが彼に向かって走ってくる。
小さな手を前後に振り、小さな足で地面を蹴って前へ前へと進む。
その姿がかわいいと思うと、彼はふわりと彼女を抱き上げてくるっと回った。
彼はレティシアをしっかりと抱きしめ、2人で食堂へと向かう。
「レティシア様!」
庭園から屋敷内に入ると、突然レティシアを呼ぶ声が聞こえた。
声がした方を見ると、そこにはアンナが立っている。
アンナはレティシアが振り向くと、軽く拳を握り、レティシアに向かって歩き出す。
その足取りは迷いがなく、ズンズンと真っすぐに進む。
アンナは彼女の前まで来ると、ブラウンの瞳にレティシアを映す
「レティシア様は、いつ頃お部屋に戻ってくるのでしょうか? もうダニエル様がお屋敷を出て行かれて、結構月日が経っております! あのお部屋は、もうお使いにならないのですか?」
「つかうけど、あさ、いないよ?」
アンナはレティシアがそう言うと、胸に棘が刺さったみたいに傷んだ。
彼女は握っていた拳を胸の辺りで強く握ると、レティシアに向かって感情的に声を出す。
「なぜですか!? 前まではアルノエ様と、楽しく3人で過ごしていたじゃないですか!? レティシア様がお部屋に戻ってくれば、また元通りになると思うんです! なので、また以前のように、お部屋に戻って来てください! お願いします!!」
レティシアはアンナが頭を下げると、静かに彼女を見つめた。
そして、できるだけ冷静に話す。
「あんな、しごと、ほかあるよね?」
アンナは顔を上げると、レティシアを見つめる。
その目には涙が滲み、感情が溢れてくるのを抑えきれないようだ。
彼女は悲しみに満ちた声で、縋るように言う。
「仕事はありますが、わたしは寂しいんです。突然アルノエ様が来なくなって、レティシア様もお部屋に帰らなくなって……なのに……お屋敷で、楽しそうに過ごす、御二人の姿を見たりもして……本当なら、わたしもアルノエ様の隣に居たはずなのに……って思うと悲しいです。苦しいです。――訓練場や宿舎の方に伺っても、わたしじゃ会えないし……、それで……別の方法でお会いしに行ったのですが……それでも会えなくて……。お屋敷の外へと、お出掛けになるのを見たら余計につらかったです……、お仕事は大丈夫です! なので、お願いします!! お部屋に戻って来てください! お願いします! レティシア様!」
レティシアは、そう言って頭を下げたアンナを見つめる。
だが、彼女の顔からは、表情がどんどん抜け落ちていく。
アンナを見つめる目は、冷たく刺す刃物のようだ。
(やっぱりこの子か……、私が宿舎に居ることも……街に出たことも……その情報をお父様に流したのは……)
ニルヴィスはレティシアの雰囲気が変わったことに気付いた。
彼女から殺気を含んだ冷気が、どんどん漏れ出そうで、彼はあえて口を挟む。
それはいつもの無邪気な青年のようで、親しみを感じる笑顔をアンナに向ける。
「アンナちゃんだっけ? 君の気持ちが分からない訳じゃないけどさぁ、レティシアちゃんが今部屋に戻っても、アルノエは以前のように、君に接しないと思うよ?」
アンナはニルヴィスの言葉を聞くと、顔を上げてキッと彼を睨み付けた。
涙が浮かぶ目は、徐々に怒りが瞳に宿る。
「あなたは、なぜそう言えるんですか!?」
アンナの態度に、ニルヴィスの顔からいつもの無邪気な笑顔がスーッと消える。
彼は微かに光を帯びたダークグリーンの瞳で、真っすぐにアンナを見ると薄ら笑いを浮かべる。
「1番は君の行動だね~。君さ、働く場所が変わったでしょ? ボクたち騎士団は、エディット様が君を拾ってきたこともあって、君が感情的にレティシア様に接触しなければ、1度は目を瞑ろうってことにしたんだよ」
ニルヴィスはそう言うと、アンナを見る瞳が氷のように冷たく、刃物のように鋭いものへと変わる。
それは、騎士団の副団長として立場や、護衛としての立場がそうさせているのかもしれない。
けれど、彼の瞳には確かな敵意と、裏切りに対する怒りが含まれている。
「だけど、君はこうやって接触した。そして、今のアルノエはレティシア様の護衛に就いてる。 “自分が護るべき主” を “身勝手な気持ち” で “危険に晒した者” をアルノエは決して “許さない” ボクたちの団長も決して許さないし、もちろん、ボクも君を許すつもりは微塵もない。――それと、今さらだけど、逃げようと思わないことだね。仮に逃げたら……その時は問答無用で、首と胴がバイバイしちゃうからさ。――また後で君に会いに行くよ。君が会いたいと思ってる “アルノエ副団長” と一緒にね」
アンナは騎士団や屋敷内で働いている者たちが、敵だと判断している相手に情報を与えたのだ。
今さら、自分のしたことの重大さが、やっと理解できた彼女の顔からは血の気が引いていく。
「そ、そんな……」
そして、アンナは力なく、その場に崩れ落ちた。
彼女の目からは涙が流れ、軽く頬を伝い、やがて零れ落ちる。
力を失くした腕は静かに垂れ下がり、地面が無気力な手を支える。
(恋に溺れて周りが見えなくなった結果か……バカバカしい。お母様に拾ってもらった恩を仇で返すなんて、余計に救いようがない……。ルカやお母様が、お父様を警戒していたのを、アンナは去年も近くで見ているのに……そのお父様に協力してまで、ノエに会いたかったのね。恋は盲目と言うけど、ここまで周りが見えなくなる物なのね……)
