第241話 沈黙の狭間で揺れる境界
神歴1505年2月18日、リスライベ大陸。
分厚い雲が空を支配し、紫の稲妻が雲の間を走り抜けるように、時折雲が明るい紫に染まっていた。
ゴロゴロと鳴る空とは違い、テネアルクではパタパタと走る足音や、生活音が至るところで鳴っている。
そして、1人……2人と、書物や書類を抱き抱えながら、街の中央にある塔の中へと、小走りで入っていく。
反対に塔から出て来る者は、眉間にシワを寄せ、ブツブツと言いながら頭をかいている者や、唐突に思い出したかのように走り出す者がいた。
塔の中に入ると、上空から人の名を呼ぶ野太い男性の声がした後、見上げながら女性が答えている。
上階の通路には、下を向いている赤い目の男性が居り、ガヤガヤと音が彼の声と共に降り注ぐ。
けれど、男性が要件を伝えきったのか声が止み、頭を上げて男性が奥の方へと消えていくと、天井まで続く吹き抜けに静寂が訪れた。
考えるような仕草をしながら赤目の女性は数秒佇んでいたが、目を大きく開いて頭を上下に一度振ると、出入り口の方へ小走りで駆け出す。
その時。女性と入れ替わるように、身長に差のある2人の男性が姿を見せた。
「禁書庫にある書物は、ある程度確認作業が終わりました。しかし、まだ確認していない書物が各地に残っています。それに……」
「それに何ですか?」
思わず言い淀んでしまったオクターは、ニクシオンの問いに対し、「いえ……なんでも……」と視線を下げながら答えた。
調べてほしいと言われたから、国をひっくり返す勢いで、全ての書物を調べている。
しかし、本当に全ての書物を対象にしているのかと言われれば、調べているとは言えない。
「言いたいことがあるのであれば、はっきり答えさない。オクター」
背筋に冷たい汗が流れ、オクターはゴクリと喉を鳴らした。
しかし、どうしても言葉にできず、「それは……」と言ってみたものの……後に続かない。
口にすべきか悩んでいると、「はぁ……」と深いため息がニクシオンの方から聞こえ、オクターはゆっくりと顔を上げていく。
だが、軽く息を吸い込むと、直視することが出来ず、途中で視線が下がってしまう。
「もしや、虚線書庫ですか?」
考えていた書庫の存在を口にされ、オクターは何も言えず、喉の渇きを感じて唾を飲み込んだ。
歴史とは違い、誰も触れてはならない一線がこの世界にはある。
世界に命を芽吹かせ、多くの種族を創り、理すら書き換えた精霊。
その精霊ですら、めったに触れない世界の理。
遥か彼方の昔から、明確な線引きとして虚線がある。
線に触れる可能性があるモノは、世に存在してはならないとし、精霊たちの言葉に従って虚線として扱ってきた。
けれど、その虚線書庫内を管理する者はいない。
だが、虚線書庫の外側を管理する魔法は、禁書庫よりも厳重で、他者の侵入を拒む世界の始まり。
知識としては知ってはいるが、実際に耳にするのは、些か魂がざわつくとオクターは密かに思いながら、右手を左手に重ねて力を入れた。
「レティシア様から頂いた書簡には、転移魔法に似た物とありました。ですから、虚線には触れていないのだと認識しています」
「……それは、理解しています。ですが……」
「確かめなければ、レティシア様が受け入れない。そう、考えているのですか?」
ニクシオンは、小さく「はい……」と答えたオクターを静かに見つめた。
レティシアから届いた書簡には、アルフォルティアで起きた出来事と、光の柱について知らないかと書かれていた。
それと同時に、もし知らないのであれば、調べて答えろとも書かれていた。
つまり、彼女は何かしら魔族が知っていると踏んで、聞いてきている。
いや……始まりの一人とされる闇の精霊と深いつながりがあるからこそ、答えられると思われているのだろう。
けれど、それは同時に魔族が役割から逸れることも、彼女は理解しているはずだ。
それなのに、聞いてきたとなれば、彼女が曖昧な返答で満足するはずがない。
「確かに、たとえ可能性が低くても、少しでも可能性があるなら、あの方は様々な可能性を考えています。しかし、考えられる可能性があったとしても、踏み入れてはならない領域が虚線です」
