第170話 漂う霧と揺らぐ心
神歴1504年7月22日。
レティシアは窓を開くと、波の音が部屋の中にまで届き始めた。
彼女は大きく息を吸い込むと、淡々とした様子で口を動かし始めた。
「物語の始まりなら、見上げれば青空が広がり、吹く風は心地よい……とか書くのかしら……?」
『この空を見て、よくそれが言えたわね』
ステラはレティシアを見ながら呆れた口調で言うと、窓から見える空に視線を戻した。
昨晩と変わらず、空は分厚い雲に覆われており、港町には視線を向ければ、薄暗さと霧が漂っている。
魔の森にいた頃でも、このような空と雰囲気を感じたことがなかったため、警戒心がいつまでも解けない。
「仕方ないでしょ? 唯一空が変わったと思ったら、空に紫色の閃光が走っただけだったのよ?」
『この大陸にいる間は、この空に慣れなさい。変わることはないと思うわよ』
「空が変わったら、雲に穴が空いた時だけね」
レティシアの言葉を聞き、ステラは大きなため息をついた。
帝国では大地から感じるマナが多かったが、リスライベ大陸は大地と空からマナが感じられる。
そのため、ステラは些か息ぐしいと思い、一晩が経つと体がむくんで眠いと感じた。
しかし、レティシアが朝早くから、首輪に新たな付与術を施してくれたおかげで、感じていた不調も少しばかり解消されている。
『そうね……それなら、ステラが空に穴を開けようか?』
「それこそ意味がないと思うわ。きっと、空に広がる雲は、大地から溢れたマナの影響よ。大陸全体に広がっていると思われる霧も、この大地から離れようとしていないように感じるわ。その結果、船からリスライベ大陸を見た時に、ドーム状に覆われているように見えたのよ」
『正直な話、レティシアはリスライベ大陸をどう見た?』
ステラは冷静に尋ねると、レティシアを纏う雰囲気が変わった気がした。
ロイヤルブルーの瞳は神秘的に感じられ、彼女が普通ではないのだと告げているようにも見える。
消えてしまいそうな雰囲気さえ感じられ、ステラは瞬時にレティシアが過去を思っているのだと考えた。
『そうね……アランたちの発言から、帝国には魔族の情報が少なかったみたいだけど……私が持っている魔族の知識から考えると、リスライベ大陸に対して不自然に思わなかったし、まぁこんなものかと納得したわ』
『なぜ、レティシアはそう思ったの?』
レティシアはステラの雰囲気が変わると、一泊置いて息を吐き出した。
すでに、ステラはレティシアの過去の記憶を覗いている。
そのことを考えれば、話すのを躊躇う理由はどこにもない。
それでも、浮かび上がる遠い記憶の人々を思えば、どこか寂しさを覚えると同時に懐かしくも感じる。
(不思議ね……きっと、自分の中にある感情を知る前なら、単純に寂しさと悲しみしか抱かなかったわ……でも、今は彼らの笑顔や声が私の中で生き続けているようにも思うわ)
彼女はそう思うと、微笑みながらそっと胸を優しく押さえた。
『過去にいた世界では、魔族は影や闇に結び付ことが多く、別の世界で会った魔族も暗いところで暮らしていたわ。それに、彼らの住んでいた場所には、高濃度のエネルギーが存在していたのよ。だから、リスライベ大陸の上空を見た時、すぐにマナが含まれているのか視たし、漂う霧にも含まれているのか視たわ』
『……だから、ステラの首輪に付与術を施したの?』
『ええ、始めは大丈夫かと思っていたけど、朝方になるにつれて、ステラの体に変化が見られたからね』
窓を閉めたレティシアが答えると、先程まで聞こえていた波の音が遠くに感じられる。
つかの間の静寂が訪れるが、ステラがレティシアに近寄ると、彼女はゆっくりとした動作で顔を上げた。
『レティシアは、なんともないの?』
『全くないわ。多分だけど、私たちには大きな影響はないと思うの。だけど、ステラは違うわ。そもそも、エルガドラ王国からヴァルトアール帝国に渡った時、ステラには影響があったでしょ? そのこともあったから、ステラに変化が起き始めた時点で、影響が起きているのだとすぐに思ったわ。だから、体内に取り込めるマナの量を、調節する付与術を刻んだわ』
淡々とした様子で話したレティシアと対比するように、ステラの方から小さな舌打ちが部屋に響いた。
『……迂闊だったわ……停滞したマナの存在までは考えていなかったわ』
『普通はそうだと思うわよ? 特にヴァルトアール帝国ではありえない現象だからね。それよりも、出掛ける準備をしないと、集合時間に遅れてしまうわね』
レティシアの声はどこか冷静に聞こえ、今の状況が異常なんだと告げているようだとステラは感じた。
何事もないかのようにベッドに座って髪の毛を整える姿は、薄暗い部屋でも彼女の肌と髪の毛を浮き立たせている。
わずかな光を帯びた髪は夜空を思わせ、肌は陶器のように白く滑らかだ。
ステラはレティシアの隣に飛び乗ると、彼女の膝に頭を乗せて、なでてもらうのを静かに待った。
一方、リスライベ大陸から遠く離れたヴァルトアール帝国、帝都にあるアルファール大公家では、アルフレッドが頭を抱えていた。
目の下にはクマができており、時折ペンを握る手が怒りに震えているようだ。
机には積み上げられた書類が並び、そのどれもに魔法が施されたような気配がある。
「ボクが一体何をしたというんだ……」
疲労の限界を迎えたアルフレッドは、椅子に身を任せると深く息を吐き出した。
瞼を閉じると猛烈な目眩に襲われ、彼は重たい瞼を上げると、机の上に積み上がられた書類を見つめた。
眠気は感じているものの、閉じた瞼の不快感のせいで目を閉じることができない。
意思とは関係なく自然に口が開き、大きな欠伸が漏れる。
「眠い……疲れた……もう帰りたい……」
アルフレッドは弱音を吐き出すと、積み上げられた書類を指でなぞった。
(レティシア嬢がボクに何を期待してるのか分からないけど、彼女が学院に来てないことを考えれば、頼まれたことは終わらせるべきなんだろうけど……やってもやっても終わりが見えない……そもそも、なんでボクがフリューネ侯爵の仕事をしなきゃいけないの?! どう考えても、皇子のボクじゃなくてフリューネ家にいる家令がやるべきだろ!)
