第182話 禁書庫が語る禁忌
神歴1504年8月7日。
レティシアはニクシオンに連れられ、オクター共に大きな扉の前に立っていた。
黒い扉には細かい堀細工の装飾が施されているように見えるが、目を凝らして見ると全てが術式だと分かる。
ニクシオンが手をかざすと、その部分にある文字が赤く光り、徐々に手がかざされている場所から赤い光が広がり始める。
けれど、綺麗な線を描いていた赤い光は、青白い光に変わると先程まで扉にはなかった装飾が浮かび上がる。
そして、再び赤い光に変わると、青白く光っていた部分も赤く光り出す。
暫くすると、黒い扉が赤い光に満たされ、綺麗な魔方陣が姿を現す。
「……凄い……こんなの見たことがないわ」
鈴を鳴らしたような声がその場に響くと、ふふふと笑うニクシオンの声が広がった。
「もし、これと同じ物を見たことがあると言われたら、私が驚きますよ。先程、レティシアさんの名前も扉に刻みましたので、あなたもここに立ち入ることが、できるようになりました。しかし、ここが暗黒湖に近いのを忘れないでください。そして、あまり長居しないように気を付けてください」
鏡に映し出したように、レティシアのロイヤルブルーの瞳には魔方陣が映っている。
彼女の方に顔を向けているニクシオンの視線は、静かに留まっているように見え、まるで彼女を気にかけているかのようだ。
しかし、壁に寄り掛かっていたオクターは、ため息をつき、興味がなさそうに顔を背けた。
どこか彼の表情や行動は、この状況に対して不服とも取れる雰囲気が漂っている。
「ええ、分かったわ。今日は2人が付き添ってくれるの?」
「いいえ、私は扉にレティシアさんの名前を刻みに来ただけですので、この後はオクターに任せます。オクター、よろしいですね?」
オクターは視線を向けられると、まじまじとニクシオンを見つめた。
昨晩、ニクシオンから説明はあったが、その時のオクターはここに彼女を連れてくることに反対した。
それでも聞き入れてもらえず、結局ここに来たのも彼の意思ではなく、王が命令したからでしかない。
その事実が密かに拳を握らせ、滑るように唇を噛むと、思わず舌打ちをしてしまう。
そして、苛立ちからレティシアの方を一瞬睨むと、不満が深いため息としてこぼれる。
「分かっています。最悪の場合は、蹴ってでも外に追い出しますよ」
「はぁ……オクター、彼女に対しての無礼は認めません」
ため息をつきながらニクシオンが言うと、オクターは奥歯をギリっと鳴らし、更に拳を強く握りしめた。
「分かりました。以後気を付けます」
「それでは、レティシアさん、決して無理をなさることがないようにお願いしますね」
ニクシオンはレティシアに対して微笑むと、扉の前を離れるために歩き始めた。
背後で話し声は聞こえず、2人が口を閉ざしているのが容易に想像できる。
靴音だけがその場に響き、少しだけ本当に大丈夫なのかと不安が過ぎる。
けれど、やらなければならないこともあるため、オクターに任せるしかないと思った。
「「……」」
オクターはニクシオンの姿が見えなくなると、「はぁぁああ」と声を出しながらため息をついた。
「めんどくせー。調べることがあるなら、早くしろよ愚者が」
レティシアは呆れて首を左右に振ると、深く息を吸い込み、小さく吐き出した。
そして、襟足を右手で軽くかくと、オクターの態度が幼稚に見えた。
「……お兄さんの姿が見えなくなった途端、早速悪態を付くのね」
「どうでもいいだろ。一秒でも愚者といたくないだけだ。何? 兄様にこのことを言うのか?」
オクターは苛立ちを隠すこともなく言うと、しらけた表情をしているレティシアを嘲笑った。
「別に、言わないわ。ただ、あなたがニクシオンの補佐官だと聞いていたから、気を使うべき相手だと考えていたけど、気を使わなくていい相手だと分かっただけよ」
呆れたようなレティシアの声が響くと、オクターは鼻で笑い「それは良かったな」と言った。
そして、彼はそのまま扉に手を当て、グッと力を入れるように押す。
扉は低音を響かせながらゆっくりと動き始めると、次第に禁書庫が姿を現す。
レティシアは書庫の中に足を踏み入れると、不思議な気分になり辺りを見渡した。
禁書庫の壁一面には無数の本が整然と並べられており、長いはしごが本棚に寄り掛かっているのが目に付いた。
照明は柔らかく、静寂で落ち着いた雰囲気は、どこか禁書庫には似つかわしくないとすら感じた。
紙とインクの匂いが交じり、本棚には初めて見るタイトルの本が並ぶ。
初めて来る場所にもかかわらず、なぜだか初めてだと感じられない。
そして、フリューネ家の書庫に似ているのだと思った瞬間、彼女の口は自然に動いていた。
「扉はすごかったけど、禁書庫の中は……似ているわね……」
