第238話 静かな駆け引きの先で……
レティシアはルカから視線を逸らすと、ブローチを見つめながらため息をついた。
オプスブル家の中に鼠がいる以上、ルカが怒りを覚えるのも当然なのかもしれない。
けれど、アルフォルティアでの出来事も考えれば、今動くのは得策とは言えない。
(誰が誰と繋がっているのか、関係性も含めて見極める必要があるわ……何より、関係性が変われば、だいぶ状況が変わってくる。だけど……ルカの様子を考えれば、既に鼠が誰なのか見当がついていそうね)
彼女は暫く考えていたが、こめかみを押さえながら肩の力を抜いた。
2枚のカード……帝国に残る未来と独立の未来。
フリューネ家が帝国に残る選択をするには、アルフレッドが自力で皇帝の座を掴むしかない。
しかし、それでも数ある条件のひとつに過ぎない。
もしフリューネ家が帝国から離れた場合、恩恵が消える可能性もある。
けれど、誰かを犠牲にして成立する恩恵など、いつか必ず終わりは訪れるものだ。
それが今か先の未来か……それだけの差でしかない。
(そもそも、帝国の大地にある恩恵は、長年この世界で生きているステラさえ知らない。それなら、フリューネ家が帝国を離れたからって、恩恵が消えるとも言い切れない。それに……調べたけど、書物よりも言い伝えで残されてきた感じなのよね)
そこまで考えると、レティシアはカップに手を伸ばし、一度カップの中に視線を落とした。
そして、紅茶を飲みながら、腕を組むルカに気付かれないよう、一瞬だけ視線を向ける。
(今のルカなら、もしかしたら何かしら知っているかもしれないけど……聞いたところで、彼が話すような気もしないのよね……)
完全に冷え切った紅茶は、まるで今の状況そのものだと思いながら、彼女は息を吐いた。
けれど、一息ついたところで気持ちは軽くならず、逆に思考だけが沈んでいく。
(知りたいことも、追及したいことも多いのに、どこまで行っても足元が冷えていくような感覚が消えない……。お母様のことにしろ、結晶化にしろ、新しい情報が入ってこないのは……ルカの仕業でしょうね。……アルフォルティアのことからせめて、ルカに情報を吐かせるべきかしら……)
彼女はカップを置くと、執務机の上で手を組み、少しだけ前かがみになって肘をついた。
そして、一度だけ視線を軽く下げると、ルカに視線を向けながら、両親指の上に軽く顎を乗せる。
「そういえば、アルフォルティアの件はどうなったのかしら? アルフレッドがどのように皇帝陛下に報告したのか、もう情報は掴んでいるのでしょ?」
「アルフレッドの報告は、基本的に俺がお前に渡した報告と似てる」
ルカの細かな視線運びを見ながら、レティシアは少しだけ思考すると、ロレシオとアルノエに視線を軽く流した。
けれど、特に2人に変化が見られず、横目でニルヴィスの方をチラッと見てから、再びルカたちの方に視線を向ける。
「そう、それじゃルシェルの方はどうなの?」
「それに関しても、報告書に記載されてたと思うが?」
ルカは淡々と答えると、レティシアがこちら側の様子を窺っているのだと悟った。
しかし、この状態で動きを見せれば、彼女が気付く可能性がある。
何食わぬ顔で彼女から少し顔を背けると、右の肘掛けに頬杖をつき、静かに目を瞑る。
「そうなると、ミネルバのことも報告書どおりってことね……」
レティシアの声を聞き、ロレシオはほんのわずかに全身から力が抜けた。
けれど、数秒してから「はぁ……度忘れしてしまったわ」と言った彼女の声が耳に届き、思わず視線が下がってしまう。
彼女が度忘れするのは珍しい……。
疲れているのかと心配していると、「――ロレシオ」と名を呼ばれた瞬間、鼓動が大きく跳ねたかと思えば、一瞬で緊張が走る。
ルカの方を一瞥したものの、目を閉じたルカの思考が読めず、背筋に嫌な汗が流れる。
「悪いのだけど……私の手元にあった報告書はレイが持っているの。ミネルバのところに何が書かれているのか、報告してくれるかしら?」
平然を装いながらも、ロレシオは「はい」と返答すると、テーブルにある報告書に目を移した。
それから、ほんのわずかに息を吐き出し、「――レイ様、少し報告書よろしいでしょうか?」と言いながら手を伸ばす。