ノックの音が聞こえると、アルフレッドはドアの方に視線を向けた。
そこに現れた微笑んでいる執事にすら、わずかな苛立ちを彼は感じてしまう。
思わず感情のまま睨むと、今度は執事が満面の笑みを浮かべた。
「アルフレッド殿下、おはようございます。本日の分をお持ちしました」
「パトリック……フリューネ家はそれでいいのか?」
パトリックは首をかしげると、冷静に「と申しますと?」と聞き返した。
しかし、憤りが含まれたようなため息が耳に届き、彼もまた内心で深いため息をついてしまう。
それでも表情には出さず、今度は反対側に首をかしげた。
「いや、だから、部外者であるボクが、フリューネ家の領地や経営に関する書類を処理しても、本当にそれでいいのかって聞いてるんだよ」
「あーなるほど、構いませんよ」
冷静にパトリックは言うと、真っすぐにアルフレッドを見つめた。
レティシアとは違い、彼からはまだ幼さが感じられ、無意識に2人を比べた。
呆れて首を左右に振りたい気持ちすら湧くのに、それでも冷静に話の続きを話す。
「自分はフリューネ家に仕える執事です。そのため、レティシア様の意向には従いますし、主の考えもすでに聞いております。それに、最終的判断はジョルジュ様が致しますので、問題もないと思っております」
「少しも今の状況がおかしいと思わないのか?!」
「ええ、全く。レティシア様が無意味なことをなさらない御方であることは、フリューネ家に仕えている者であれば分かっております」
淡々とした様子で話したパトリックとは違い、呆けたようにアルフレッドの口が開いている。
一瞬パトリックが顔を下げたが、再び正面を向いた顔には微笑が浮かんでいる。
「他にお聞きしたいことや、言いたいことは御座いますか?」
「いや……本当にいやなやつだと思っただけだ……」
パトリックはアルフレッドがため息をついて言うと、無理やり口元だけで笑みを浮かべた。
彼は少しばかり間を開け、落ち付くために微かに息を吐き出すと、できるだけ冷静に話し出す。
「……アルフレッド殿下、それでしたら自分からも一言よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「アルフレッド殿下がアルファール大公家に来てから、20日経ちました。溜まっていた仕事が2日分ありましたが、それでも22日分の仕事量しかありません」
アルフレッドはパトリックが何を言いたいのか理解できず、眉を顰めて「だからどうした?」と尋ねた。
それでも、見つめてくるパトリックの表情は変わらず、わずかな不安が彼の中に広がった。
「実際のところ、これらの書類には重要なものは含まれていません。それを考えればいつもの半分しか、ここにありません。しかし、レティシア様はいつもそれを学院が終わってから取り掛かり、夕飯時には終わらせていることが多いです。自分が言いたいことは理解できますか?」
「はぁ……本当に信じらんねぇ……」
深くため息をついたアルフレッドは、目の前の書類に目を向けると、投げやりに呟いた。
単純に考えれば、仕事の効率を比較され、改善の余地があると思わせる内容なのかもしれない。
しかし、それだけであれば直接言えば済むことで、考えさせる必要はない。
(レティシア嬢が学院に来なくなったことで、貴族の中にはフリューネ家が独立しようとしてると考えてる者も増えた。――彼らがそう考える背景には、少なからず伯爵以上の貴族が代々帝国の掟を守ってきた背景があるんだろうな……)
考えれば考えるほど、彼女の行動が単純な理由だと思えず、アルフレッドはそっとこめかみを押さえた。
すでに疲労で停止したい脳は、頭痛という現象で肉体に休息を求めているようだ。
(……『光と闇が紡ぐ守りの約束』……か……もしかしたら初代皇帝は、ボクが考えてた答えとは違う未来を、帝国創立時に考えてたのかもな……それに、パトリックの言ったことを考えると、少なくともこれはボクにも関係ある思惑が……いや、もしかして……)
アルフレッドはそう思いながら視線を上げると、パトリックと視線が重なった。
ダークブラウンの瞳は何も教えてくれず、それでも笑みが浮かぶ口元は、良く考えて発言しろと言っているようにも見えた。
「では、学院に遅れないようにお願いしますね」
パトリックは丁寧なお辞儀をすると、アルフレッドに背を向けて歩き出した。
背中に感じる視線はやはりまだ幼く感じ、もう少し隠せるようになればと思った。
彼はドアノブに手を置くと、一瞬そのことを言おうと考えたが、レティシアの言葉を思い出して辞めた。
そして、ドアを開けると、何も言わずに部屋の外へ出て行く。
ドアが閉まる瞬間、部屋の中からため息が聞こえ、彼は笑みを浮かべた。