「しかし、そのように考えているのは、魔族だけかもしれません……」
オクターの言葉に、ニクシオンは少しだけ眉を顰めてしまう。
生まれた時から、それぞれに役割があり、その役割に沿って生きるのが当然だと思ってきた。
しかし、レティシアと言葉を重ねるたびに、行動と意志や関係性が役割を与えているのだと思えた。
それでも魔族は、暗黒湖の管理者という役割は捨てられず、小さな命にすら役割を背負わせる。
ふと、彼女から届いた書簡に書かれていた言葉を思い出し、「……箱は、やはり箱ですか……」と小さく呟いた。
何かを望むのであれば、変わることも、変わっていくことも、受け入れるべき時なのだろう。
理解していても重く、判断を揺るがす。
それなのに、目の前にいる弟は、魔族でありながらも柔軟なのだと……少しばかり羨ましく思える。
「虚線書庫に入る術は、闇の精霊様しか知り得ません。そのため、オクター。あなたはすぐにベルグガルズ大陸に向かって、ルカ様に事情を話してください」
「畏まりました」
「レティシア様の魔力が込められた宝石があれば、こちらから向こうに行けるはずです」
「はい、すぐに出立します」
ニクシオンは頭を下げたオクター見て、軽く息を吸い込むと、ゆっくり瞬きをしながら肺を空にする。
ある日、気が付いた時には、暗黒湖の気配が変わっていた。
遠い遠い昔のことだが、変わったことに気付いた日のことは今でも覚えている。
その日から、精霊の気配が暗黒湖で、強く感じ取れる時があった。
けれど、知ってはならない領域だと、心が、血が、存在の全てが、語りかけているようでもあった。
だが、魔族以外が役割で生きていないのであれば、世界の目を欺き、虚線に触れている者がいるのかもしれない。
そうなれば、世界の均衡は再び崩れる。
「理に縛られない者たちは、いつだって平気で他者を犠牲にする。そして、幾度も幾度も、我々の大切な者たちを犠牲にし、さも当然かの様にその理が元からあったかのように思って居る」
背を向けて歩き出していたオクターは、唐突に聞こえたニクシオンの言葉に、「え?」と腑抜けた声を出した。
振り返ってニクシオンの顔を見るが、曖昧に笑う彼からは、どこか悲しんでいるようにも思え、余計に発言の意図がつかめない。
先ほどの発言の意味も考えるが、世界の理を維持するための犠牲は、魔族にはない。
そのため、「どういうことですか?」と聞き返したが、悲しげに笑うニクシオンの表情に目が釘付けになった。
「あなたが生まれた頃、闇の精霊から言われた言葉です。その日から私は、それまで以上に役割に執着しました。そうすれば、闇の精霊が憎悪の目を……魔族に向けないと思ったからです」
「闇の精霊は、誰かを憎んでいたのですか?」
ニクシオンは優しくオクターに笑いかけると、首をゆっくり左右に振った。
そして、「誰か……と言われれば、違うでしょうね」と答えてから、少しだけ目を伏せながら話す。
「しかし、正直のところ、私は闇の精霊の気持ちを知りません。分かっていることは、ただこの世界が、闇の精霊と光の精霊が望んだ世界ではないことだけです」
「……それは、エレニア様のご両親のことがあったからですか?」
エレニアの両親について、ニクシオンもよく知らない。
知っている情報は、全て闇の精霊から聞いた物であり、直接関わったわけではない。
それでも、『光と闇が紡ぐ守りの約束』や初代オプスブル家当主の態度から、精霊たちがエレニアの両親を愛おしく思っていたのは分かった。
そして、大切なものを理不尽に奪われた時、心を持つモノが濁らないと、ニクシオンも言い切れない。
だからこそ、彼は有り得る可能性として考えてしまう。
「さぁ、そこは語ってくれませんでした。しかし、私はそのように理解しています」
オクターはニクシオンの話を聞きながら、理に縛られている者を考えていた。
闇の精霊と契約を交わしているオプスブル家現当主は、理に縛られているとは言えない。
であれば、フリューネ家か……とも考えたが、明確に理に縛られているとも言えない。
(けれど、その認識すら間違っているとすれば……?)