しかし、「あら?」とレティシアの声が聞こえると、瞬時に手が止まる。
「ここに来る前、報告書をルカから渡されたのでしょ? それを答えればいいわ」
「……まだしっかり読んでいないため、曖昧な返答になりますが……それでもよろしいでしょうか?」
ロレシオは手を止めたまま尋ねたが、「ええ、構わないわ」と言われると、手を引っ込めるしかない。
大きく息を吸い、彼女が何を聞きたいのか思考しながら、短く息をついて気持ちを落ち着かせて話す。
「では……ミネルバに関してですが、レティシア様たちが去った後、彼女が行方不明者のリストを作成したようです。その後、リストを皇帝陛下に渡しています。また、彼女の元には来客が頻繁にあるようです」
「来客が誰なのか把握しているの?」
レティシアの声はとても穏やかに聞こえ、それが返ってロレシオの不安を煽った。
最初に読んでいた資料の内容を思い出そうとするも、後からルカに渡された資料がどうしてもちらつく。
どの情報を彼女が持っているのか分からず、彼女の目を見て話すことができない。
「はい、それについても報告書には、領民と書かれていた気がします。うろ覚えですみません」
「構わないわ。それじゃ、彼らの会話までは分からないわね……後で、彼女が作ったリストを、私も見ることは可能なのかしら?」
返答しやすい問いが来ると、思わずロレシオは彼女と目を合わせてしまう。
そして……。
「皇帝陛下の手元にあるため、陛下が許可を出さない限り、厳しいかと思います」
と答えた瞬間、「そう……」と言った彼女の口元が上がったような気がした。
それでも、視線を彼女から逸らすこともできず、耳に鼓動の音が聞こえる。
「私たちが帰る前、彼女があった人物については?」
「アルフレッド殿下とアルティア辺境伯にお会いしたかと……。申し訳ございません、そこまで記憶にございません」
咄嗟に視線が下がりそうになったが、ロレシオは彼女の目を見ながら答えた。
穏やかな声とは違い、明らかに彼女はこちらの様子を観察している。
それが分かったところで、彼女が何を見て判断しているのか分からない。
声色、視線、小さな動き……。
だけど、それだけで判断しているとは思えない。
「ルカ? さっきから黙っているけど、彼女が誰に会っていたのか調べたのでしょ? その後の行方はどうなっているの?」
「別に黙ってたわけじゃない。お前がロレシオに聞いたんだろ? だから、俺は口を閉じてただけだ。それで? 誰の行動が知りたい?」
ルカは呆れながら訪ねると、うっすら目を開けてロレシオの様子を窺った。
凝視しないと分からないレベルで、瞳孔がほんのわずか左右に揺れているのを見る限り、少しの動揺があったのが分かる。
彼女が観察しているのに気付いたのだとしても、魔力までコントロールしろよ……と内心でロレシオに対しての呆れが勝つ。
「彼女が会った全員よ」
「それなら、もう一度資料を読め。報告書に、全て書いてあるだろ。それに、俺も暇じゃないんだ。エディット様についての情報を、お前がいらないというなら、既にお前も読んだ内容を詳しく話すが?」
レティシアは目を細めると、ルカを真っすぐに見つめた。
直感的に、ルカたちが何か隠しているような気がする。
けれど、彼が今の会話に呆れていることは、言われなくても彼の声色で分かる。
知りたいことを天秤にかけられたような感覚に、レティシアは深く目を閉じる。
大きく息を吸い込みたい気持ちを堪え、目を開けてルカを直視すると、できるだけ冷静に「何か分かったの?」と尋ねた。
「ああ、エディット様が亡くなる前、エディット様が帝都に来て男と会ってた話があるだろ?」
「ええ、覚えているわ」
レティシアは冷淡に答えると、さらに目を細めた。
ダニエルがその情報を使って、お母様を侮辱した過去がある限り、忘れもしない。
ルカが話したかった新情報は、それなのかと思っていると、「その人物が分かった」と言われ、思わず「そう」と言いながら深く息をついた。
その男については、既にレイの協力で見当がついている。
選択を間違えたと思い、レティシアは目を伏せると、カップに視線を向けてしまう。
「それと、エディット様がダニエルに渡されてた指輪と似た物が、当時の帝都で売られてみたいだ」