「……入ることが許されたんだ。勝手に読みたい物を読め。ただし、持ち出そうと考えるなよ」
オクターの言葉を聞き、レティシアは近くの棚に手を伸ばし、彼の言葉を理解するために一冊の本を取り出した。
表紙をめくると、何の変哲もないように見えた。
しかし、目を凝らして視ると、表紙の裏に魔方陣が描かれているのに気付いた。
(これなら、魔力の視えない者が見たら、まず気付かないわね。そして、持ち出した事に気が付かないだろうと、高を括って持ち出す人もいるでしょうね)
彼女は冷静にそう思うと、魔方陣に何が描いてあるか読み解く。
「持ち出した瞬間、本が灰になるのね……そして、持ち出した人には、罪人の烙印が押される」
「見ただけで分かるのか、そりゃーすげー。それなのに、行動は愚かで浅はかだ」
オクターは小馬鹿にして言うと、レティシアがため息をついたのが分かった。
そして、ゆっくりとこちらを向いた彼女の表情は、冷静そのものに思えた。
だが、瞳を見た瞬間、本音は別にあると直感した。
重なった視線の先にあるロイヤルブルーの瞳の奥には、かすかな怒りが滲んでいると感じられたのだ。
本当に愚かで浅はかだと呆れ、思わず首を左右に振ると鼻で笑ってしまう。
「この街に来た時、深く考えないでニクシオンの忠告を無視したのは謝るし、ステラを助けてくれたことは感謝しているわ。だけど、あなたに愚者だと罵られる筋合いはないわ」
「……愚者は愚者だ。残される者のことを少しも考えていない時点で、お前は愚者でしかない」
レティシアは本に視線を戻すと、彼の言葉を否定できなかった。
散々、記憶を失う前のルカに『自分を大切にしろ』と言われてきた。
その言葉は、ただ立場上口にしていると考え、その言葉に込められた想いまでは考えなかった。
しかし、残される側に立った時、その言葉に込められた想いを理解できた。
それなのに、また同じことを繰り返してしまったのは、紛れもない事実だ。
情けなくて、悔しくて、レティシアは本を閉じると、本棚に戻した。
そして、軽く息を吐くと、できるだけ冷静に答える。
「もういいわ。愚者と呼びたいなら、勝手に愚者と呼びなさい」
レティシアは言い切ると、オクターに背を向けて歩き出した。
視線は本棚に置かれている本の背表紙をなぞり、気になるタイトルがあると本を手に取った。
そして、パラパラとめくり、書かれている内容に目を通す。
一冊読み終わると本棚に戻し、また次の本に手を伸ばす。
手に取った本は、どれも他の大陸に関する歴史だったり、魔法に関する本ばかりだ。
一方、オクターはレティシアから少し離れた場所を歩き、彼女が立ち止まると同じように立ち止まり、本棚に寄り掛かりながら彼女を見つめていた。
本を広げると、ペラペラと紙がめくれる音が聞こえ、一瞬ちゃんと読んでいないようにも思えた。
けれど、彼女の横顔は真剣で、目の動きからも本を読んでいることが伝わってくる。
しかし、顎に触れて考え込む姿を見た瞬間、オクターは思わず笑みを浮かべた。
聞きたいことがあったのか、彼女が一度こちらを見るが、すぐにまた本へと視線を戻す。
その瞬間、オクターは首を少しだけかしげると、感情を押し殺してゆっくり口を開く。
「……お前、かわいいものは好きか?」
「ええ、好きな方だと思うわ」
レティシアは不審に思いながらも答えると、本の続きを読み始めた。
これも違うと思いつつ、最後まで読むと本棚に戻し、背表紙をなぞりながら一歩進む。
そして、探していることに関連がありそうな物が見つかると、指を掛けて手に取り読み始める。
サラサラとページをめくり、書かれている文字を瞬時に目で追う。
気になる記述が見つかると、片手で本を持ち、右手をそっと顎に添えて思考を始める。
「……お前、人と関わること、好きか?」
またか……とレティシアは思うと、深くため息をこぼした。
「……嫌いではないわ。さっきから何なの?」
「いや、別に……聞いただけだ」
レティシアは苛立ちを吐き出すようにため息をつくと、再び本に視線を向けた。
書かれている他大陸に関する歴史は、どの本も魔族の視点で書かれている。
そのため、本当の歴史を客観的に書いているようだと感じた。
そこには、人の思惑や疑念は省かれ、ただ出来事して綴られている。
読み終わると、同じように次の本に手を伸ばし、書かれていることだけを情報として処理する。
本来、歴史はこう書かれるべきだとも考えるが、同時に勝者が歴史を語るのも否定できない。
けれど、書かれている歴史は、どれも見たままに書かれており、過去の魔族は他の大陸と深く関わっていたのだと分かる。
そのことが、彼女に妙な違和感を与え、仮説を立ててしまうくらいには、謎が深まっていく。
