第168話 記憶と誓いの重さ
市場は広場に位置しており、霧に霞んでカラフルな屋根の色がくすんで見える。
少しでも薄暗さを解消するためか、市場の至る所には魔力の結晶を組み込んだランタンが配置されている。
それでも漂う香りは、幻想的な町並みとは違い、確実に現実味を持たせている。
レティシアとアランは、市場に並ぶ出店の店主に話しかけていた。
アランが気さくに話しかけると、レティシアが相手を持ち上げるように話す。
言葉巧みに情報を聞き出そうとする2人は、息がぴったり合っているように見える。
店主が満面の笑みを浮かべ、聞かれたことに答えているのを見ると、相当誘導されているようにも感じる。
次第に彼らの周りには人が集まり出し、笑顔を浮かべて話すアランとレティシアが、町に溶け込んでいるようだ。
「やっぱいいね。王女に向いてると思わない?」
少し離れたところで、アランとレティシアを見ていたクライヴは、なんの前触れもなく唐突にそう言った。
彼の声は自信に溢れた物とは違い、どこか不安が交ざったように弱々しいと、静かに聞いていたステラは思った。
彼女は前足に乗せていた顔を上げると、レティシアを見ながら落ち着いて答える。
『……ステラは、どうとも思わない。レティシアが決めたなら、ステラはレティシアに付いて行くだけ』
「そっか……それならさ……アランがどう思おうと、僕はすでに彼女を主の番だと認めてるから、ステラもアランとレティシアを見守っててよ……2人が上手くいくように……それで、2人の仲を邪魔したりしないでくれると助かるよ」
黄緑色の瞳で真っすぐ2人を見つめ、片方の耳が立てられているのに対し、片方は垂れ下がっている。
ふさふさの尻尾を体に巻き付けているクライヴは、それだけ言うと尻尾を膝の上にのせてなで始めた。
ステラは彼の耳がぴくりと動き、尾先が微かに震えるのを見て、内心でため息をついた。
『邪魔しないわ。レティシアがそれでいいなら、ステラは何も言わない。それに、クライヴの気持ちはステラにも分かる』
「ありがとう……それと、僕のことも考えさせて……ごめんね。でも、僕の主は彼女を惑わせたりしないから」
何度も尻尾に触れながらクライヴは言うと、両耳を立てて視線を下げた。
しかし、彼を一瞥したステラは鼻を鳴らすと、尻尾である程度のリズムを刻みつつ、両耳を左右に動かしながら話し出す。
『フェンリルであるステラが、狼獣人のこと知らない訳ないでしょ? それに、ステラだってアランと付き合い長いわ。それくらい、知っているわ』
「……うん、いろいろとごめん……ちゃんと守るから、彼女も、彼女の心も……」
クライヴの声は微かに震え、止まった手にもその震えが伝わっているのかように、手もわずかに震えていた。
それでも、視線を上げた彼の瞳には誓いの炎が宿っている。
ステラは一瞬彼を見つめ、その目の奥にある何かを読み取るかのように視線を止めた。
だが、無表情のまましばらく見つめると、再び視線をレティシアとアランに向ける。
彼女はゆっくりと深呼吸し、その場に冷静さを取り戻す。
『ステラは何も約束できない』
「それでもいいよ。僕はアランのために動くだけだし、アランのためになるなら、レティシア嬢のためにも動くだけだから」
クライヴはそう言うと静かに立ち上がり、振り返らずに歩き始めた。
ゆっくりと左右に尻尾は揺れ動き、耳は左右に動きながらも、時折小刻みに動いている。
ステラは深く息を吐き出すと、「本当に、皆青草いのぅ」と静かに呟いた。
そして、ぴょんとプランターから飛び降りると、そのままレティシアたちがいる方に歩いた。
市場では呼び込みの声や雑踏の音が響き、彼らの生活を伝えているようだ。
一方、別行動していたルカとアルノエとレイの3人は、小さな店から出てくるとため息をついた。
彼らは紙袋を抱えており、様々な香りが紙袋から立ち込めている。
周囲にある建物は、石造りの店や家々が並び、湿気に耐えられるよう工夫されているようにも見える。
建物の屋根はアーチ状で、魔力の結晶を組み込んだランタンが町角に配置されている。
3人は1度紙袋に視点を向けて、顔を見合わると、また深いため息をついた。