そう思いながら、レティシアはアンナから視線を逸らさずに、ニルヴィスに話しかける。
『ニヴィ、行こう。後で捕縛するなら、今は時間の無駄でしょ。それとも、私が1人で食堂に向かった方がいい?』
ニルヴィスはレティシアの顔を見るが、彼女の表情からは考えが読めない。
それでも、レティシアの瞳には怒りと、悲しみが混じっているんだと彼は思った。
彼はテレパシーを使われたことで、何も言わずに踵を返すと食堂へと向かう。
レティシアたちが食堂に着くと、そこにエディットの姿はない。
しかし、食事が運ばれ始めてから、遅れてエディットが食堂へとやってきた。
食事の時間が始まり、誰も話さない中で食器だけが静かにカチャカチャと小さな音を鳴らす。
エディットはふと手を止めると、不安げにレティシアを見た。
静かに食事しているレティシアに、どう話しかければいいのか悩み。
できるだけ平然を装って、彼女はレティシアに話しかける。
「レティ。そろそろ、もうお部屋に戻ったらどうかしら? 朝の訓練も、もう少し……回数を減らすか、時間を短くしたらどお?」
レティシアはエディットの言葉に、手を止めた。
彼女はゆっくり目を閉じると、苛立ちを抑えるのに一呼吸する。
それでも、沸々と気持ちが湧き上がると、彼女は目を開け。
静かに持っていたスプーンを置いて、エディットの方を向く。
『お母様、それはお母様の考えでしょうか? それとも “誰か” から、お願いされたのでしょうか?』
エディットはレティシアの言葉に、若干の殺気が混じっていることに気付く。
初めて娘から向けられた殺気に、彼女は困惑し焦りを感じる。
そして、少しだけ言葉に詰まりながら答える。
「……そ、そうね……あ、アンナがね、寂しがっていたわ……だ、だからね? ……私から、レティに言ってほしいって……言われて……」
『それなら、すでに解決しました。なので、もう何も問題はございません』
「そ、そお? そ、それならいいんだけど……」
レティシアはエディットの言葉を聞いて、食事を再開した。
しかし、食事が思った以上に喉を通らず、彼女は横目でニルヴィスの視線を向ける。
彼はちょうどジョルジュに目配せをし、共に食堂を出て行くところだった。
その様子から、レティシアはニルヴィスが先程のことを、伝えるのだと思って再び食事に視線を戻した。
ニルヴィスはジョルジュにアンナのことを伝えると、食堂へと戻った。
しかし、食堂に入ると、待っていると思っていた、レティシアの姿が見当たらない。
彼は焦りから、慌てて使用人に彼女の行き先を聞く。
テラスに向かったと知ると、彼は急いで彼女を追い掛けた。
彼は今の彼女を、少しでも1人にしたくなかった。
そして、テラスに向かう途中でティシアを見つけると、彼はホッと胸をなで下ろす。
それでも、彼女の小さな背中が悲しげに思え、ニルヴィスは後ろから彼女を抱き上げる。
「つーかまえった!」
『テラスに行くだけだし。捕まるような、悪いことなんてしていない』
レティシアは不貞腐れたように言った。
彼女は少しでも気持ちの整理が、したかったのだ。
「うん、そうだね……レティシアちゃんは、何も悪いことしてないね。……ねぇ……レティシアちゃん……」
『なーに?』
「……ボクじゃ、ルカ様の代わりも、エディット様の代わりもできないけど、君を少しだけ抱きしめたり、君とお話しすることはできるよ?」
ニルヴィスはそう言うと、レティシアを優しく抱きしめた。
すると、微かに彼女がニルヴィスの服を掴んだ。
その手は何かを堪えるように、少しだけ震えている。
『……アンナがさ』
「うん」
『ノエのことを好きだって気付いてた……』
「うん」
『……でも、なんもできないからって思って、何もしなかった。ううん、それだけじゃなくて、彼女とノエが関わる時間も奪った……』
「うん。でもレティシアちゃんが、訓練に参加するってなった時点でね。ノエは彼女に、今後朝は来なくていいことを、伝えてたよ。もちろん、団長からジョルジュ様にも、パトリックにも伝えてあった。だからレティシアちゃんの責任じゃないよ」
『それでも……、それでも……2人が過ごす時間を奪ったって思うのに、アンナに同情したり、悲しんだりする私はいなくて。間違った行動をした、当然の報いだと思っているところがあるの。……ねぇ、ニヴィ……私はちゃんとアンナのことが……好きだったのかな?』
レティシアはそう言うと、ニルヴィスの服にしがみ付いて静かに涙を流した。
「ちゃんと好きだったから、レティシアちゃんは怒ったんじゃない? 彼女のことを気にしてたんじゃない? 少しは傷付いたんじゃない……? 大丈夫だよ。君はちゃんと好きだったと思うよ……」
ニルヴィスは優しく言うと、レティシアを抱きしめながら、頭を優しくなでた。
彼はレティシアが、人の愛し方で悩んでいるとは夢にも思わなかった。
なぜなら、彼は彼女が誰からも愛されていると思っている。
それは、エディットのおかげもあるが、相手を気遣い思いやる、そんな彼女の人柄も大きいからだ。
それにもかかわらす、レティシアの言い方は、まるでこれまで愛を知らずに育った子どものように聞こえ。
ニルヴィスは、胸に鉛が詰まった様に感じて苦しくなった。