「……お前、青空は好きか?」
「本当に、さっきから何なの? 邪魔するなら、もう黙ってくれない?」
レティシアは思考を邪魔され、胃が焼けるような感覚に襲われたが、できるだけ冷静に答えた。
しかし、「答えろよ」と強い口調でいうのが聞こえると、うんざりと感じてため息をついた。
質問の真意が見えず、かといってオクターの考えも分からない。
このまま無視すればいいだけだとも思うが、仕方いと諦めて小さく息を吐いて答える。
「……ええ、嫌いじゃないわよ。それがどうしたのよ」
「いや、別に……」
思わずオクターは視線を逸らしたが、それでも気になって彼女を見てしまう。
この塔には幼い上級魔族はいるが、立場上触れ合う機会がない。
彼から見て幼い少女が、本を真剣に読む姿は、彼の遠い記憶を呼び覚ます。
健気に笑う黒髪の少女は、分からないことがあるとこちらを向いて訪ねてくる。
他大陸の花を見ながら『かわいい』と言い、この塔に暮らす人と嬉しそうに話していた。
そして、他の大陸に関することを聞く姿は、希望に満ちた瞳をしていた。
目の前に少女とは髪の色も、瞳の色も違い、別人だと理解している。
それでも、彼は禁書庫にいるレティシアを、遠い記憶と重ねてしまう。
「なぁ、お」
「いい加減にして! 今は時間がないの! 私は邪魔しないでと言ったわ!」
オクターの言葉を遮り、レティシアの怒声が禁書庫に響いた。
紙のめくれる音も聞こえず、まるで時が止まったかのような静寂がその場を支配する。
暫くすると、頭を押さえるレティシアとは対照的に、バツが悪いように下を向くオクターの姿がそこにはあった。
けれど、「悪い……」と弱々しいオクターの声が響くと、紙をめくる音が静かに禁書庫の中に広がり始める。
「もう邪魔しないで」
レティシアは冷たく言い捨てると、本を棚に戻して別の本を開いた。
けれど、無意識に手に取った本は、彼女の思考を一瞬だけ止めてしまう。
(これは……『冥歴2491年ベルグガルズ大陸の西部を白い光が包み込み、一瞬にして白い光は赤く染まった』……西部と言えば、ちょうどヴァルトアール帝国がある場所よね……この白い光は、もしかしたら原初の力が暴走したことを表しているのかもしれないわね。でも、魔力暴走だとすると、『その後に大地は新たな力を得、新しい芽吹きに埋め尽くされた。白い光が赤くなった瞬間、膨大な力が生まれ、力を与えたのである』これは……間違いでしかないわ……これを書いた魔族にはそう見えたのね……なぜか胸騒ぎがするわ……)
レティシアはそう思うと、歩き出して本の背表紙を次々になぞった。
焦る気持ちは「違う、違う」と声と現れ、わずかな苛立ちは足を速めた。
本棚を変え、同じように探していく彼女の口は自然に開き。
「これじゃない、これでもない、違う、違う、これじゃない」
と似たような呟きだけを繰り返す。
パタパタと足音が響き、「何さがしてるんだよ」とオクターの声が彼女を追い掛ける。
それでも、彼女の足が止まることはなく、「なぁ!」とオクターの声が彼女の声に交じって響く。
禁書庫の奥に向かうにつれ、歴史的な書物は無くなり、魔法に関する本ばかりが目立つ。
しかし、ふと足を止めたレティシアの口が開くと、「最悪……」という声が静かに響いた。
先程まで読んでいた本とは違い、二倍はありそうな大きさの本を本棚から取り出す。
けれど、彼女はその本を手に持つことはなく、ドンッと音を立てて床に落ちた。
そして、床に膝を付いた少女は、食ういるように文字を指でなぞった。
(赤い結晶は、全ての望みを叶えてくれる……王の反対を押し切り、冥歴2495年知識を持った人族と、ベルグガルズ大陸にて共同研究開始……計算段階の材料は……多くの魔力を持った物質……精霊石……失敗、精霊石禁止……、魔石を使用、失敗……失敗……大量に使ったところ、わずかばかり、力を持った薄紅色の石を生成……これは、魔法というより、錬金術に近いわね……)
レティシアはそこまで読むと、息を深く吸い込んで唇を噛み締めた。
指先が震えたが、それでも文字を追う速さは増していく。
(人族は、材料に動物を提案……大量の魔石を混ぜて実験。失敗、わずかばかり、力を持った赤い石と生命が感じられない物体を生成……人族は材料に魔物を提案……しかし、魔族は研究するべきではないと判断……冥歴2499年、世界の理を考え、魔族はこの研究を闇に葬ることに決める……同時に、人族にも禁じる……以降、禁書庫に管理……)
レティシアは最悪の事態を想像し、呼吸が苦しくなって胸に手を当てた。
そして、正しく息をしていないことが分かると、胸元の洋服を掴んだ。
それでも、息を整えようとしても、うまく吸えずに喉が詰まった気がした。