「これで、3件目ですね……」
「そうだね……みんな僕とルカの髪を見ると、気さくに話しかけてくれるけど、買わないって言ってるのにいろいろと押し付けてくる……」
荷物の中を覗き込んでレイは言うと、疲れた様子で深く息を吐き出した。
それに同意するように、アルノエは静かに頷くと、同じように紙袋の中身を覗き込んだ。
「ですね……魔族が住む大陸なので、御二人の髪色は大して珍しい訳ではないと思いますが、それでもこの歓迎ぶりを見ると……些か疑問を持ちます。結局、押し付けられる形で、お金も払ってませんし……」
「ボクの知識だと、通貨単位は世界共通のはずなのに、話を聞いていた限りだと、リスライベ大陸だけは違うようだった……」
遠くを見つめるようにレイは話すと、紙袋を1度持ち直した。
紙袋からは、ガサッという音共に、中身がズレる音が聞こえた。
すると、それを見ていたアルノエはレイの紙袋に手を伸ばし、いくつかの果物を自身の抱えている紙袋に入れている。
「オレも同じ認識だったので、お金に関しては大丈夫だと思っていました。しかし、あの様子だと両替という概念もないように感じられました。そうなれば、日銭だけでも稼がなければ、その日に泊まる宿も取れませんし、移動に掛かる費用も考えなければなりませんね」
「まぁ、幸いにも……食料だけは確保できたけどね」
レイはそう言うと、重たかった荷物が軽くなったことで、再び持ち直して軽くお礼を告げた。
しかし、アルノエはレイから視線をルカに向けると、俯いて考え込んでいるようにも見えるルカに声をかける。
「ルカ様? どうかなさいましたか?」
「いや……ただ……」
アルノエはルカの口が止まると、軽く首をかしげ「ただ?」と尋ねた。
すると、ルカは紙袋の中身を赤い瞳で見つめながら、落ち着いた雰囲気で息を吐き出した。
彼の視線は微動だにせず、しかし、漂う雰囲気からは何かしら考えているようにも見える。
「俺の憶測かも知れないけど、上級魔族はリスライべ大陸から長い間、出てないんじゃないのか?」
「ヴァルトアール帝国で起きた、魔族襲撃事件の影響……ということでしょうか?」
アルノエは冷静に尋ねると、ルカの視線や彼の動きを観察した。
漂う雰囲気は記憶を失う前とどこか似ており、それがひと時の安心感を彼に与える。
一方、ルカはひたすら赤い果実を見つめながら、思考をまとめようとしていた。
記憶がない分、彼が持っている情報量は少ない。
それでも、記憶を失ってから聞いた全てをまとめ上げると、ゆっくりと話し出す。
「それは分からないが、そう考えるのが妥当だと俺は思った」
「それでもさ、大陸から出てなくても、港町くらいには来るんじゃないの?」
レイは平常心を保ちながら訪ねると、赤い瞳を静かに見つめた。
向けられた柘榴のよう赤い瞳は、背筋をなぞるようにも感じられる。
心臓は大きく脈を打ち、不安な思いが表に出そうになる。
「もし、来る必要がなかったらどうだ? この港にも魔族はいるが、俺が聞いてた魔族の特徴から考えると、下位魔族しかいない。そこから考えると、中級魔族や上級魔族は別のところに住んでいて、大陸から出ないのであれば、ここに来る必要はないんじゃないのか?」
淡々とした様子でルカは言うと、レイは「それもそうか……」と呟いた。
すると、アルノエが息を吐き出し、一度開いた口を閉じ、再び開けて話し出す。
「魔族に関して言えば、ヴァルトアール帝国は過去の事件で、彼らに関する資料に閲覧制限を掛けたり処分しました。その影響が、いまさら仇になるとは……考えてもいませんでした」
「閲覧制限は分かるが、なぜ帝国は資料を処分したんだ?」
少しばかり首をかしげたルカの声は冷たく、それでいて冷静でもあるように聞こえた。
彼の視線はアルノエに向けられており、暫しの沈黙が3人の間に流れた。
海から吹く風は、ほのかに潮の香りがし、大陸の薄暗さが不気味にすら感じられる。
「すみません。それはオレには分かりません……」
「政治的な意図があったか……それ以外の思惑か、魔族が帝国を離れる条件だったか……考えられるところは、こんなところだとボクは思うけど、政治的な意図があったんなら、閲覧制限を掛けるよりも、処分した方が早い。だとすると、魔族が出した条件なんじゃないの?」