続いて聞こえたルカの言葉に、レティシアは目を見開いた。
全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、微かに組んでいた手に力が入る。
それでも、気付かれないように、唾を飲み込んで彼女は話す。
「……つまり、探せば指輪が見つかる可能性があるってことよね?」
ルカはレティシアの反応を聞き、体を起こして彼女に視線を向けた。
エディット様のことに関して、そもそも彼女が食い付かない訳がない。
けれど、彼女には既に気になっている情報があった。
ならば、情報は出し方だ。
既に知っているかもしれない情報を先に出せば、知らない情報が出た時、人は興味を惹かれやすくなる。
そして、「確定ではないけどな」と素っ気なく告げると、彼女の様子を見ながら食いついたと、彼は内心で微笑んだ。
「指輪が見つかれば、お母様がどうして奇病に罹ったのか、調べられるかもしれないわ……」
「本当なら、指輪を見つけてから、この話をすべきだったが……お前の知ってのとおり、裏切り者がいる以上、安易に動けないんだ……悪いな」
「いいえ、あると分かったのなら、こちらでも調べてみるわ」
レイはレティシアの様子を見ながら、(まんまとルカに乗せられたな……)と思った。
しかし、彼女の方に視線を向けると、彼女と視線が重なる。
その瞬間、乗せられていると気付きながらも、彼女がルカの話に乗ったのだと分かった。
人をやめそうな彼女の綱を、いつもルカは手繰り寄せて彼女を人に戻す。
2人が互いをどう思っているのかは、正直に言えば分からない。
けれど、曖昧な関係性でも、少しだけ羨ましくも感じられる。
カップに手を伸ばし、一口だけ飲んで、カップに残る紅茶を見つめる。
喉を通り過ぎた紅茶に味はなく、「ああ、頼むよ」とルカの声が聞こえ、小さなため息がこぼれてしまう。
「レティシア様、一ついいですか?」
アルノエの声が聞こえ、レティシアは「何かしら?」と聞き返した。
このような場で、彼が自ら発言するのは珍しい。
そして、真っすぐアルノエに視線を向けると、彼の瞳がわずかに揺れる。
「資料には、光の柱について書かれてましたが、レティシア様はどのように考えているのでしょうか?」
「そうね……それについては、ライアンにも協力してもらってから、あなたたちにも報告するわ」
ルカはレティシアの返答を聞き、思考を巡らせた。
魔法関連の知識なら、レティシアの方がライアンよりも詳しいはずだ。
そもそも、光の柱については、あの時の様子を思い返せば、彼女は何か知っている可能性が高い。
それなのに、なぜライアンに協力を仰ぐ必要があるのか、疑問が残る。
「分かりました。しかし、行方不明者が出ている以上、早急に対策を練る必要があります。そのため」
「分かっているわよ」
レティシアはアルノエの言葉を遮り、ぴしゃりと言い切ると、静かに目を閉じた。
(光の柱について、今世で分かっていることは何もない。私が知っているのは、全て彼らが知らない、過去の別世界の知識でしかないわ。もし、この世界に存在しない魔法であれば……、光の柱について語った時点で、どこで知った知識なのか追求される……。それに、もしこの世界に存在しない魔法なら、その魔法の知識を教えた人物も、私と同じ転生者の可能性もあるわ)
ふと目を開けながら息を吐き出すと、レティシアは一瞬だけブローチに視線を向けた。
点滅をやめたブローチはとても静かなのに、心の中は酷くざわついている。
幼い頃はひたすら考えたことが、頭の隅で静かに語りかける。
『本当に、謎の気配と続く転生は、無関係だったのか?』
彼女はもう一度目を閉じると、深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出していく。
いつ終わるかも分からない人生。
生きている間に、何を残し、何をしてやれるのか……
生きることや守ることに必死だった頃は、考えもしなかったことだ。
愛を知って弱くはなった。
けれど、愛を知ったからこそ、何かしら生きた証を残したいとも、考えてしまう……。
それが悪いことだとレティシアも思わないが、残されるものがどう思うのか考えると、少しだけ胸がチックと痛んだ気がした。