「オクター、精霊の隠し事を知ろうとすれば、世界を揺るがしますよ」
考え耽っていると、ニクシオンの言葉が耳に届き、オクターは我に返った。
そして、すぐに視線を下げると、「申し訳ございません」と謝罪を口にする。
多くのことを知っているようで、実際は何も知らない。
その事実が今は重く、知りたいと思考することが、彼らの秘密を暴くようで罪悪感が沸く。
けれど、世界の真実を知りたいと思いながらも……考えてはならない気さえしてくる。
それでも、今は言われたことをしなければと思い、「それでは、行ってまいります」と頭を下げると、ニクシオンに背を向けて歩き出す。
一方、ニクシオンはオクターの小さな背中を見つめながら、軽くため息をついた。
所詮、魔族は暗黒湖の管理者だが、世界の管理者ではない。
だからこそ、世界の理をすべて理解していると思わない。
しかし、精霊たちが世界の理を書き換えてしまった日から、この世界で代償を払い続けているモノがいるような気は、消えていった幼い精霊たちの嘆きから感じていた。
その代償が何なのか、知る術はあるのかもしれない。
だが、闇の精霊さえも明かさない世界の真実を、知らない方が世界は平和なのかもしれない……とすら思える。
世界の均衡を取るのか、それとも代償を終わらせるのか……
ニクシオンは天井に視線を移すと、暫くの間、紫色に光る雲を静かに見つめていたが、ゆっくり目を閉じた。
時同じくして、ベルグガルズ大陸ヴァルトアール帝国の空は、薄く伸びる雲の縁だけが、金粉を散らしたように光っていた。
建物の細く長く伸びる影を落とす一方で、灯された街灯が淡く世界を照らし始める。
サーッと風が吹き抜けると、葉を散らした木の枝が揺れ、歩いている人々は首元の襟をそっと正す。
人々が行き交う道路で、ふと杖をついた老人が足を止めると、白い建物がある方を見ながら「ああ、いい匂いだ」と告げた。
老人が向いている方向の先には、門番がコップを持っており、湯気が立っている。
白い建物は、陽がまだあたる部分がオレンジ色に染まり、日が当たらぬ部分は影が落ちている。
暫くしていると、「爺さん、何か用か?」と門番の声がし、老人の「いやいや、フリューネ侯爵家は、変わらぬと思うてな」という声が続いた。
けれど、「はは、そりゃーどうも」と門番の声が軽く響き、続けてパシャッと地面に水分が当たる音がし、カチャとわずかに剣が鞘から抜かれる音が続く。
「用がないのであれば、即刻立ち去っていただけると、我々もあなたを切らなくすみます」
「何じゃ、ただ匂いにつられて立ち止まっただけじゃろ!」
老人がブツブツと言いながら立ち去ると、「はぁ、もったいねぇことした」と足元に広がるシミを見つめている門番の声がした。
門の奥にあるフリューネ侯爵家の窓には明かりが灯っており、木の枝が風に揺れる音だけが敷地内に響く。
そんなフリューネ侯爵家の一室では、テーブルを挟んで向かい合わせに座る人物がいた。
「なるほどな」
「まぁ、実際におれが見たわけじゃないけど、そういう報告を受けたよ」
ルカは向かいに座るアランを見つめると、暫くして深くため息をついた。
アランの弟であるオスカーは、エルガドラ王国の元王妃であるアンドレアが処刑されてから、幽閉されてきた。
しかし、そのオスカーが死んだと先ほど報告を受けた。
(オスカーの使い道は色々とある。だからこそ、エルガドラ王国は彼を処刑せず、幽閉という対策をとった。が……死んだ……ね。調べる必要はあるのかもな……)
「レティシアが絡んでいる可能性は?」
アランは首を左右に振ると、正直に「分からない」と肩を落としながら答えた。
けれど、当時のレティシアとオスカーの様子を思い返しても、たわいもない会話をしている程度の認識しかない。
それに、もしレティシアが他国で、オプスブル家に隠れて何かできるとも思えない。
「おれがこっちに来てからも、彼女がオスカーと接触してたのは知ってるけど、何か企てるにしても、オプスブル家の目が届かないことはあるのか?」
「無いとは言い切れない。お前も知ってるだろ?」
冷たいルカの赤い目を見ながら、アランは軽く息を吐き出し、「リスライベ大陸か……」と思い当たる答えを述べた。
その瞬間、更に鋭さが増したルカの目元に、ゾゾッと全身に悪寒が走り、気付かれないように唾を飲み込んだ。
「そうだ、彼女はリスライベ大陸とベルグガルズ大陸を好きな時に、好きに行き来できる。となれば、オスカーを隠すことも不可能じゃない」
「ニルヴィスの一件を聞いたからには、おれも一度遺体を確認した方がよさそうだね」
周りに死んだと思わせ、実際には生きていた事例をレティシアは作った。
そのことを考えれば、アランは今回もあり得ない訳ではないと考えた。
けれど、どこか腑に落ちないような気がしてしまう。
(一度使った手を、こうも短期間で何度も使うのか? レティシアなら、おれたちが彼女を怪しむと考えるはずだ……、ルカもそう考えてるからこそ、おれに調べさせるために、ニルヴィスの件を話したはずだ……なんだ、この違和感)
考え耽っていると、「悪いな……」と申し訳なそうなルカの声が聞こえ、アランは曖昧な笑みを浮かべた。
そして、変わったようで変わらない親友に向かって、優しく本音を告げる。
「気にしてないと言えば嘘になる……だけど、本当なら8年前に処刑されててもおかしくなかったんだよ。その弟が本当に死んだだけかもしれない。それだけだよ……」
ルカは目を伏せると、肘掛けに頬杖をついた。
視線の先にある白いカップは、外側は白いのに、内側には紅茶の色をわずかに反射させている。
カップと紅茶の境がどこにあるのか、見ただけで分かる。
けれど、目に見えない境は、いつだって人を惑わせる。
アランの言葉が本音かもしれない。
それでも、本当は言いたい言葉も飲み込んでいるのだと思えば、それ以上オスカーのことについて何も言えなくなってしまう。