ルカはレイの話を聞くと、両手で持っていた荷物を、片手に持ち直した。
そして、彼は顎に触れて、これまでの話を思い返しながら、再び思考を巡らせた。
それでも、何故か違和感を抱き、彼は素直にそれを伝える。
「なんか引っかかるんだよなぁ……俺にはその理由が分からないけど……それだと、なぜか腑に落ちないように感じる」
「レイ様は何かお聞きになっていませんか?」
ルカを見つめていたレイは、驚いてアルノエの方を見ると、ルカを見ていたことを悟られないように目を泳がした。
しかし、アルノエの表情が変わっていくのに気付くと、気持ちを落ち着かせるために息を吐き出した。
大陸に薄暗さが、気持ちも隠してくれればいいのにと思いながら、彼は真っすぐにアルノエを見る。
「ごめん……基本的にオプスブル家だと……見つからないように自分で調べるか、頭領にならないと知らない事実が多いんだ……たとえ、頭領の代理で動いてても、この事実は変わらない。アルノエだって、ルカと誓約を結んでるのに、知らないことが多いだろ? つまり、そういうことだよ」
「そうですか……出過ぎた発言をしてしまい、申し訳ございません」
アルノエはそう言うと、静かにレイに頭を下げた。
どこまでオプスブル家が情報を共有し、どのように管理しているのか彼は知らない。
ルカと誓約を交わしていても、知らない情報の方が多いこともある。
そのことを考えれば、レイが何か聞いている可能性は低いと推察もできた。
そして、たとえ頭領代理でも、まとめる立場にいるレイが、それを明かすのは本来なら許されない。
それにもかかわらず、明かしてくれたレイに申し訳ないと思う気持ちが膨らんだ。
「気にしなくていいよ。アルノエはオプスブル家と誓約を交わしたわけじゃないし、ボクに対してそんなに畏まる必要もない。ボクは所詮代理であって、ルカが死ななければ頭領になる可能性も低い。それに、ルカの記憶も戻るし、この旅でルカは死なないから、ボクが頭領になることもない」
「悪い……俺が記憶を失ってなければ、こんな事態にはならなかったな……」
レイはどこか罪悪感を含んだ声が聞こえると、すぐにルカの方を向いた。
黒い髪からチラリと見える赤い瞳は、何を考えているのか分からない。
そのことが焦りを生み、罪悪感を抱かせてしまったと思うと胸が痛んだ。
レイの視界は歪み、慌てて口を開くと、必死に彼は言葉を並べる。
「ルカが悪いわけじゃないよ! だから、謝らないで、ごめん、ごめんね、ボクの言い方が悪かったよね。本当にごめんなさい」
ルカはレイの反応に一瞬驚いたが、ふと視線を上げると、優しい微笑を浮かべた。
視線の先には今にも零れそうなほどの涙を溜めたレイがいて、先程までとは違って幼くも見える。
まるで小さな子をあやすように、ルカはレイの頭に手を伸ばすと優しく彼の頭をなでた。
「いいや、おまえが悪いわけじゃない。俺も少し意地悪な言い方した」
レイは初めてルカの優しさに触れて、堪えていた感情が溢れた。
涙は頬を伝い、嬉しさが全身を駆け巡るように熱を持ち、心がゆっくりと満たされる。
彼は静かに「うん……」と囁くように言うと、頭をなでる手はそれでも止まらなかった。
それがより一層、長い間追い求めた兄の存在だと認識させる。
しかし、同時にルカが記憶を失ったからこそ、今の状況があるのだと理解している。
「とりあえず、魔族やこの大陸に関しての情報が元から少ないなら、他の4人とどこかで打ち合って、今お互いが持ってる情報を一旦まとめた方が良いな」
「そうですね。それじゃ、いったん我々も最初にいた場所に戻りましょう」
ルカの提案にアルノエは淡々と答えると、レイの鼻をすする音が静かに響いた。
それでも、まるで気にしていない様子でルカは短く「ああ」と言うと、ルカとアルノエは歩き出した。
だが、ふと足を止めたルカは振り返り、「ほら、行くぞレイ」と声をかけると、レイが視線を上げた。
彼は袖で拭い「うん」と答え、まるで2人を追い駆けるように、歩き出した。




